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2008年03月30日

3月例会記録(2) 

■山本紀久雄氏

「清河八郎研究」 

今井さんからいいお話を聞きました。鉄舟会清規の中に信条の一「自己と世界についての正しい見方」いいですね。今でも当然使えるわけですが、自己と世界、当時の大森曹玄さんが描いた世界と今の世界は違う。

チベットの問題、マラソン選手が“空気が悪いから”とオリンピックに出場しないとか、世界はそういう風に広がっていますから、その「世界」の意味が当時とどう違うか、正しい生き方はグローバルになったけれど、どう違うかを近いうちに再び今井さんに講演をお願いしたいと思います。
今井さんは中村天風先生の幹部でしたからね。中村天風先生の修練会に行くと、後ろにものを置いて3つのものを並べ替えて見ないでどう並べ替えたか直感的に分かるようになります。それから竹がきれいに割れるようにならないと、卒業できません。

1.前月の尊王攘夷の復習
 ① 尊王攘夷は中国周の時代に発した言葉
突然日本に起きて15年間日本中を駆け巡った精神であり行動であった。この言葉の意味がよく分からないままに出ているので、系譜をお話しした。周の末の時代、2500年くらい前の紀元前の話、周の王様の権力が落ちたときに王様を大事にしなければならないと発せられた言葉が「尊王」で、他国から蛮族が来たので「攘夷」という言葉が出た。
 ②それが約2500年経って幕末の水戸藩で蘇った
 ③水戸藩の改革のスローガンとして水戸斉昭が主唱
水戸藩を良くするために外に敵を作り、藩内をまとめようとして「攘夷」という言葉を使った。
 ④尊王攘夷思想の一方は幕府改革へ、もう一方は倒幕運動へ
2つの攘夷運動へ分かれた。当初は幕府を敬う「敬幕」だったが、「倒幕」に変化した。
 ⑤倒幕への背景は「安政の大獄への反発」「修好通商条約の違勅」「貿易によって発生した国内混乱」「外国人の態度への反発」など
アメリカと最初に結んだ和親条約は孝明天皇も認めたけれど、修好通商条約は孝明天皇が認めていなかったのに井伊大老が締結してしまった。孝明天皇の存在が一般に知られており、幕府の上に天皇が居るのに判を押したことは違勅であるといわれた。
通商条約が締結されヨーロッパの品物が入ってくるが、輸出するものがない。生糸が外国に輸出され品薄になり、インフレーションが起きて、生活が苦しくなった。文明国と非文明国が貿易すると非文明国が苦しくなる。外国人のアレルギーが「攘夷」になった。
 ⑥明治維新が成立した途端に尊王攘夷は消えうせた。最後まで取り組んだ者は蟷螂(とうろう)の斧(はかない抵抗)に終わった
政府と政府が修好条約を結んでおり、開国しているのに“攘夷”と矛盾したことを言っている。リーダーは矛盾に気づきながら、矛盾していることを言って、一般の人たちを扇動した。幕府を倒すためのスローガンにしてしまった。真面目に攘夷と言ってきた融通の利かない頭の硬い人たちは、時代がわからなくて抵抗して、はかない抵抗に終わり、片隅に追いやられて消えていった。
「攘夷」は、幕府を倒すために誰かが考えて言われたこと。水戸藩の「攘夷」も藤田東湖とかブレーンが言った言葉。

政治はブレーンが大事です。福田総理にはブレーンはいるのだろうか?安倍内閣はお友達内閣と言われていた。でも安倍さんが入院するときに誰かに相談すれば、もしかしたら、まだ安倍内閣は続いていたかもしれない。小泉さんのブレーンは竹中平蔵。
藤田東湖が死んでしまったから斉昭は頑固親父になってしまった。ブレーンが時代によって世界を変えてあげる。参謀です。水戸家の参謀だった藤田東湖は安政の大地震のとき江戸の水戸屋敷におり、倒れてきた屋敷の下敷きになって死んでしまった。尾張家・紀伊家は高台に屋敷をもらっている。水戸屋敷は小石川にあり、沼地で低いから地震の被害が大きかった。その結果水戸家がたくさん死んでしまい、ばらばらになった。ここまでが前回の復習。

2.清河は何故に尊王攘夷の志士といわれるまでになったか
清河は鉄舟を同志と呼んでいる。鉄舟もそれも甘んじた。清河は概して評判が良くない。行動が信用置けないとか、山師、策士、出世心。鉄舟のイメージと清河八郎のイメージは異なるが、間違いなく同志であったし、清河は亡くなる前の日まで鉄舟の家に住んでいた。清河は体調が悪いが用事があると出掛け暗殺された。命を狙われていて、鉄舟の家にいないと危険だった。そのことを解明しないとならない。
物事の結論は簡単ですが、プロセスが大事です。清河は司馬遼太郎が本を書いている。無位無官の志士なのに天主まで先導した者は清河八郎より他はいないだろうと書いたが、評論家の佐高信が司馬遼太郎を批判している。「無位無官」は賛辞でしか使わない。私自身どこにも所属しないで自分の主張を言い続けているので無位無官を誇りに思っている。それを「無位無官のくせに」というような言い方はけしからんと言っている。
藤沢周平は山形県の出身で清河の同郷で、清河はかなり誤解されており、山師・策士・出世主義者と言われているが、この呼び方は誇張と曲解があると言っている。鉄舟や高橋泥舟と親しく交際しながら一方で浪士組を一転して攘夷の党に染め替えて手中に握ったのが誤解の元になっていると思われる。清河八郎の足跡を辿れば誤解であることが明らかになると藤沢周平が愛情を込めて書いている。

