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2005年11月24日

11月例会記録「時代のタイミング」

11月例会記録(2)

山本紀久雄氏 「鉄舟とピストル」

●上米良氏の講演について
正月は神社に参りますね。そのときに神社というものは何か?というものを知らないままに一年間何かいいことありますように!とお願いする。国民の基礎教育なのに、神様の成り立ちは学校で教えてくれない。日本人の原点を知らずして、神社のお参りをしてよいものか、と。そこで上米良さんに講演をお願いした。

●望嶽亭のピストル 
若杉さんが編集した望嶽亭の小冊子にピストルがある。これはナポレオン3世が徳川慶喜に贈り、慶喜が鉄舟に駿府に行くときにあげたピストルである。
それが望嶽亭にある。冊子を読むと望嶽亭近くの薩?峠を鉄舟が一人で越えようとしたら官軍がおり、鉄舟はまずい!と山を逃げた。冊子には、鉄舟が官軍に"拳銃を打ち返しては必死に逃げた"とある。
鉄舟は剣の人なので、ピストルを撃ち返すのでは味がないと気になっていた。

●坂本竜馬と剣
2000年のときに朝日新聞がこの1000年間の日本の政治リーダー読者人気投票を行った。有名でロマンあふれる人間として、人気は坂本竜馬がトップ。剣の達人として著名であり、千葉道場で免許皆伝の腕前を持っている。しかし剣客竜馬は刀より銃ではなかったかと考えられる。竜馬は京都で2度襲われている。最初の寺田屋事件、刀は持っていたが、ピストル5発撃って、向かってきた人に対抗した。5発の弾がなくなってもピストルを離さなかったので、手を切られてしまった。竜馬は剣術使いではなかったという仮説を持った。剣術使いではないから、ピストルを護身用に持っていたのではないか。2回目は風邪ぎみだったが、床の間にあった刀を取る暇もなく切られている。竜馬は剣士ではなかった。竜馬はオランダの蘭学を学んでいて、兵法、爆弾の方の専門家だ、という仮説を立てた。

●鉄舟のピストル
望嶽亭には10連発のピストルがある。しかし山岡鉄舟とピストルなじみますか?なじまない。長い間心に引っかかっている。『誰も書かなかった清水次郎長』ではピストルは6連発とあるが、本当は10連発。
鉄舟は明治時代になって近代日本の最後の剣士といわれた。坂本竜馬も剣士と言われたが、免許皆伝の証書には、「長刀」と書いてある。
鉄舟は道場も作った、激しい訓練もしている、その剣の達人が護身用としてピストルを持って、逃げながら必死で撃った!と冊子には書かれている。鉄舟を好まない会だったら、剣士じゃなくなるかもしれないが、ここは鉄舟の会で、鉄舟を好む人が集まっている会。
望嶽亭女将かくさんの脳裏に残った口述伝書がさだよさんに来ている。鉄舟がピストルは持っていたことは事実だと思う。しかしどうしてピストルを持っていたかを研究していて『幕末維新本流の時代』という本を見つけた。

●ピストルの持つ意味
慶応3年10月大政奉還があったが、慶喜討伐勅書が出た。大政奉還したから慶喜を殺す必要はない。しかし西郷らは勅書を持って京都を離れ、もう一度徳川を倒す作戦を立てるために京都を離れた。そのときに反幕体制として一人だけ京都に残った岩倉具視に短銃を贈った。ピストルは貴重品で高いものであった。これは護身用ではなく「動揺するな」という意味で贈った、とある。

現在、著者の青山さんに「動揺するな」というのはどこからもってきたか、問い合わせしている。まだ返事はこないが。慶喜さんが鉄舟に駿府に行ってほしいと頼んだときに、ピストルを「自分と思って持っていってくれ」と渡したのではないか。
本当なら刀だが、謹慎している身であるから、ピストルを鉄舟に渡し、「自分と思って成功させてほしい、西郷のところまで行ってほしい」と頼んだと考えれば、鉄舟のイメージは狂わない。


【事務局の感想】
山本さんは、いつも、いろいろなことに疑問をもたれて、それを解明しようと研究を続けれています。いつも考えているので、その答えが現れ、研究が解明されていきます。
ピストルの件もその調査の一つです。今後もさまざまな解明を期待しています。

投稿者 staff : 12:56 | コメント (0)

11月例会記録 神道とは何だらう?

