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2006年02月05日

1月例会記録(2) 「現代に生きる武士道 5」

1月例会記録

■ 二見健吉氏 「現代に生きる武士道 5」

第5章 日本の心と魂をもって実践された先人
 「武士道」の徳目を、具体的な施政にて実践された日本の誇る先人の指導者を4人挙げてみたい。恩田木工 伊庭貞剛 菅実秀 山田方谷。

新渡戸稲造の武士道を実践されている人物を紹介し、実践に生かせるようにしたい。
The soul of Japan武士道を持っているかたの内、今回は、恩田木工と伊庭貞剛の2人をご紹介したい。

第1 日暮硯の恩田木工  (1717-1761)
二見が、二十才の時、終生の恩師となった品川義介先生にお会いした時、頂いたのが、先生著作の「日暮硯の恩田木工」(ひぐらしすずり)で三十回読みなさいと諭された。
 第二次世界大戦中、アメリカのある機関は、日本の政治や指導者を研究するために「日暮硯」を取り寄せて徹底的に研究したと言われる。私は、「日暮硯」は日本人的経営哲学についてのテキストであると思う。

1717年生まれて、松代藩の財形の債権の筆頭になったのが恩田木工(おんだもく)。
恩師にすすめられた「日暮硯の恩田木工」は中学生でも読める本だが、先生からは30回は読みなさい、と言われた本。苦しくなると、そうかそうかと読んでいる。
西郷・鉄舟とは違った形で武士道を生かしている人。
アメリカ人が日本の指導者を研究した一人として上げられたのが恩田木工。

人の心をつかむ一番の方法は「誠」。
誠=言ったことを絶対守る=嘘をつかない
言い訳する政治家には読んでほしい。

日暮硯の著者は、松代藩士馬場杉雨と伝えられている。宝暦十一年(一七六一)冬に記されている。恩田木工は享保二年(一七一七)に生まれ、宝暦十二年(十七六一)正月六日に四四才で逝去している。二宮尊徳(一七八七?一八五六)が常に座右において、人にも勧めたという説もある。
木工は一九才の時に父を失い、二三才の時城代になり、三〇才にして家老職になった。藩主に抜擢されて宝暦七年(一七五七)に家老職勝手係、今でいえば総理大臣兼大蔵大臣についた。時に四一才。

川中島の近郊に松代城がある。この城は真田幸村の弟、信之を藩祖として明治維新まで、250年間続いた十万石大名で、実に信州第一の雄藩であった。しかし、大洪水、家老の悪政や濫費が祟り、藩はどん底に落ちていた。五代藩主信安が三十九才で逝去し、幸弘公十三才が家督をついた。若き幸弘公が、恩田木工を抜擢した。
 抜擢された時、先ず家老、次に親戚、妻子、使用人、役人、庄屋百姓などとの約束、いまでいえばコミットメントを取り交わした。
   第一 江戸表での家老職との誓約  第二 国許松代親戚縁者に対し
   第三 家の使用人に対し誓約    第四 親類一同  
   第五 家老職と諸役人に対し    第六 百姓と庄屋に対し 信義を約束した
   第七 悪役人に対し

松代藩の財政が苦しかったときに、木工は30歳で家老に抜擢されて、40歳で総理大臣についた。財政再建のために人の心をつかんだやり方は圧巻。
13歳という若い藩主が松代藩を継いだときに恩田を抜擢。財政再建を任命されたときのコミットメントのやりかたを紹介する。

最初に恩田の言ったことに違反しないという誓約をした。

2番目に恩田は国に帰って親戚、奥さん、使用人たちと誓約。
恩田は国に帰り、親戚、妻子、使用人をうちによんで、親子の縁を切り、離縁して、使用人には暇を出すと言い出した。理由は、嘘をつかないことを守るため。
恩田自身は必死で松代藩の財政を立て直すことに専念する、だが、奥さん、子供たちが嘘をついたら、それで恩田自身の信用はなくなる。また、恩田は、自分は今後一切ご飯と味噌汁以外は口にしない。着る物も木綿以外は用いない。それを実施しないと藩の財政は建て直しできない。しかし、自分がやっても家族が贅沢していては、恩田の家族ができていないのに・・・と信用を失う。
奥さんも子供も使用人もみんな、嘘をつかない、贅沢もしないことを守る。
恩田は使用人には給金は今までとおりにちゃんと支払うと約束した。
こうしてまず自分の身内を固めた。

次に城代に行き、百姓と庄屋を呼んで、約束を取り交わした。"嘘はつかない言ったことは変更しない"ご祝儀に対して"金品を受け取らない"これは賄賂を防ぐため。"年貢の督促に足軽を行かせない""藩の勤労奉仕は一切させない"そして借金を帳消しにした。その代わり年貢は、未納者がないように必ず納めてくれ。
藩の御用金は無利子にしてくれ、と。恩田は全部計算してから約束を取り交わした。

また役人がやっている悪いことを全部持ってきてくれと伝えた。

悪行は殿に見せるからと言われ、悪いことをしていた役人はびくびくしていた。しかし、悪いことをやっている人を首にしなかった。藩主は、それだけ優秀なのだから、恩田の顧問になりなさい、と相談役に登用された。