①生まれ:
山形新幹線「新庄駅」から陸羽線に乗り換えて「清川駅」に到着。ここから歩いて10分くらいのところに清河神社がある。清河八郎は神様になっている。鉄舟は神様にはなっていない。鉄舟は全生庵にいるだけなのに、なぜ清河は神様なのか?靖国神社に祀られているから。幕府に殺されている。清河は1830年生まれ、鉄舟より6歳上。
②育ち:
酒屋・斉藤家の長男に生まれ、金持ちの士分格。7歳頃から論語などをおじいさんから学んで、10歳のときに母方の鶴岡で塾に入ったがいたずら者で戻ってきた。13歳のときに清川の関所役人畑田さんのところに入って勉強したら、優秀だということがわかったが、14歳から遊郭狂い。
藤沢周平は、清河の性格を「ど不適」と言っている。自分を貫き通すためには何が起きても恐れない性格、どんな権威がきても黙殺して自分の主張を曲げない。勇気があるといえるが、自分の主張を曲げないのである面では傲慢と見られる人柄を言う。親友ができにくい。
とにかく清河は非常に頭が良くて、鉄舟との関係は清河が17歳の時で、藤本鉄石に会ったのも17歳のとき。鉄石の家に長逗留させてもらって学んだ。  
鉄舟は高山に居たときに父親の代参したお伊勢参りで藤本に会って、鉄石から林子平の『海国兵談』を写させてもらった。
  藤本鉄石は、岡山藩を脱藩して、免許を受け、諸国を遊学し、私塾を開いて、倒幕に参加し、天誅組みに参画した攘夷思想の人。
藤本は学問も出来て、剣もたつ文武両道の人であったので、清河も、何れ藤本鉄石のようになりたいと思った。
松下村塾は吉田松陰が27歳で開いた塾。
清河は25歳で塾を開いた。文武両道で開きたいという希望を持っていた。

③江戸へ
17歳のときに藤本ににあって、田舎に居てはだめだと18歳のときに江戸に出た。総領だから許してくれないので、家出した。1回目の旅です。

④旅へ
2回目の旅は、江戸に居る間に親が許してくれて、江戸に出てきたおじさんと一緒に京都、大坂、岩国、四国、奈良、伊勢、江戸に戻ってきた。

⑤学問
跡継ぎの弟が病死した。仕方なく山形に帰ったら遊郭通いが再発。7里の道を毎晩遊郭通った。金があるから狂ってしまった。が、ある瞬間勉強したいと父親に申し出て京都に勉強しに行った。京都には良い先生がいないので、九州に行った。小倉、長崎、長崎に出島があって、オランダ商人館に連れて行ってもらって、オランダ人と会っている。島原、熊本、別府、長津を経て江戸に戻った。三回目の旅。
江戸時代、一般の人はあまり旅を許されていなかった。温泉か伊勢参りや善光寺参り。その時代にこれだけ回っている。そして全部日記を書いている。この日記11冊が清河記念館に残っている。17歳までは親から聞いたことを書いたが、その後は自分で学んだことを日記にした。食事終わったあとに寝るまで事細かに書いているので残っている。

⑥剣
江戸で東条塾に入って勉強して、隣の千葉周作の道場に22歳のときに入って、剣道を習い始めたのが、22歳。遅れている。しかし人に教えて良い中目録を3年かかるところ1年でやった。

⑦文武両道
勉強して、昼間は道場に行き、帰ってきたら12時まで勉強して、また朝4時に起きて勉強して、徹底的に勉強した。こういうことを日記に書いてある。昌平黌にも通ったが入ったらつまらないので辞めて東条塾で先生の代行をした。25歳になって自分の清河塾を開いた。そうしたら昌平黌からも、東条塾からも生徒が来る。いたって評判が良く生徒がいっぱい集まった。どうしてこんなに人が集まったのか?
神田に土地を借りて新築した。それだけではない。お母さんを連れて、江戸から四国まで4回目の旅をしている。25歳までにこんなに旅をした人はいないんじゃないですか?旅行してつぶさに土地の状況を日記書いている。昼間見たことを書くということは頭に入る。その上に若いときから論語とか勉強して素養がある。他の塾では論語の書いてあることを解説するだけ、清河の場合は、論語のこと、自分が見てきたことを組み合わせて実体験として講義する。時代は変わっていく。日本の最先端です。人気があった。

 今度の日曜日から上海に行く。上海でお世話になるコンサルタント会社から届いた費用の見積もりを見てびっくりした。今まであちこちまわっていますが、今までの何十倍の金額の見積もりを送られてきた。スポンサーに送って、紹介してくれたところに交渉してもらっている。
世界中同じ調査をしている、NY,ロンドンの順に高かったが、その何倍も高い金額を請求してきた。給料が日本の3分の一や5分の一と言われている。
初めてだったら知らないで高いと思いながらも払ってしまったかもしれない。