11月例会記録(1)

上米良恭臣氏 「神道とは何だらう?」
 ―現代人の退化、見えず。聞こえず。感じず。―

●米良姓、菊池姓について
米良という姓は、南北朝時代の九州の豪族、菊池武房・武重・武光と関係がある。
菊池は楠木一族と一緒になって足利勢と戦った。菊池一族が、戦国時代に衰退して逃げ込んだ場所が熊本県と宮崎県の境にある米良山で、天姓(あめせい)米良氏と名乗って生き続けた。米良村には150戸くらいの家しかなく、半猟・半林、猟をしながら植林の仕事をしていたが、獣を殺すために300丁くらいの鉄砲があって、その鉄砲を持って明治維新に参加している。その米良氏が明治維新になって、菊池一族が足利勢と戦った功績と明治維新の功績として、米良姓から菊池姓に復元をして、明治4~5年の頃菊池神社(熊本県菊池市の山頂)を創建した。その旧姓の米良を使っている。菊池さんの当主が武夫さん。武夫さんは、美濃部達吉が天皇機関説を出したときに大反対を唱えている。そういう由来を話しまして、神道について話す。

●日本の神について
日本の神様に関する考え方には、「いますがごとくつかえまつれ」という言葉があった。
私は反論して「いますがごとく」では影になるので「ごとく」ではなく、「いますから」と
提案し、神主さんと討論をしていた。
神様は、今現代に見えないだけ、感じられないだけ、聞こえないだけ。
本当に神様がいるか、神社に泊り込みで菊池神社へ行ったことがある。
背筋がぞくっとする気配を感じた。
私は日本の神様がいらっしゃると考える。ご神体は山、滝、人、雷、怖がるものを
皆神様とした。
菅原神社は天満宮として讒訴されて亡くなられた菅原道真公を祀っている。
雷を起こすなど、非常な力を持ったので、神様として祀った。怖いものが神様だった。
全てではないが、身内が祀る、としている。たとえば、その子供が祭る、とか。
それが日本の神道のながれ。

●GHQからの神道指令について
敗戦後、GHQから神道指令が出る。明治期に神道は国家の宗祀だ、と言っている。
このたびの戦争についても神道や武士道があるから、ああいう死に物狂いの特攻や
一人も逃げない戦ができたとGHQは分析し、国家と神道を切り離さなければならないと、
神道指令が出た。国家と神道を切り離したものだが、神道は宗教なのか?
という話になった。
もし宗教とするならば、国際公法上、戦勝国がその国の宗教を変えることはできない。
ところが国家の宗祀だから宗教活動・布教活動を行っていない、明確な教義や経典はないから、宗教ではない、とGHQは決めた。
神社側との討論の中で、宗教でなければ神社をすべて潰す!とGHQから暴論が出た。
宗教法人として、それを統括したのが、神社本庁で、全国の神社をひとまとめにして、
監督・指導などもやることになった。
神道が宗教か否かは関係ない。一神教だと戦争になるが、神道の神は八百万の神なので、戦争がない。そういう宗教をこえたのが神道、というのが持論。神道は日本固有の精神文化である。神社を巡っていて、感を深くする。最近みなさんがおっしゃっているクールジャパンの最高のものが神社・仏閣ではないか。

●神社を巡る旅行
つれあいと、おしめり旅行(お=温泉・し=神域・め=名水・り=料理)という名前をつけて、遊んでいる。必ず温泉に行ったら付近の神社を探索している。
いろいろ行った中でいくつかご紹介する。埼玉県の児玉郡の金鑽神社(かなさな)には
本殿がない神社がある。山がご神体なので、拝殿しかない。
長野県上田市の生島足島神社。この神社には池があり、そこに神様が通る橋である神橋(しんきょう)が掛かっている。注連縄が張ってあるので参拝客は通れない。

●日本人と神との関係
昔、"日本人はみな神主だ"と言っていた。誰でも神主になれる素質がある。神主になるのは難しいことではなく、大学に行って、神道科を卒業するか、夏期講習を経て、試験を受かれば、誰でも神主になれるが、そういう意味ではない。
神性・・・草や花に美しさを見出せる。そういう心を持っているのが日本人で、その心を持っていれば誰しも神主になれるというのが持論。
今は、日本人は皆「神孫(しんそん)」である、という風に解釈をしたいと思っている。

●日供祭と祝詞
レジメ「本義は日供祭にあり」の「日供祭」(にっくさい)とは毎日のお供えのこと。神社では必ず毎日、1人か2人の当番の神主さんにより朝御饌(あさみけ)、夕御饌(ゆうみけ)が行われる。神様にお米や水、酒、塩を、お供えして、七折半になっている祝詞を読む。朝御饌・夕御饌を毎日あげているから神様が大きな力を出されると解釈ができる。京都の上賀茂神社では観光客が夕御饌の祭に参列できる。参列し、祝詞を聞いていただくことによって朝御饌・夕御饌を理解してもらいたいと、行っており、これには非常に感心した。

