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2005年06月27日

薩摩藩上屋敷

   


薩摩藩上屋敷

慶応4年3月14日に芝・田町の薩摩藩蔵屋敷(現在:第一田町ビル)における、勝海舟と西郷隆盛の会談で、最終的な江戸無血開城が決まりました。その場所に記念碑が上記の写真のようにあります。

実はこの前日の13日、海舟と西郷は高輪の薩摩藩上屋敷(セレスティンホテル)で会見し、その後二人で愛宕山に登りました。この時に鉄舟の話題、それはかの有名な「命も要らず、名も要らず、金も要らず」という人物が鉄舟であると、西郷が賞賛したのですが、この愛宕山に登って見た当時の江戸の景観、これがイギリス人写真家ベアト撮影の写真で残っています。
そのベアトが移した場所と思えるところから、といっても高いところに上らないといけませんので、NHK放送博物館の河野学芸員にお願いし、特別に屋上から撮影してきました。
その写真と江戸時代のベアト撮影とを比較し、次回鉄舟サロンで発表いたします。

また、ベアトの撮影した写真は横幅2メートル以上ありますので、多くの建物が広角度で写っていますが、おかしなことに人物が五名しかいません。
●どうして五名しかいないのか?
●その五名とはどのような人物か?
●また、五名は何をしているのか?
についても推理解説いたします。

お楽しみに7月20日の東京文化会館(18:30)にお出でいただくようお待ちしております。

投稿者 Master : 15:43 | コメント (0)

2005年06月20日

安養寺での山岡鉄舟大居士毎歳忌のご報告

サロンのメンバーで金沢在住の北條直敬氏より、情報が寄せられましたのでご案内いたします。

本日(19日)富山県氷見市上泉の安養寺で山岡鉄舟大居士毎歳忌がございました。
臨済宗国泰寺管長 澤 大道 老師の導師で荘厳な法要でした。
国泰寺妙音会(虚無僧)の方々の尺八の法竹や池坊流献華式に始まり無双直伝英信流居合の奉納まで実に鉄舟忌らしく良かったです。
ご存知のように安養寺は本当に小さな禅寺で鉄舟さんの持佛(円空佛)を安置してございます。毎年6月の第3日曜に行われています。

研究会の圓佛公衛さんもいらっしゃいまして昨年の高山研究旅行以来の再会でつもる話で盛り上がり楽しかったです。

投稿者 Master : 11:54 | コメント (0)

シャンソンをテーマに語る

7月20日に開催の7月の鉄舟・21・サロンの講師には、6月19日にご自身のコンサートが終了したばかりの山崎礼子さんにシャンソンの魅力を存分に語っていただきます。
山本紀久雄さんには、「鉄舟研究」を講演いただきます。
参加のお申し込みは、トップ画面の例会の参加お申し込みからお願いいたします。

投稿者 Master : 11:52 | コメント (0)

2005年06月12日

鉄舟の武士道を分析

鉄舟が駿府での西郷との会見時に現れた「決死の気合と鋭い論鋒」は、実は鉄舟武士道精神の体現した姿であった。
また、この武士道精神の体現源泉は、鉄舟が将軍慶喜と上野寛永寺大慈院一室における、初の御目見えの際に、自らを追い込む言動を行うこと、そこから出し得たものである。

7月号月刊ベルダ誌の「山岡鉄舟」連載内容は、鉄舟がどうして官軍の実質総司令官であった西郷隆盛を説得できたのか、その源泉ともいえる慶喜に対する鉄舟の発言、それについて分析すると共に、西郷・山岡会見の史跡碑は「原田鉄雄・勇親子二代23年にわたる執念の賜物」で静岡市伝馬町に建立された物語も掲載している。

今回も、徳川慶喜が住居とした静岡市紺屋町に訪問し、毎回のことながら現地実態報告としての内容となっていますのでお楽しみにお願いいたします。

投稿者 Master : 17:12 | コメント (0)

2005年06月07日

福山十万石天守閣


鉄舟を訪ねる

月刊ベルダ誌に「山岡鉄舟」を連載し始めまして、その取材で各地を訪問いたしております。
今まで「鉄舟研究」というファイルで毎回研究結果を報告しておりましたが、この「鉄舟研究」内容が月刊ベルダに連載されますので、それをこのHPで発表することは、ベルダ編集長の了解が必要となってまいりますし、また、同じ内容ですと面白くありませんので、今月から「鉄舟を訪ねる」というテーマで掲載して行きたいと思います。
ベルダ誌の2005年7月号は6月29日に発行されますが、そこに掲載される山岡鉄舟は「山岡鉄舟の武士道」というタイトルで、武士道の忠義の観念と、名誉の観念、それが江戸無血開城を西郷との会見で決めたときに、鉄舟の中でどのように「忠義と名誉」が折り重なって発揮されたか。その理由と背景と鉄舟の心理を分析しております。
多分、今までの鉄舟研究家・学者の誰もが書かなかった内容で構成されているはずです。今回のベルダ連載内容は随分考えました。これからも考え続けますが、折角、雑誌で発表できるのですから、今までとは異なった解釈・分析で展開して行きたいと思っております。皆様からのご指摘を期待しております。

というようなわけでございまして、今回の7月号の取材は静岡の「西郷・山岡 会見の史跡」の持ち主である原田勇ご夫妻にお会いしたわけです。原田ご夫妻と、奥様の父上である原田鉄雄様がご努力しなければ、現在の「西郷・山岡 会見の史跡」の石碑がありえなかったのです。その経緯はベルダに掲載しましたし、徳川慶喜の屋敷跡も写真掲載いたしましたが、今回は静岡からもう少し足を伸ばし、広島県福山市に行ってまいりました。仕事もあって行ったわけですが、新幹線の福山駅前は福山城です。そこで福山城の中に入りまして天守閣を写真に撮ってまいりました。福山十万石といえば幕末期の老中「阿部正弘」が藩主です。
25歳にして老中となり、14年間幕閣を動かして39歳の若さで亡くなりましたが、その時期はペリーの来航などで騒然とした政治情勢を取り仕切ったのです。
「阿部正弘」の業績の功罪については、いろいろ見解が分かれますが、一時代の名老中として日本のリーダーであったことは間違いないところです。あの勝海舟が、あと数年「阿部正弘」が存命していたら、薩長は抗敵になっていなかっただろうと述べているほどの人材です。その居城の天守閣を今回は写真でご紹介します。

投稿者 Master : 14:54 | コメント (0)