アテネに行った。小学校6年生で日本語を勉強している子が居るから見てほしいというので会ってみた。どういう教育しているかと聞くと自宅で家庭教師を頼んでいる。家庭教師は自分の家庭教師料は高いと言う。
見てくださいと持ってきた紙にドラゴンボールが描いてある。インターネットで世界一アクセス数が多いのが鳥山明です。ドラゴンボールです。そのことを知らないといけない。これを本に書いている東大の先生がいます。
その小学校6年生が突然、「上杉謙信に子どもは居ますか?」と質問してきた。“上杉謙信は独身だった”。「織田信長は悪者ではないですか?」“日本では一番人気のある武将です。なぜなら日本を統一したから”。「明智光秀に殺されましたね」とか知っている。英語の戦国時代系図譜で勉強している。
英語は高校生レベルです。小学校6年生で日本に行きたいからと勉強しており、普通の家庭だけれど親は高い給料を払って勉強させている。日本に行きたいと子どもは目的がはっきりしている。
清河八郎もただ単に旅をしたのではない。今までに江戸にない塾を開いた。ここが優れているところ。優れていなかったら天皇を動かすことはできないでしょう。どうしてそこから鉄舟と結びついたか。

3.鉄舟と清河は何故に気が合ったのか
 ① 性格が似ているところ
 ② 時代のつかみ方が優れていた
 ③ 性格が違っていたところ
清河と鉄舟は違うけれど最も親しい間柄。死ぬ直前まで鉄舟の家にいたから。清河が信用している人が鉄舟。けれども清河八郎は良い評判がない。それなのになぜ同志と言われたのか。そのことを解明していかないと鉄舟のことはわかりません。最後は大悟徹底したけれど、そこに行き着くまではいろんなことがある。それを研究している。
アテネの小学生は目的があって勉強しているから親がお金を出してあげている。今の時代に目的を持つことを学んでいかないといけない。

吉田松陰は20歳まで長州を出ませんでした。21歳で江戸に出て、東北をまわって色々学んだときにペリーが来ました。これからは外国に行くべきだと思った。吉田松陰は「飛耳長目(ひじちょうもく)」と言っています。20歳まで学問をして、21歳から旅を初めて、学問と比較して広めた。下田でペリーの船に乗り込もうとしてつかまった。旅の回数でいうと吉田松陰は清河より少ない。
清河は25歳までに4回旅に出ている。京都に遊説に行きます。薩摩屋敷に集まれと扇動した。幕末の風雲は清河の九州遊説から始まったと言われている。
吉田松陰と比較するわけではないが、当時旅をした人が少なかった。鉄舟も旅をする機会が少なかった。
以上

【事務局の感想】
清河八郎のイメージはよくありませんでしたが、今回の山本さんの話で時代の最先端の塾を開いていた文武両道の人ということが分かり、イメージが変わりました。
この清河八郎と鉄舟がどのように展開して、二人が同志関係になったのか、今後の山本さんの研究が楽しみです。

投稿者 staff : 17:18 | コメント (1)

2008年03月23日

3月例会記録(1) 

「大森曹玄老師の思い出」
今井 裕幸氏

 本日お話させていただきますのは「大森曹玄老師思い出」というテーマです。30年ほど昔、私が若いときに、皆さんご存知の『山岡鉄舟』の本を書かれた大森曹玄老師が、「鉄舟会」という座禅の会をやっておりました。私は18歳までは四国で過ごしておりましたが、東京に出て来まして、いろんな人に会ってみようと思ったこと。またヨガもやっておりましたので、大森曹玄老師を知ることになり、東中野にあった鉄舟会に参加させていただく機会に恵まれました。


レジュメに「鉄舟会清規」というものを載せています。鉄舟会は第2・第4日曜日に座禅の例会が行われていました。会費が例会出席者は月額100円でした。「ただより高いものはない」と言われます。ただだと実際には高くなるから、一番安い100円を会費として、ちゃんと会費はもらっていますという、相手に対する配慮のようなものです。箱に月額100円と書いてあり、そこに自分で入れるだけでした。
中野の高歩院(こうほいん)で、毎回大森曹玄老師が来られて15~25人くらい毎月例会が行われました。今から30年くらい前になりますから、当時の私も若く18歳くらいです。誰から紹介を受けて行ったわけでもない、そういう若造が行っても受け入れてくれる度量の深さといいますか、座ることに関してちゃんと座ってさえいれば、一人の参加者として扱ってもらえる会でした。

摂心というのがありまして、山梨県上野原にある青苔寺(せいたいじ)で行われる大摂心にも参加させていただきました。

座禅の一口メモとして
臨済宗   向い合って座る         公案がある      白隠禅師   天竜寺等
曹洞宗   面壁(壁に向かって座る)   公案はない。     道元禅師   永平寺等
黄檗宗   教室型(同じ方向を向いて座る) 鳴り物が入りお経が中国語読み 万福寺等
山岡鉄舟居士、大森曹玄老師は、臨済宗です。

居士禅(コジゼン)
本来座禅は出家しないとできないのですが、在家で座禅するのは居士禅といいます。鉄舟は居士禅の元祖みたいなところがありまして、本来は出家しなければできなかった座禅を、鉄舟居士の頃から在家でも座禅が認められるようになってきた、元祖みたいな位置づけもあります。
男性は居士(こじ)、女性は大姉(たいし)と呼ばれます。一炷香(イッチュウコウ)、線香が一本燃える時間で、およそ45~50分をさします。時計を使わず、直日(ジキジツ)の合図で一炷香を、一単位として座ります。居士禅では1日一炷香は毎日欠かさず座りましょうという考えがあります。