レジメにあるのは朝御饌祭の祝詞で、助詞に万葉仮名を使う。
 ※左:漢字が本文、右:括弧内の平仮名が書き下し文

今日乃朝御饌仕奉良久登(きょうのあさみけつかえまつらくと)
大前尓斎回里清回里氐(おおまえに いわまり きよまわりて)
御食乎捧奉里拝美奉留状乎(みけをささげまつり おろがみまつるさまを)
平良介久安良介久聞食志氐(たいらけくやすらけくきこしめして)
今毋行先毋(いまも ゆくさきも) 
天皇命乃大御門乎(すめらみことのおおおみかどを)
常磐尓堅磐尓斎比奉里幸閉奉里給比
(ときわに かきわに いわいまつり さきはえまつりたまい)
親王等乎始米氐(みこたちをはじめて) 
氏子崇敬者等波申佐久母更奈里(うじこすうけいしゃたちは もうさくもさらなり) 
国民諸々乃上乎夜乃守(おおみたから もろもろのうえをよのまもり)
日乃守里尓護里(ひのまもりに まもり) 
幸閉給比天乃下萬乃国乃人々(さきはえたまい あめのした よろずのくにのひとびと) 
互比尓相睦毘相親志美津津(たがいに あいむつび あいしたしみつつ) 
永久平良介久(ながくたいらけく)
弥栄衣尓立栄衣志米給閉登(いやさかえに たちさかえ しめたまえと)
恐美恐美毋白須(かしこみかしこみももうす)

神社にはお祭りがあるが、それはそれとして、日供祭が、神道の基礎、本義である。


●住んでいた神社
資料うしろの3枚の神社の写真は、わたしが2歳から7歳くらいまで住んだ神社。
この神社は熊本県の人吉、十島(としま)菅原神社。社の屋根が傷まないように屋根が
2重に成っている。下の写真の脇に平たくなった部屋は神様にお供えものをつくる部屋で
8畳くらいあった。戦後、この神饌所の中に親子4人くらいで住んでいた。
十島神社のいわれは、境内に池があり、そこに島が10個あった。
一番大きい島のところに社がある。
菅原神社は学問の神様であるのと、十島菅原(としますがわら)を「通します神社」と語呂合わせし、入学試験に「通します」というご利益があると謳っている。

●3種の神器
3種の神器はご存知でしょうか。「八咫の鏡」は、天岩戸に天照大神(おまてらすおおみかみ)が隠れたときに、天岩戸の外へ出すときに、使われた鏡。岩戸の外でどんちゃん騒ぎをして、天照大神が天岩戸を少しあけて覗いたときに、八咫の鏡に姿を映した。天照大神は鏡に写った自分をみて、なんて明るくてきれいな人がいるのだろう!と驚いて戸惑い、その隙に岩戸を開けて、外に出したという故事にまつわる鏡。

改心をした須左之男命(すさのおのみこと)が川の上流で、八俣の大蛇の尾から出た天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神大身神に奉納する。剣は後に伊勢に移り、大和武尊が東国を平定するときに使われた。大和武尊が草原で炎に囲まれ殺されそうになったときに自分の周囲の草をなぎ払い、逆に敵のほうに火が移り、事なきを得たという。ここから天叢雲剣には草薙の剣という名もある。

鏡の下にかけた八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も三種の神器のひとつ。

鏡は、垂仁天皇の頃、同じところで扱っていては、おろそかになると倭姫に託されて、今の伊勢神宮に移し、ご神体とされた。剣は、熱田神宮に祀られた。鏡は最高水準の技術で模したもので、宮中の賢所にある。草薙の剣を精巧につくったものや勾玉も宮中にある。

●剣璽御動座(けんじごどうざ)
剣璽御動座とは、天皇のそばに必ず三種の神器があるということ。例えば安徳天皇が沈むときに三種の神器は沈んでいる。そして伊勢神宮から持ち出して同じようなものをつくっている。持っているということは、天皇であるという意味である。伝統的に剣と璽は、天皇が行幸するときに持ち歩かれたもので、皇室の御用邸(日光・田母沢御用邸など)に行くと、剣璽の間がちゃんと別室にある。戦後になって、天皇が剣璽御動座をやめられた。昭和天皇がやめたことを次の天皇が復活することは親不孝になるのでできない。天皇が生きている間に復活させなければならない、と一般庶民の署名を集めて宮内庁に送ったりした。一時廃止されていたが、昭和47・48年ごろから、復活した。

60回の式年遷宮が、伊勢神宮で初めて剣璽御動座を復活させた。
神道は王朝の雅もあります。
2006年2月に続きをやります。


【事務局の感想】
神道は雅、神道はカラフルと上米良さんがお話されました。白木と白い布のイメージをもつ私には、上米良さんのいいたいことがまだ分かりませんが、ぜひその真意をしりたいと思います。
レジメはあっても、レジメ以上の上米良さんご自身の言葉による発表に魅了されました。2月がまた待たれます。

投稿者 staff : 12:25 | コメント (0)

12月例会は、歴史探索と望年会

12月の例会は、「歴史探索と望年会」となります。
「歴史上の人物・事件とゆかりの紀尾井坂周辺を巡る」歴史探索をいたします。
●歴史探索
日時:12月21日(水)15時~16時半
集合場所:JR四谷駅麹町口改札出口前

●望年会
日時:12月21日(水) 18時半~20時半
場所:ホテルニューオータニ ガンシップ
03-3221-4313
参加費:6000円

歴史探索をしてから望年会に入ります。どちらもご参加お待ちしています。

投稿者 Master : 12:17 | コメント (0)