木工は在職五年を待たずして、改革半ばで病んで逝去した。木工の改革がただちに藩財政を好転させたとはいいがたいが、木工の後継者たちにより、死後五年程たって頃から改善の兆しがみえてきた。一九世紀に入ると松代藩は裕福な藩へと変わっていた。

また、学問を奨励、武芸を仕込み、神仏を拝みきっちりやった。
その後4、5年ほど経ち、恩田は45歳で亡くなる。藩の財政は急には好転しなかったが、だんだんよくなり、50年後の二宮尊徳も恩田を鏡として、二宮尊徳も村を救うひとつのお手本とした。

結論は、武士道の徳目である。武士に二言はない。嘘はつかない。木工は、武士道の徳目「誠」(誠とは武士に二言はない)の模範。

第2住友の神様伊庭貞剛  (1847-1926)

2番目に住友の神様といわれた伊庭貞剛(いばさだたけ)を紹介する。

二十六才頃、円覚寺の法友で、海軍大将山本五十六の部下だった故佐波次郎海軍少将に、「幽翁」(伊庭貞剛の伝記)をお貸しし、大層喜ばれたことが懐かしい。
資本主義の勃興期、明治、大正期における経営者は当然のごとく、日本の心、則ち 武士道精神を備えていた。徳の人、言葉を変えて言えば、武士道を備えた経営者はどういうことかを知る最高のモデルとして伊庭貞剛を紹介したい。
 伊庭の真骨頂を三点上げると次ぎである。
 一 労働争議を謡曲と散歩で解決した。
 二 人の仕事のうちで一番大切なことは
   後継者を得ることといつ引き継ぐかである
 三 別子銅山への植林事業

伊庭さんは経営の神様だと思っている。伊庭さんの真骨頂は、労働産業を謡曲と散歩で解決したこと。普通なら労働争議は首を切ることがほとんどだが、それをやらなかった。また後継者についても速やかに引き継ぎ、環境問題では当時トップの考え方を持った人だった。学校卒業後司法省に勤めるが、32歳で裁判所をやめて、住友家に入り、別子銅山労働争議を解決するために48歳のときに死ぬ覚悟で謡曲、臨済録を持って向かった。
偉い人が来ると労働者が首を切られるのは常だった。彼らはいつ首を切られるのかとびくびくしていた。伊庭は飄々としており、最後は労働者たちの心をつかんだ。
大きな解雇なく大争議は収まった。伊庭は誠と仁を貫いた生きた事例である。

伊庭は弘化四年(一八四七年)一月五日 近江国蒲生町西宿(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれ、大正十五年(一九二六年)十月二十三日、七十九才 琵琶湖畔の石山の別荘で永眠した。四十四才 明治二十三年。推されて衆議院議員に当選する。しかし主家の難局(先代、当代相次いで死去)に当たりほどなく全ての公職を辞す。

 明治二十七年二月 四十八才。労働争議を解決するため謡曲師のみを同行し死ぬ覚悟で出発した。
新居浜では、かなり質素な家だった。そこから毎日 山を登ったり降りたりしただけであった。帰って謡曲をうなるだけであった。根本の問題は、人心の離散にあるとした。
全山の大動揺がしだいに収まったのは、貞剛の至誠のもつ力であった。これは、武士道で説いている勇、誠、仁の正に生きた事例である。
「翁は、大西郷のような人物であると思う。自分は直接に大西郷その人を知らない。しかし、翁に親炙し、その行動をみると、大西郷もまたこういう人物であったと思わざるをえない」という経済評論家もいる。翁は、生前大西郷から揮毫を請い受けたという。別子に足掛け六年在勤した。
翁は晩年に回顧して、本当の事業は、「別子の植林事業」だといっていた。
明治三十七年二月「実業の日本」誌上に、「少壮と老成」という感想録が発表された。

西郷や鉄舟を経済においたら、伊庭さんだと思っている。
経営のトップにいると長くその地位に居たくなるが、伊庭は4年間トップについた後には退く覚悟だった。そして実際に次の後継者を見つけて、退いた。

● 貞剛は、武士道の徳目「忠義」(国家のために住友はやる)と徳の模範。

伊庭さんは武士道の徳目のひとつである忠義の人である。

伊庭さんの言葉を紹介する。
頼みごとがあるときは、雨か風か大雪で歩けないときに頼むのが大吉。
天気が良い日は凶だ。
盲判を押せないようだったら仕事じゃない。
この人は!と思った人の仕事には盲判を押すのが人物だ、といった。

伊庭さんは、武士ではないが、武士道を体言している人である。

山岡鉄舟や西郷隆盛と比較して、良さがわかると思う。


【事務局の感想】

1月の武士道は、実践された人、体現された人を取り上げての発表でした。まさに二見さんこそ、実践されている方です。もうすこし武士道の発表は続きますが、最後に「二見さんの武士道」をお話していただきたいと思っております。

投稿者 staff : 2006年02月05日 11:25

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