摂心会(セッシンエ)
 日常の修行の他に、集中して修行の成果を上げる為に、摂心会があります。1週間から10日くらい合宿して座ります。参禅をして公案をすすめることになります。在家の居士は仕事を休んで参加しますが、休めない場合はそこから昼間出勤します。その分、夜座とか、一晩中徹夜で座る、徹宵(テッショウ)とかをすることもあります。

法話・講話・提唱(テイショウ)
坊さんが話しをするときには、法話、講和、提唱という段階があります。普通に仏教の話をするのが法話、もうちょっと専門性がある段階は講和と言います。摂心の中で話される、老師・師家が境涯を捧げ出す、それが提唱です。提唱は聞く方も座禅の姿勢で、目だけを開けて、でも姿勢は座禅と同じ状況の中で老師の境涯を受けるのが提唱です。

性(せい)と相(そう)  「性=本質」  「相=表に見えているもの」 
 座禅は何のためにするかというと、「見性」するためにするのです。性(せい)と相(そう)という言葉があります。「性」というのが、本性とか、目に見えない本質の部分のことで、「相」が、実相とか、人相とか、円相など、表に現れて見えているもののことです。
 
見性(ケンショウ)
小さな悟りが見性です。人間の本性は卵の殻のように自我で囲われており、自我の殻を座禅で究極に自分を詰めていき、自我を破壊することが座禅をやる目的です。無念無想になるとか、雑念を取り去るなどと言っている段階では、実際やってみると、そうはなりません。足が痛いのを通り越し、もう疲れてどうでも良くなり、その段階を超えて自我の殻を破壊するために摂心をします。

臨済宗では見性をするために公案があります。公案とはいろいろありますが、例えば「父母未生以前の本来の面目」自分が生まれてこの世にある、自分を産んでくれた両親が生まれる以前の自分は何ですか。「隻手の声」は、両手を打てば音はするが、片手で拍手を打っても音はしませんが、その声を聴いてきなさいという禅問答です。理論で考えてもわからないから、その問題について「工夫する」という言葉を使います。工夫して、師家に参禅し、見解することにより、公案がすすんでゆきます。
悟った瞬間というのが、卵が生まれるときに、生まれる小鳥が殻の内側からくちばしでつついて突き破るのですが、同じ時に同じ箇所を親鳥が殻を突くその瞬間が悟りで碎啄同時(ソクタクドウジ)に殻を破る、参禅者と師家の関係になぞらえた話です。見性にもいろんな段階があり、公案がいくつも進んでいきます。公案が進んで、最終的に大きな悟りをします。
山岡鉄舟が1880年3月30日大きな悟りを開いて、適水和尚の印可を受けたことは、本にも書かれているし、大森老師もおっしゃっておられました。

鉄舟会で何をやっていたかというと、誰でも受け入れてくれる自由な雰囲気で、午前中座って、必ず大森曹玄老師も来られて、寺山旦中さんらも修行しに来ておりました。自分自身が修行をしにきて、一緒に修行している感じです。教えたり、教えられたりという関係ではなくて、全員が一緒の方向を向いていました。来るものは拒まず、去るものは追わず。若い私も受け入れてくれる度量の深さがありました。錚々たるお名前が並んでおりますが、来て、さりげなく普通に居られるわけです。

午後から鹿島神伝直心影流法定を稽古します。木刀より短く太いもので、打ち合うというより型が中心です。
その後は、筆禅道(ひつぜんどう)です。書道とはいわないで「筆禅道」と言い、円相、線を書きます。線を見て座禅の中で、どこまで進んでいるのか境涯を見ます。「墨気」墨の気がどういう風に立っているかというものを見ます。大森曹玄老師が一番中心になってやっておられました。

高歩院は、東中野駅から5分か10分くらいの、表通りからちょっと降りて行くような所です。例会の参加者は10名ちょっとから20名ちょっとくらい。青苔寺の大摂心のときは、それでも30名くらいです。水洗便所ではないですし、摂心のときの作務で田んぼや畑を掘って、トイレのものを埋めました。肥汲みもみんな競いあって一生懸命にやるんです。当時意識していなかったですけれど、錚々たるメンバーが来ておりました。みんな偉ぶっておらず、一緒に修行する人という感じで、厳しい中に気さくな雰囲気でした。

鉄舟会に通っていたのは、30年前の半年ちょっとくらいで、その後は大学の座禅の会にはいりました。大森曹玄老師が亡くなり、今はどうなっているのか分かりません。

【事務局の感想】
若い頃からいい会で勉強をされ、いまも鉄舟に縁のあるこの会で勉強をされている今井さんからの発表でした。大森曹玄老師が一番中心に居て、会の要になられていたという様子が分かりました。今回は大森曹玄老師のお話が少なかったので、ぜひ次の機会に老師についてと「境涯」について発表していただきたいと思います。

投稿者 staff : 12:47 | コメント (0)

2008年03月20日

「山本時流塾」の開催

当会の講師を担当されている山本紀久雄氏が、「世界から日本を見、日本から世界を見て時流を学ぶ」~目からウロコの時事解説~を開催しますのでご案内いたします。ご参加ご希望の方は世話人にご連絡お願い申し上げます。