11月例会 神道と鉄舟研究

   
11月の例会は、上米良さんから神道について、大変わかりやすく発表していただきました。今回の発表は1回ではもったいないので、2月にも続けてお話していただきます。


山本さんは、鉄舟とピストルという題で、長年の疑問の鉄舟が刀でなくピストルを持っているということに対する疑問を解明し解説されました。解明については11月の例会記録をご参照ください。


投稿者 Master : 12:07 | コメント (0)

2005年11月05日

「時代とのタイミング」

10月の例会記録(3) 山本さんの講演(2)
1.鉄舟の江戸無血開城タイミング
①海舟が益満を牢から出したタイミング
鉄舟の江戸無血開城にはタイミングがあった。立派な方は沢山いた。立派な方が時代に見出されると偉人になる。この時代、勝海舟という人間が素晴らしかった。金がないので剣道で身を立てようとしたが、厳しい時代であり剣術では食べていけない。そしてオランダ語を勉強した。それが身を結んで、長崎で幕府の洋式海軍をつくることになり、オランダからのカッケンディーケという教師団長が来て、この教務主任になった。
ここで海軍のことを学ぶと同時にヨーロッパを学ぶ、ヨーロッパを学ぶことは世界を学ぶことである。それによって海舟の頭の中は開け、その後、軍艦・陸軍奉行になった。
たまたま薩摩屋敷を幕府が攻撃して、捕らえた人物として、益満休之助がいた。鉄舟が勝海舟邸にくる3日前に鉄舟が訪ねてきた。益満休之助を自宅(勝海舟邸)に引き取った。鳥羽伏見の戦いを引き起こすきっかけになった3人は本来なら死罪だが、その彼らを3日前に引き出す。偶然だが、その感覚がすごい。
現在、薩摩の上屋敷は、セレスティンホテルになっている。セレスティンホテルは東京駅八重洲北口にあるホテル国際観光が作った。ホテルの売上は宿泊、宴会、飲み物(バー)で形成されている。今までホテルは宴会と飲み食いで成り立っていたが、今は2つともダメになり、本来の「宿泊」に戻ったホテルは今、経営状態が良い。ホテル国際観光は宿泊に集中しようとセレスティンホテルをつくった。

②鉄舟と益満は昔仲間だった
勝海舟が益満休之助を山岡鉄舟に合わせた。鉄舟と益満休之助は、10年前清川八郎の下で尊皇攘夷党の仲間だった。尊皇攘夷党で顔見知りだから、話がまとまる。

③海舟が上洛しようとしたが許されず
幕府と官軍の関係がこじれたとき、勝海舟は、私が大阪にいって、天皇(官軍)と交渉すると言った。軍艦奉行になったときに一度交渉している。2回目に慶喜にお願いして、交渉に行ってこようと言ったときに、江戸城の皆が、もし勝海舟が捕らえられたら誰も指導者がいなくなってしまい、官軍とのルートが切れてしまう・西郷とさしで話せる人がいなくなる、と止められた。

④このタイミングに鉄舟が使者に選ばれた
勝海舟が交渉する道が閉ざされた、そのときに鉄舟が使者として選ばれて、西郷の元に交渉に向かった。

⑤西郷の目的と鉄舟の目的は相反する
ところが官軍と幕府の目的は全く正反対もの。戦略・目的がまったく相反する。
西郷・官軍の目的は慶喜を殺すこと。鉄舟は慶喜を助けることが目的。

⑥駿府で西郷との会見交渉
*覚悟を示し、西郷が鉄舟の人物にほれた
鉄舟にとり最大のタイミングがよかったことは、交渉が西郷であったこと。大久保利通であった場合、彼は理路整然、情に流されないので、駿府で会見しても交渉は失敗に終わったであろう。

*西郷と島津久光の関係
西郷側から見た場合、矛盾があるのは、鉄舟が島津公の立場で慶喜のことで考えてくれ、といったが、それは表向きの言葉。西郷は斉彬を毒殺したのは久光だと思っていたわけですから。鉄舟が、久光を慶喜だと思って考えてみなさいといっても、西郷はわからないでしょう。

*西郷は新政府の一員、薩摩藩であって薩摩藩でなし
実は、西郷は薩摩藩と言っているが、薩摩藩であって、薩摩藩ではなかった。王政府復古の大号令のときに新政府が作られた。

王政復古の新政府組織

慶応三年(1867)12月 王政復古の大号令によって新政府が発足し、その発足時の天皇のお言葉と組織は以下の通り。
(天皇のお言葉)
「嘉永6年以来、未曾有の国難となって、先帝が連年宸襟を悩まし給うていた次第は、人々のよく知るところである。よって、近上は叡慮を決し給うて、王政復古、国威挽回の基礎を給うために、自今、摂関、征夷大将軍、国事係、議奏、伝奏、守護職、所司代を廃し、今は先ず仮に総裁、議定・参与の三職を置いて、万機を行わせられる。ついては、諸事、神武天皇創業の始めにもとづいて、公卿、武家、堂上、地下の差別なく、至当の公儀を尽し、天下と苦楽を共になさるべき叡念であらせられる故、各々勉励して、旧来の驕惰の汚習を洗い去り、尽忠報国の誠をもって奉公いたすべきこと」


