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2004年08月26日

西郷との会見時における鉄舟の身分

鉄舟が徳川慶喜から直接指示を受け、勝海舟と相談し、駿府の西郷のところに向かったことは、鉄舟自ら三条公の求めに応じて書いた「両雄会心録」と題し、鉄舟自筆の石版本が公刊されているから間違いない、と大森曹玄先生が著書「山岡鉄舟」の中で述べられている。
したがって、この大森先生の説を妥当と受け入れるものであるが、そこで次の疑問が発生してくる。

それは鉄舟が徳川慶喜から直接に命令を受けたという事実である。慶喜は大政奉還した時から日本国の政治をつかさどる将軍ではなくなって、日本でもっとも石高の大きい大名となったわけであるが、それにしても江戸時代という階級社会での最上級に君臨した存在である。
その最上級の存在者としての慶喜、その人物から鉄舟という下級旗本が混乱期といえ直接御目見え拝謁し、大事な政治交渉の指示を受けることができたのであろうか、という疑問である。

鉄舟の禄高は百俵二人扶持という低い身分の御家人であった。(神渡良平 山岡鉄舟)このような身分の者が果たして徳川家の15代慶喜に拝謁できたのであろうかという、率直な疑問である。
このような素直な疑問を検討している鉄舟関係の資料に今まで出会っていないが、その当時の武士社会のことを諸資料で推量してみれば、将軍としての地位にあった人物が、一介の御家人としての立場の人物に会うことは不可能であると思われる。即ち、百俵二人扶持という身分では絶対に会えないという体制・制度が、江戸幕府の中にしっかり確立されていたからこそ265年という長期間の徳川政権が続いたのである。それだけ体制・制度が素晴らしかったといえるのである。

しかし、鉄舟は西郷との会見・交渉に行くことを、直接、慶喜から指示を受けたということは事実であるから、そこに何かの合理的理由を見出さなければ鉄舟が世に出た発端の解明につながらないと思う。これを何回かに分けて検討してみたい。

まず徳川幕府における旗本という制度を整理してみることから検討を始めたい。参考とした資料は「徳川幕府事典 竹内誠編 東京堂出版」その他である。

1.旗本の成立と人数

旗本とは、将軍の直臣で、禄高一万石未満で将軍に謁見できる御目見以上の者のことである。御目見以下は御家人といい、この両者をあわせて直参と総称した。
住いは江戸在府を義務づけられ、家禄に応じた拝領屋敷に家族と家臣とともに居住していた。
旗本の人数は時代とともに変化するが、寛政期(1789~1801)ごろの総人数は約5300人であった。 
いわゆる「旗本八万期」とは、これに幕府軍役規定による陪臣(諸大名の直臣を将軍に対して呼んだ称・・・広辞苑)の人数、約67500人を加えた数と考えられる。

ここで陪臣ということについて少し触れなければならないが、その前に将軍の家来としては大きく分けて三種類あった。
一つは大名であり、この大名は親藩と譜代と外様に分かれる。親藩は徳川家の親類大名で御三家、御三卿、家門、連枝に分かれる。
御三家は、徳川家康の九男義直を祖とする尾張家、十男頼宣を祖とする紀伊家、十一男頼房を祖とする水戸家である。
御三卿は、八代将軍吉宗の子供と孫が立てたもので、吉宗の二男宗武の創始した田安家、三男宗尹が創始した一橋家、九代将軍家重の二男重好の創始した清水家である。
家門とは、家康の次男秀康を祖とする越前家につながる津山松平家、越前松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家である。また、その他の家門大名として三男秀忠の子、家光の異母弟の保科正之を祖とする会津松平家等がある。
連枝は、御三家の支流で、尾張家支流の高須松平家、紀伊家支流の伊予西条松平家、水戸家支流の高松松平家がある。

大名のうち譜代とは、関が原の戦い以前に徳川家に仕えている一万石以上の者をいい、旗本でも加増されて一万石以上になれば、譜代大名となる。譜代大名の序列は、彦根の井伊家が筆頭で、前橋の酒井家(後に姫路)、越後高田の榊原家、出羽庄内の酒井家、若狭小浜の酒井家等が続く。
外様大名とは、関が原の戦い以後に徳川家に従った大名である。元は徳川家と肩を並べていた武士たちである。幕府は外様大名を政治には参加させなかったが、高い格式は認めていた。外様大名は領地の大きい大名が多くいた。加賀金沢百万石の前田家を筆頭に、薩摩鹿児島の島津家、奥州仙台の伊達家、長州萩の毛利家、備前岡山、因幡鳥取の両池田家、安芸広島の浅野家、出羽米沢の上杉家、伊勢津の藤堂家、肥後熊本の細川家、筑前福岡の黒田家、肥前佐賀の鍋島家、土佐高知の山内家、阿波徳島の蜂須賀家等である。

ここで陪臣に戻るが、幕府軍役規定の内容を確認していないので、明確には分からないが、陪臣とは御親藩の家来と旗本の家来をいうものではないかと思われる。

旗本の出自は、三河以来の譜代の家臣を中心にし、新たに召抱えられた駿河、甲斐、信濃などの武士、大名や旗本の分家や名家の子孫、学問や技芸によって登用された者などである。また、御目見以上の職を歴任した御家人が旗本に取り立てられることもあった。

2.旗本の役職

旗本は軍事を主に司る番方と、行政を主に司る役方に分かれる。
番方は、江戸城や二条城・大坂城の警護、将軍への随従を主務とし、大番・書院番・小姓組・新番・小十人組の五番方があった。
役方は、町奉行や勘定奉行など行政・財政に関する諸役に従事した。
無役の旗本は3000石以上を寄合、それ以下は小普請組に編入された。
役職につかない代償として、禄高に応じた小普請金を上納しなければならなかった。さらに、すべての旗本は幕府の軍役規定により、一定の人馬や武器などを負担した。

鉄舟はこの旗本ではない身分である。
将軍に謁見できない御目見以下の身分としての御家人であった。
したがって、鉄舟が慶喜から直接に西郷との会見・交渉を指示されたということは、この当時の体制・制度からはありえないことであったのである。

次回に続く。

投稿者 Master : 21:11 | コメント (0)