  名称   「山本時流塾」  
  講師   山本紀久雄氏 
       経営コンサルタント、山岡鉄舟研究家、経営ゼミナール代表
  開講   平成20年4月11日(金)午後2時~2時間(初回のみ)
       以下毎月第2金曜日 午後4時から2時間 定例会とします
  内容   講師による時事解説と質疑応答

  人数   20名
  参加費  1,000円
  会場   株式会社 東邦地形社(会長 山本浩二氏)会議室
        渋谷区神宮前6-19-3 東邦ビル8階  
       (JR渋谷駅東口から徒歩8分 明治通を原宿方面へ 
                          渋谷女子高校前)
  懇親会  終了後任意参加で行います 会費2,500円程度
  世話人  矢澤昌敏
        E-mail:m_yaza10@eos.ocn.ne.jp
伊藤 実
        E-mail:cyf10254@nifty.com
  申込み  原則として第1金曜日を締め切りといたしますが、定員にな
       り次第締め切ります

                              以上

投稿者 Master : 17:19 | コメント (0)

3月例会の感想

桜の蕾ふくらむ初春の第3水曜日、鉄舟サロン例会が行われました。
その様子をご報告いたします。

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今月の発表者は、今井裕幸氏です。

今井氏は、「大森曹玄老師の思い出」と題し、大森曹玄氏がご指導をされておられた高歩院「鉄舟会」での参禅の様子や、そのときの「禅」の心得などを解説されました。

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「碎啄同時」
ここ数週間の間に、私はまったく異なる2箇所の情報源からこのことばを手に入れました。
ひとつは、作家・夏樹静子さんの著書『椅子がこわい』(新潮文庫)で、もうひとつは今回の今井氏の発表からです。
事をなすには最適のタイミングがあり、それが合致したそのときこそ最大の効果を持って物事が成されるのであり、そのときこそ大いなる悟りが得られるということなのです。
現在編集作業を進めております『鉄舟研究録・巻之二』で展開されている、鉄舟の江戸無血開城の功績は、まさにこの「啐啄同時」の歴史的瞬間であったと感じられます。
鉄舟・海舟・西郷、そして益満休之助や望嶽亭の松永氏…。彼らの絶妙なマッチングは、寸分の狂いがあっても成立し得なかった奇跡の出来事でありました。
「啐啄同時」のタイミングを掴むこと、それは「時流」を掴むことではないでしょうか。
大変示唆に富んだお話をいただくことができた、今井氏のお話でした。


続いては、山本紀久雄氏の鉄舟研究です。

今回は、清河八郎の人物像について迫るお話でした。

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一般に清河八郎のイメージは芳しくないものが多いです。
「山師」「策士」「出世主義者」…。
これらの雑音にとらわれず彼の足跡を辿ったとき、彼の人物像が浮かび上がってくるのではないか、なにゆえ、彼と鉄舟は「同志」の契りを交わす仲となったのか。
今回は、彼が倒幕の志を立てるまでの、生い立ちから青年時代の足跡を追いました。
清河八郎は大変優秀で、周囲の聞こえ宜しい人物であったようです。
このことと、その後の評価には著しいズレがあります。
なぜか。

次回をお楽しみに。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 08:39 | コメント (0)

2008年03月08日

山岡静山との出会い・・・その一

山岡静山との出会い・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 山岡鉄舟が小野性から山岡に変わった背景に、鉄舟が真から心酔し傾倒した人物との出会いがあった。その名は山岡静山である。
 静山の墓碑は文京区白山二丁目の蓮華寺にあり、寺の紹介板が白山下から小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、蓮華寺へ上る道端に立っている。

「『蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指ヶ谷町の方へ出る坂なり』と改撰江戸志にある。蓮華寺は、天正十五年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという」(文京区教育委員会)
 
 日蓮宗・本松山蓮華寺の開山は、豊臣秀吉が小田原の北條氏を滅亡させ全国統一を成し遂げた三年前、ヨーロッパではイギリスが無敵のスペイン艦隊を撃破した二年前にあたる。古刹である。
 
 蓮華寺は別名「武士寺」と称された名残で、武士の墓地が多いと言われ、その墓地は本堂横から奥に広がっている。墓地を入ってすぐ目につくのは、石組み外柵に囲まれ、水鉢・花立の両側に重々しい灯篭が配置された、格式高い一つの墓碑である。正面墓碑には山岡累世墓「るいせいぼ」と書かれている。「代々の墓」という意味である。書かれた書体は鉄舟のものと思えるが、なかなかその場で判読できず、後日専門家にお尋ねしようやく分かった次第である。

 また、背面の墓誌にも多くの法名が彫られており、最後に明治十年丁丑六月山岡鐵太郎建之とある。明治十年(1877)西南戦争の年であるから、それから百三十年、風雪に耐えてきたので大変読みにくい。ようやく判読すると、彫られた法名の最後から六人目に「清勝安政二年乙卯年六月晦日」とある。
 
 静山は安政二年六月晦日に逝去し、戒名が「清勝院殿法授静山居士」であるから、この中の「清勝」という名と、逝去日で静山と判読できる。御霊はここに刻まれているのである。