(組織)
総裁 有栖川宮熾仁親王

議定 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王
   中山前大納言   正親町三条前大納言 
中御門中納言
尾張大納言(慶勝) 越前宰相(春嶽) 安芸少将(長勲)
土佐少将(容堂)  薩摩少将(忠義)

参与 大原宰相(重徳)   万里小路右大弁宰相(博房) 長谷三位(信篤) 
岩倉前中将(具視)  橋本少将(実梁)
尾州藩 丹羽淳太郎  田中邦之輔 荒川甚作
越前藩 中根雪江   酒井十之丞 毛受鹿之助
土佐藩 後藤象二郎  神山左多衛 福岡藤次
芸州藩 辻将曹    桜井与四郎 久保田平司
薩摩藩 岩下佐次上衛門 西郷吉之助 大久保一蔵

嘉永6年=ペリーが来た年、先帝=孝明天皇、近上=明治天皇
総裁=総理大臣、議定=大臣、正親町=おうぎまち、忠義=久光の息子、参与=芸州藩辻

お言葉のあと、辞令発表があった。従来の藩は残っているが、王政復古で徳川慶喜が返してしまったら、天皇中心にして国家をつくることとなり、組織運営するために新政府案をつくったその中の一員に入っている。
鉄舟が交渉したときには、西郷は薩摩藩ではあるけれども、新政府一員。新政府の一員であるという思いで対応するはず。

*イギリス・パークスの発言、万国公法に反する 
西郷の部下がイギリスのパークスに江戸の攻撃について相談した際、パークスからは、相手が白旗掲げて恭順し、城から出ているのに攻撃しては、万国公法に反する!と言われていた。

⑦鉄舟の個人的力量が最大の功績だが、時代と周りとのタイミングが合致 
鉄舟が西郷と交渉したとき、上記のことが重なっていた。
一番は鉄舟の人柄。鉄舟には時代の環境が有利に鉄舟に現れた。タイミングを計れない人物は大きなことはできない。

2.現地、現場、現認する目的は、時代とのタイミングを計るため。人と会う目的は時代の接点をとらえ、つかみ、編集し、行動するため

金子さん・小野寺さんとNYにスポンサーを探しに行き、いろんな会社を訪問した。
先方の社長に金子さんは説明する。
サブカルチャーが日本の文化として隆盛を極めている。村上隆が2002年にパリで「ぬりえ展」を開き、今年は「リトルボーイ」を開いて、その中にぬりえが出ている。
日本が認められて、アニメーションがあって、漫画がある、アニメーションも漫画も、その原点はぬりえである。金子さんの説明に先方の社長は頷いてしまった。

時代を掴むときにブラーっと歩いてもダメ。キーポイントの社長が何をいうか、それを察知して受け答えをする。先方の社長もクールジャパンをよく知っている。なぜなら日本企業の業績がいいのがその最大の理由です。日本全体が受け入れられているから企業の業績が認められる。駿府をNYにする。金子さんと小野寺さんが鉄舟、先方の社長が西郷。

3.成功するマーケティング
①新しい商品を、新しいマーケットに売る・・・危険
②今までの商品を、違うマーケットに売る・・・チャネル拡大
③新しい商品を、今までの客に売る・・・目指すところ

物事はセオリーを踏まないとダメ。成功するマーケティングをしなければならない。
新しい商品を新しいマーケットに売ることは最大の危険を伴う。
今まである商品を違うマーケットに売るのは成功する。スーパーやコンビニの展開が、このチャネル拡大。場所を広げるから客数は広がり、売上が上がる。日本の企業はほぼこれで拡大してきた。
今、これが限界に達している。どうしたらいいかというと、 目指すところが新しい商品を、今までの市場に売ることです。
「新しい商品=ぬりえ」過去あったものだが、ヨーロッパ・NYには新しい商品となる。
ヨーロッパ・NYは日本のアニメーションを受け入れてくれている。そしてぬりえをアニメーションと同じに理解してくれる。

こういうコンセプトを持つには、現地の感覚を握ることが大事である。現場で現物をみた感覚。感覚と理論と商品の世界をミックスさせないとつくれない。

来年NYで展覧会を開催する。おそらく展覧会の時期は、松井はヤンキースにいて、ヤンキースが、そのころはリーグの4位に入っていて、プレーオフをやっていると思う。
NYの地下鉄は安くて早い。地下鉄は5回+1回サービス。6回券で10ドル。1回1.7ドル。112円で換算すると190円。どこまで乗っても190円。7日間で24ドルの定期券がある。1日380円で何回乗ってもいい。日本にはこういうのがない。車両も良くて、24時間動いていて、安くて、女性が夜中乗っても危なくない。NYの安全度は全米4位。NYは安全ということを確認してきました。ぬりえ展と剪画展を開催します。宿泊先の
シェラトンホテルも確認してきました。来年一緒にNYに行きましょう。