何故に鉄舟が小野性から、山岡姓になったのか。また、何故に静山に傾倒したのか。その経緯をお伝えするには、当時の時代背景から語らねばならない。

 鉄太郎が飛騨高山から両親の死去により、江戸に戻ったのは嘉永五年(1852)17歳、異母兄の小野鶴次郎屋敷で、冷たい待遇を受けながら、二歳の乳飲み子を含む五人の弟達を必死に面倒を見、持参金付で他家に養子に出し、自らは百両のみ手許に置き、身辺整理を終えたのが翌年の嘉永六年(1853)、十八歳であった。

 この年、日本は未曾有の大事件を迎えていた。それは、米国ペリーの来航であった。日本が始めて正式外交として米国と接し、鎖国体制に壁を開けられた大事件である。当時の日本人の誰もが目の前に現れた外国という存在を意識し、大きな関心事として受け止めたが、当然、玄武館道場で剣の修行に励んでいた鉄太郎にも大きな影響を与えた。このペリー来航による鉄太郎の行動結果が、静山との出会いをつくったのである。


 しかし、この説明に入る前に、当時の日本人が一般的にペリー来航に対してとった行動、それは、従来、ある一つの見方から、一律的に当時の人々を描き語られているのであるが、実は大きく異なっていたことを解明しなければならない。この誤解を解くことが日本人の本質的な検討につながり、鉄舟分析にも通じることになるので、少し横道にそれるようであるが、今回と次回で触れていきたい。また、この検討のためには、ペリー来航の際に行われた外交交渉についても、その要約を押さえておくことが必要である。

 筆者が関係している「山岡鉄舟全国フォーラム」は、2006年12月、北海道大学文学部井上勝生教授をお迎えした。その講演の中で井上教授は次のように結論付けされた。それは、「当時の日本人は、今の日本人が持つ西洋人に持つコンプレックスのかけらもなかった」という事実指摘である。これについて井上教授講演内容と、同氏著書「『開国と幕末維新』講談社」から以下要約をお伝えするが、井上教授講演内容は本号巻末のホームページを参考にしていただきたい。

 さて、沖縄を経由したペリーは嘉永六年六月三日(西暦の七月八日)、旗艦はサスケハナ号(二千四百五十トン)以下四隻の艦隊で、夕方浦賀に碇を降ろした。ペリー一行は、富士山が綺麗に見渡せる浦賀に入る前後から、日本の多くの船と遭遇しているうちに、浦賀奉行所与力の中島三郎助が乗船した一艘の番船がサスケハナ号漕ぎよせられた。日本側は中央の帆柱に旗を掲げているのが「旗艦」だという「外国の法」を知っていたのである。

 これが日米最初の交渉が始まる瞬間だった。この交渉の様子は「対話書」に明らかである。「対話書」とは現場の応接掛や奉行が作成し幕閣へ届けた公式史料で、現在は外務省外交史料館にある。

 三郎助「船は、何国の船にて、何らの訳あり、当港へは、渡り来たりそうろうや」

 アメリカ「船は、北アメリカ合衆国の船にて、本国首都、ワシントンより、大統領より日本国帝に呈しそうろう書簡、所持いたしそうろう。高官の者、乗り組みおりそうろうあいだ、日本の高官の人にこれなくては、応接あいなりがたくそうろう」

 三郎助「日本の国法にて、これまでたびたび、異国船も渡来いたしそうらえども、高官の者、異国船へ乗り組み、応接いたしそうろう儀、一切これなく・・・」

この冒頭の対話で見るように、最初から日米の激しい論争が始まっている。ペリーは、国書を持っているが故に、「高官」との交渉を要求し、日本側は、「高官」との応接は「日本の国法」に適わないと拒否した。

 この論争の背景には、当時の国際法と日本国内法との違いがあった。当時の国際法は、欧米諸国だけに構成員を限定したもので、さまざまな点で今の国際法と異なっているので、今の「現代国際法」と区別され「近代国際法」と呼ばれている。しかし、この当時の国際法に則ってペリーが外交を開始しようとするのは当然であり、大統領書簡を持ち、東インド艦隊司令長官兼遣日特使という、権限を大統領から与えられたのであるから、日本高官との応接を求めるのは当然であり、結果は
「反船(ボート)を以て、上陸いたし、高官の人に直にあい渡し申しべくそうろう」
と、実力行使の上陸強行を表明したが、これはペリーの砲艦外交を示すものであった。

 これに対し、中島三郎助は次のように答えた。
「国にはその国の国法これあり、その法を犯しそうろう儀は、あいなりがたし、いずれにもぜひぜひ次官の者にても面会したくそうろう」

 この応答は現在の国際法に合致しており、当時の近代国際法にも完全に合致していた。
米国側は妥協し、中島三郎助はサスケハナ号に乗船し、ペリーの副官と応接した。これが正式な日米外交のはじまりだった。
 
 翌日の四日(西暦七月九日)には、浦賀奉行の香山栄左衛門がサスケハナ号を訪れ会見したが、その会見の間に、ペリーは江戸湾を測量すべく、測量船を蒸気軍艦ミシシッピー号に守らせて江戸湾に侵入させた。ミシシッピー号(千六百九十二トン)は、サスケハナ号よりは一回り小型船であるが、日本の千石船は百トンであるから、比較にならない彼我の船舶差であった。

 この江戸湾への侵入に対し、香山栄左衛門は抗議を行ったが、米国の法律によって測量する義務を有するとしてペリーは強行したのである。

 ミシシッピー号とそれを阻止しようと対峙する様子が、ペリーに同行した画家のハイネによって描かれて残っている。陣笠・陣羽織姿の役人が、扇を挙げて測量船を制止し、鑓も突き出され、米側には銃剣を向けている兵士もいる。