事務局の感想
NY、パリの現場感覚が、山岡鉄舟と結びつく。それが山本鉄舟研究の面白さです。
同じ時期にNYに居たとは思えない山本さんに鋭い観察力。これからも勉強をさせていただきたいと思います。

投稿者 Master : 13:29 | コメント (0)

「時代とのタイミング」

10月の例会の記録(2) 山本さん講演(1)

毎回二見さんから、すばらしい武士道に関する解説をしていただきまして、日本人の持っている精神のよさを感じる。日本という国は外国でどう見られているか。偏見された情報が来るが、現場に行くとよくわかる。先日、日本赤軍リーダー重信房子の娘、重信メイ氏を経営ゼミナールに呼んでアラブ諸国について話してもらった。
メイ氏とゼミナール終了後に話していてアラブでも日本の文化に興味を持っていると聞いた。アラブの新聞(アラブ世界は国境で国分かれているが言語は一緒)は、新聞が国をわたって出来ている、2~3種類あるが、毎日交代で日本のことー茶髪、六本木ヒルズとかーを載せている。それだけアラブ諸国も日本に興味を持っている。

先日NYに行った際、NYのラーメン屋にアメリカ人が並んでいた。NYから戻った翌日パリに行ったら、パリのラーメン店にも西洋人が並んでいる。

情報を掴むことはひとつの手法がある。短い期間に集中して同じことを視ると感覚が鋭くなる。NYとパリを同時期に見ることにより一瞬に比較できる。「ラーメン」を同時期に視ることにより2国の「ラーメン」を比較できる。

フランスではワイナリーに行くため、新幹線でボルドーまで行ったが、ボルドーまでの3時間、どこの駅にも停車しません。日本の場合、東京から大阪まで3時間弱、名古屋・京都に停車します。パリと日本の新幹線との共通点は、車内が満席でも静かなこと。

ボルドー駅につく少しまえに、迎えの人から通訳の女性宛に電話があった。駅のミーティングポイント(待ち合わせ場所)で、待ち合わせた。その場所に着くと40歳くらいの男性がきて、通訳の方と握手して、ルノーの車に乗り走り出した。車の中で出迎えありがとう…と話しているのですが、だんだん話がこじれてくる。駐車場を出てからお互いに解ったことは、人違いだった。

今、NYでは日本食が大流行ですごく認められている。NYの紀伊国屋でも日本のアニメーションが一番よい場所に並んでいる。日本に対する興味は商品から始まった、良いものをつくる日本人に外国人は興味を持っている。

秋田県の八郎潟にある国際教養大学の中嶋嶺雄学長から直接聞いた話しでは、ここ3年間偏差値が東大・京大・国際教養大学と並んだということ。全寮制、学生はアルバイトをしない、入学試験が難しい、学校内は全部英語、そして先生も事務員も学生も新渡戸稲造の武士道を英語で読んでいるそうだ。

フランスでのもう一人の通訳の方は日本文化を勉強中だそうです。フランスの企業から日本文化について教えてほしいといわれている。フランス人が日本で仕事をしても仕事がうまくいかないのは、日本文化を語ってくれる人がいないから。言葉はできるが、文化を解説できる人はいないという。どんな本を読めばよいかというので、松岡正剛さんの本をお勧めした。

キッコーマンの会長が日本食の国際基準をつくろうとしている。日本食でおなかを壊すのは刺身が原因であるから、刺身の鮮度を重要視した。日本食のレストランには、まっとうな日本食レストランといかがわしい日本食レストランがある。パリでその事実を確認した。
ヨーロッパの随一のランディスという魚市場に見学を申し込んでいた。パリの牡蠣会社社長の娘に魚市場に連れて行ってもらい、市場を見学していたら、取引先の責任者に、この市場にも日本人がいて、刺身作っており、日本食レストランに卸しているから見て行けと言われた。なぜ魚市場で刺身を作っているのか?と不思議に思っていたが、みると、刺身ではなく、まぐろを解体していた。彼らはマグロの解体を刺身と言っていた。そして日本人だと紹介された彼も10年間市場で仕事しており、周りは彼を日本人と思っているが、実はラオス人だった。
今、日本のレベルが認められている。そして日本の文化が優れてくるとそういう日本を真似する人が増える。

今日、健康クラブの研究会があった、2周年記念で、ここで全日本健康クラブの理事長を仰せつかっている。毎回挨拶をさせられる。わたしの挨拶が期待されるのは他の人と違う話をするからだという。ここでの挨拶は、小野寺さんから教えてもらったデブの話しをした。

NYを歩いているとデブが多い。デブと太っているのとは違う。デブというのは小錦みたいなのをいう。NYでは半分くらいはデブ。NYだけでなく郊外にもデブがいる。飛行機にも大勢いる。飛行機では3人席も2人でいっぱいになってしまう。しかしフランスでは一人しかみなかった。フランス人かわからないが。フランス人に聞いたら、フランス人がデブにならないのはプライドだそうだ。
飛行機のトイレで問題を起こした話しをきいた。飛行機のトイレは水で流すのではなく、空気でひっぱって、吸い込む。デブは座ると便器と体に隙間がない。水を流したら、肉までひっぱられて、真空パックになってしまう。下手すると立てないでしょう。そういう事件があったらしい。NYで聞きました。

投稿者 Master : 12:49 | コメント (0)

山岡鉄舟の武士道 

10月の例会の記録(1) 二見さんの発表


前回まで、新渡戸稲造の「武士道」を紹介してきました。剣道の修行から入り禅で大悟徹底した、武士道の鑑ともいうべき、山岡鉄舟が死ぬ二年前に講話した「武士道」を次にご紹介したい。
明治二十年(一八八七) 鉄舟五十二歳。門人 籠手田安定(こてだやすさだ 前滋賀県県知事)らの求めに応じて、武士道の講話をしたものを書き留めておいたものが、「山岡先生武士道講話記録」である。明治三十一年 この「記録」について勝海舟が評論し、嗣子山岡直記の序文と高橋泥舟の題字をつけて、安部正人が編集し、発行したのが明治三十五年(一九〇二)一月である。
新渡戸稲造の「武士道」は、明治三十二年(一八九九) アメリカで刊行され、翌年日本でも英語版が出版された。日本語訳は明治四十一年(一九〇八)に桜井鴎村によってされている。
鉄舟二十八歳の時、一刀流十二代を継いだ浅利又七郎と試合をしてから十七年目の明治十三年(一八八〇)三月三十日 鉄舟四十五歳の時、大悟徹底した。この時の心境が
電光影裏斬春風 となる。

剣道場「春風館」はこれが由来であり、私の合気道グループ名「春風会」は、鉄舟の春風館を目指して付けたものである。
鉄舟の武士道は、学者によっては荒唐無稽と言われているが、新渡戸稲造の武士道と同じく、倫理道徳の礎を担っている。
拙者の武士道は、仏教の理より及んだことである。
忠・仁・義・礼・知・信とか あるいは剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とかこれらの道を実践窮行する人を、武士道を守る人という。
日本の武士道ということは、日本人の実行すべき道である。「無我の実現」である。武士道の要素は、四恩である。

鉄舟の武士道について書かれている本を教本にしながら鉄舟の考えていた武士道について考えていく。1860年25歳のときに鉄舟が書いた武士道がある。実践することが武士道と言っている。1858年23歳のときに武士道を学んでいるのは、いろんな人に信頼されたいから学んでいるといっている。剣道を学んでいるのは君子と行動をともにしたいから。鉄舟は大器晩成。51歳のときに武士道をまとめた。

新渡戸の武士道は、仏教徒新党・儒教。
鉄舟は仏教が基本としている。儒教の論理に繋がっていると解釈します。

第一 四恩
1 父母の恩 
わが身体とわが心身は、父母の遺物であり心身と思うべきである。だから父母への孝養を尽くすことが大事である。我が心身は、父母の心身と覚悟することが武士道の発現である。
両親は当然のこと、いきとしいけるもの、植物も犬もすべて両親を持っている。
広い意味で鉄舟は言っているのではないか。

2 衆生の恩 
社会は、助け合いによって構成されている。生けるもの全て、父母だと思い、慈悲報恩の思いを忘れてはならない。
六道(天人道・人間道・畜生道・阿修羅道・餓鬼道・地獄道)の衆生は、みなわが父母であると思わねばならぬ。父母の子となって善果福祉を持つことができたのは、一切衆生のお陰である。だから報恩利済の義をつとめなければならない。
衆生の恩は助け合いによって構成されている。
衆生=生きとし生けるもの。この中に6道があります。

3 国王の恩 
いっさいの衆生は「国王」をもって根本となす。日本においては、皇祖は、日本民族の始祖であり、日本武士道の淵源である。ぜひとも帝王を尊敬して報恩の誠意を尽くさねばならぬ。ここで国王を国と置換して考えたい。
明治五年(一八七二)鉄舟は、西郷隆盛の依頼で宮内省に奉仕し、明治天皇の侍従になった。
現代では理解しにくい。明治天皇の教育係をやった影響もあると思うが、武士道の源である。
誠意をつくしてやる。つきつめると恩に報いる。

4 三宝(仏・法・僧)の恩
三宝とは、一に仏 二に法  三に僧。
武士道の発現は、法=真理である。法はいいかえると、天道、真如ともいい、法性、心性、仏性ともいう。 私は、仏心、神様、仏さま、グレートサムシングといい、この宇宙を動かしている大きな力をさしていると思う。