 この強攻策は功を奏して、日本側の譲歩によって水路を開けさせ、羽田沖十二丁、約一.三キロメートルに迫った。当時の領海は三カイリ(約五.六キロメートル)と近代国際法で決められていた。三カイリは砲弾の到達距離である。このころの炸裂弾も備えたパクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は、三カイリをはるかに超えていた。江戸城が竹芝沖から射程に入るのである。

 サスケハナ号で中島三郎助が「船尾へ足を運んで巨砲を見ると、これはパクサンズ砲ではないのか」と船員に尋ねたとウィリアムズの「ペリー日本遠征随行記」が記しているように、日本側は新型大砲について知識があり、射程距離を気にしていたことが分かる。

 この測量船の江戸湾侵入によって、翌日、幕閣の評議は米大統領の国書受け取りを決断した。反激論もあったが「大国の中国でもついに国を挟められし程の国害」(「老中覚」六月)と、浦賀奉行への書取(命令書)付属文書に明記されているように、アヘン戦争での中国の敗戦が、幕府に大きく影響を与えていた。

 当時の近代国際法では、世界の国々を「文明国」「半未開国」と、国とは扱わない「未開」
の三群に区分していた。文明国とは欧米の国家群であり、半未開国とは半文明国としてトルコ、ペルシャ、シャム、タイ、中国、朝鮮と日本を指し、法律のあることは承認されていたが「文明の法」とは認知されず、主権を制限され、領事裁判権等の特例を設けられていた。これにしたがってペリーは日本に対応していたのである。
 
 さらに、ペリーの江戸湾侵入は、久里浜での国書受け取りの九日(西暦七月十四日)の翌日十日(西暦七月十五日)にも強行された。このようなペリーの対応は江戸という首都の弱点を事前に十分知って練られたものと言われている。江戸の地勢は海に近接している。その上食糧自給率は低いので、浦賀水道が閉ざされると、江戸は危機に陥ることが予測される。臨海政治都市江戸の姿は、日本が海からの防衛に不利な軍事的弱国であることを示している。

 このことは異国船打払令が出された翌年の文政九年(1826)、シーボルトは「江戸参府紀行」の中で、江戸は「異常に大きい人口」を持っており、江戸への海上輸送が一週間途絶えれば「大名屋敷にいちじるしい圧迫を及ぼし、貧困な庶民階級は飢餓に苦しむ」と記し、海上輸送のストップが江戸を窮地に陥れることを見抜いていた。この指摘内容を理解していた幕閣は、ペリーの強攻策によって国書受け取りとなったのであった。

 ところで、このペリー艦隊に対する日本国内の反応はどうであったのであろうか。
 「太平の眠りをさます正喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も寝られず」と、当時の落書にあり、「市中はあげて大混乱に陥った。処処方々に、子どもをかかえた母親や老母を背負った男たちが逃げまどい・・・軍馬のひづめの響き、武装したサムライのわめき声、ひしめき合う荷馬車の騒音、隊をなして走る火消し組、乱打される半鐘の音、女たちの金切り声に混じって、泣き叫ぶ子どもたち・・・」(ダルス著 辰巳訳「日米交渉秘史」読売新聞社)
と一般的に表現されている。
 
 ところが、「ペルリ提督日本遠征記」には次のように記されている。
 「測量船が下ろされ、湾の奥を測量する。入江があり、漕ぎ上る。そこへ外国人を見たいと住民が集まってきた。『人民の或る者はあらゆる身振り手真似で歓迎の意を表してボートに挨拶をし、ボートへ喜んで、水と、すばらしい梨を幾個か提供してくれた』。たがいに友情がわいて、『煙草を交換し合って喫んだ』。士官が短銃を見せ、『それを発射して、初めてそれを見た群衆を面白がらせ、日本人をいたく驚かせ喜ばせた』。帰還した水兵たちは、『日本人の親切な気質と国土の美しさに、有頂天になっていた』」とある。
 
 住民が差し出した「すばらしい梨」、梨は通常秋に収穫される。果たして遠征記に記されたように、梨が七月に収穫されていたのか、そのことを神奈川県の農業技術センターに問い合わせた結果、ペリー側の水兵がもらった梨は、江戸後期に栽培されていた「わせろく」で、六月下旬から収穫できた青い梨であるとの調査経緯を、「山岡鉄舟全国フォーラム」で井上教授が語ってくれた。
 
 さらに井上教授は加えて「幕末の民衆が、親切で社交的で快活な振る舞いをみせるのは、じつは珍しいことではない。一面化をおそれず言えば、その方が普通なのである。文明開化以前には『外人』などと恐れたりしなかった」と断言し、「ペルリ提督日本遠征記」の記述の事実関係の信憑性は高い、と伝えるのである。
 
 多くの文献が、ペリー来航によって日本人は「慌てふためいた」と表現しているが、事実は「ペルリ提督日本遠征記」に記されている姿が実態なのである。
 勿論、鉄太郎も慌てふためかず、ペリー来航に対して鉄太郎らしい行動をとったのである。

投稿者 Master : 08:20 | コメント (1)