第二 現代社会の混迷と武士道
現今は、私利私欲に走り、汚職収賄を平気でやり、人倫が乱れている。この原因は、
一つには、科学進歩であり、道徳について考える余裕がなくなった証拠である。
二つには、法律は形式的であり、人類霊性の道義まで及ぶことができない。ここを補うのが武士道の活用である。

第三 武士道の起こりとその発達
1 上古の武士道 開国の当初、みな臣たるの分をつくして、開国に尽くされた。農をもって国の基としたので、臣民は ひたすら主君のために至誠をもって仕えた。
2 兵の農分離後の武士
兵農分離して、武士ができたから、武士が盗賊・反乱を鎮定するので信用を得る一方 恐怖心も出てきた。勤倹・尚武で道義も進んできた。
   
3 武士道の要素
神儒仏一貫の大道により忠孝・勇武・廉恥が成り立ってきた。武士道は、神、儒、仏 三道一貫の大道が、日本人天性の元気に補助的感化を与えたものである。
4 真の武士道は信仰と勤倹尚武
南北朝より室町時代では、楠、新田の精忠を上げた。小笠原流の弓馬礼法が成立した。

5 徳川家康公の功業
徳川家康の功業を讃え、真の武士道だといった。
武門盛衰の実体は、至誠とその反対である名利/邪欲の消長に帰するのである。

6 幕末
幕末志士に共通なものは、誠である。我が国においては、君と国とは一体である。維新の鴻業は、薩長といっているが、幕府の政策が産母であったことを知って欲しい。一例として、勝鱗太郎を長崎に行かせ海軍術を学ばせたり、オランダに留学生を派遣したり、講武所を開いて武道を奨励したり、海軍操練所を開いたりした。

第四 明治の武士道
志士達の、勤王憂国の誠意から明治の御代になったのである。真の文明とは、道義霊性の文明及び物質的の文明の合わさったところにある。
一家団欒として相い和し、父母祖先に感謝すること。これからの日本人は、
「・・・要するところ、武士道の精神をもって科学的外形の手足を使用していかねばならぬ。知徳両立することが武士道である。」

第五 武士道の精華
応神天皇(おうじんてんのう)の宮殿を大分県の宇佐八幡宮に祀った。その後、石清水八幡宮にも祀られた。八幡大菩薩と称えるのは、仏教の八正道(はっしょうどう)を示しているとのこと。正見、正念、正志、正精進、正語、正業、正命、正定を名付けて八つの正しい道という。
もののふというものは、出処進退を明らかにし、確乎として自己の意志を決した以上は、至誠をもって一貫するのが、真の武士でもありまた武士道でもある。
和気清磨(わけのきよまろ)、菅原道真(すがわらみちざね)、源義家(みなもとよしいえ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、楠木正行(まさつら)、赤穂四十七士、会津白
虎隊、の事跡を紹介している。

第六 武士道を広義に解す
一身を捨てさえすればそれで道を全うしたのだと思うやもはかり難し。しかし、もっともある場合には、身を捨ててかかればまずよいものだが、しかしその心事は、いかなる地盤より発し、さらにいかなる活用をするやの点こそ武士道の奥義である。
一国を治めるものは、先ず手近く自身からしなければならない。 武士道を言葉をかえていえばいろいろある。忠孝、仁義、勇武、廉恥 質素、名誉、慈悲になる。教育の大道は、宗教心が第一である。 
教育、学校・企業などにも教育がある。
宗教というと拒絶するが、生き方の道だと思う。持っている道を貫けば武士道になる。

第七 おんな武士道
武士道は人間である以上、男女の区別はない。男子がいかに賢人であるとて、胤をあずかる女性が不完全であったならば、その間に生じる母の気風に感化されてしまうのでごく注意してもらいたい。
武士道は男性だけではない。武士道に男女は関係ない。

▼山岡鉄舟の武士道のまとめ
山岡鉄舟の「武士道」は、禅を中心とする仏教と剣の道と明治天皇の側近におられたときの皇室観という3つの要素により形成された。明治二十三年に発布された教育勅語にも影響を及ぼしたと思われる。
武士道とは、善たると知ったらば実行することが大事。陽明学の言葉でいえば「知行合一」である。鉄舟が武士道を講述した時点での言葉で云えば、「無我の実現」にある。
教育勅語の第一次草案を作成した中 村 正 直が鉄舟の講話を聞いていた。
中村はキリスト教、鉄舟は仏教が根底にあるけれど。
武士道は、トップに立つ方が率先して実行する。
無我とは、宇宙は自分にあると思って実践する。陽明学の基本。
頭でっかちではなく、実践することにより、現代に生きる智恵がでてくる。

事務局の感想
武士道も佳境にはいり、山岡鉄舟の武士道になりました。男女の区別なく女武士道も書いていた鉄舟の先見の明に感服いたします。
次回もよろしくお願いいたします。

投稿者 Master : 12:45 | コメント (0)