2008年03月07日

天璋院篤姫展見学

2008年NHK大河ドラマ特別展・江戸東京博物館開館15周年記念 4月6日(日)まで開催中
3月というのに今年の春は風が冷たい。少しは温かかい4日に両国の江戸東京博物館に行き見学をしてきた。
見学理由は、
一つには、山岡鉄舟研究会の代表でもあるので、幕末から明治に関心があること。
二つには、先日「ルーブル美術館展~フランス宮廷の美~」を見学したが、日本の美をみたいと思ったこと。

会場は、現在NHKで放送中ということもあり、女性の来場者が非常に多く見られた。会場の混み具合からは、ルーブル美術館展の方が見学者が多かったようだ。
篤姫展はポスター・チラシに篤姫の顔を大きく取り上げた。NHKのドラマの主人公でもあるので、人物に焦点をあてたということであろう。ルーブル美術館展では、展示物の道具、マリーアントワネットの旅行用携行品入れがポスターの取り上げられており、品物中心の展示であることがわかる。
篤姫の顔を見ると、江戸時代から明治までの激動の時代を生き抜いてきた女性だけあり、強い意志がその目と姿勢に現れていると感じた。
篤姫は、薩摩の島津家の一門の今泉島津家に生まれましたが、島津斉彬に見初められ、その波乱の人生の幕開けとなります。島津斉彬の養女となり、徳川十三代将軍徳川家定の嫁いでいく。
正式に嫁ぐまでにも、側室という立場になるかもしれないなど紆余曲折があり、3年も江戸で待たされてやっと婚礼となる。
ところが結婚してわずか1年半で、家定は死去してしまい、その後7日後に支援者である斉彬も急死。両腕をもぎ取られたように状況の中、篤姫は天璋院となり、その後の大奥を生きていく。
家定亡き後は、島津の望みの慶喜ではなく、家茂(いえもち)が十四代の将軍となり、篤姫は、力を発揮でずにいたが、家茂の後見役として、公武一和の実現に尽力をする。
しかし、家茂も21歳の若さでなくなり、孝明天皇が急死すると、天璋院の実家である島津家と嫁ぎ先である徳川家の間に亀裂が生じ、修復不可能になり、世の中は倒幕に傾斜していく。しかし実家といえども嫁に出れば婚家が家となる時代である。天璋院は徳川のため、薩摩の西郷隆盛らに働きかけ、江戸の無血開城のために尽力をしていく。
又天璋院は、徳川の存続を嘆願し、十六代家達(いえさと)の家名継承を取り付け、その重責を果たすのである。
明治に入っては、天璋院は、幼い家達の養育を第一にその成長を支え、旧幕臣の精神的な後見役として、四八歳の生涯を閉じる。

この篤姫の生涯を、今回の展覧会では、手紙、日記などの資料でもって解説している。
天保六年生まれは、西暦1835年。今からたった173年前のこと。資料がよく保管されている。
・島津斉彬の画像は、明治天皇のことも描いたキヨソネが、1857年に自らが撮影した銀板写真をもとに、斉彬の親交のあった旧大名たちや斉彬付き女中たちの意見を聞いて描かれたもの。立派な顔立ちである。
・新政府軍の旗の「錦の御旗」を初めて見ることができた。
・江戸開城談判の絵 結城素明筆 慶応4年3月13日 田町の薩摩藩邸
西郷隆盛、勝海舟の談判している図である。まさにこの時代に鉄舟は活躍した。
・勝海舟江戸開城図 川村清雄著 明治18年(1885)
 足元には、葵紋の軒丸瓦が落ち、背後に海舟を襲わんと刀を構えた人物とそれをとめようとするものが象徴的に描かれてる。明治政府にすんなりなったわけではなく、こういう不穏な時期もあったのだと分かる。
・勝海舟日記 巻八 明治2年 1869年 7月2日
 篤姫に薩摩藩から天璋院に三千両(援助)を送ったことを記した日記。
 天璋院は、徳川の賄いで十分であると断っている。
・明治6年3月1日には、「断髪許可証」なるものがあった。
女性が理由なく断髪することを醜態だと禁じている。

天璋院は、明治16年(1883年)11月20日49歳で亡くなる。
・勝海舟日記 巻十七 明治16年(1883)11月12日~ 11月16日条
天璋院の死因は、ベルツ血栓ではないかと見立てている。

二つ目の関心である日本の美であるが、もっと多くの道具類や着物などの展示があるのかと想像していたが、今回は少なく篤姫の化粧道具や貝あわせ、着物等が展示されていた。貝あわせは、黒の漆の中に金で鳳凰や葵の絵が描かれている。貝は同じものでないと会わないことから、結婚に際しての非常に大事なお道具として、興し入れの際には行列の先頭に立って、持ち運ばれるほどのものであるという。
化粧道具は、かなりの数の道具が漆塗りで作られていました。女性は、化粧道具に力をいれるのでしょうか、マリーアントワネットも天璋院の道具も、かなり凝ったものである。お姫様のお道具としては、見ていて楽しいものの一つである。

今回の展覧会は、歴史に沿って手紙や日記などにより具体的にその過去をたどったものになっている。
女性の人生は一人で切り開いていくことが難しい時代を、波乱ではあるが強く婚家のために生き抜いた一人女性の姿を通して、激動の幕末、明治の時代を知ることができた。

投稿者 Master : 22:05 | コメント (0)