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2011年06月07日

彰義隊・・・その五

彰義隊・・・その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟が彰義隊解散を命じるための交渉相手として向かったのは、上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院であった。

 ここで疑問なことは、彰義隊には隊長以下幹部がいる。頭取は当初は渋沢成一郎だったが、渋沢が屯所を置くべき場所の見解相違から離脱し、直参旗本三千五百石の本多邦之輔となり、その後本多が辞任し、小田井蔵太と池田大隅守(七千石)の二人が隊長(頭取)となり、天野八郎は副頭取である。このように彰義隊は組織化された一大勢力であるから、当然に鉄舟が交渉相手として向かう場合、これら彰義隊幹部であらねばならない。

だが、実際には覚王院との交渉にならざるを得ない結果となった、その背景を解明していきたいが、その前に官軍・新政府軍側において、権力の位置づけが変更されたこと、それは西郷の権威失墜ということであるが、これが彰義隊攻撃につながるものであるから、これをまず検討したい。

閏四月八日・九日の両日、岩倉、小松、西郷、大久保らが、京都の三条実美大納言邸で、徳川処分に対する二案の検討会議を行った。

第一案は「禄高は百万石限り、地所は駿河の国、家名相続人は田安亀之助」
第二案は「禄高と相続は一案と同じ、地所は江戸城と武蔵の国、海舟と大久保を召す」というものであった。

会議は紛糾した。十日になっても続けられたが結論が出ず、三条が関東大監察使として西郷を伴って江戸に向かうことになった。

当然に第二案は西郷が提案したものであって、西郷が官軍・新政府軍の中で重要な位置づけの状態であったならば、第二案は西郷の権威で通ったであろう。

だが、三月十二日十三日の両日、芝・高輪の薩摩屋敷において、海舟と西郷とで取り仕切り、江戸無血開城を成し遂げた当時の権威は、既に西郷にこの時なく、大勢は第一案の方向に動いて、ひとり孤立している実態を、三条大納言邸は明らかにしたのであった。

会議は西郷の面子を立て、結論は現地視察を行ってから決めることにし、佐賀藩の江藤新平を伴って江戸に向かった。江藤は新たに大総督府軍監となり、江戸民政をつかさどる江戸鎮台判事に任じられ、同行したのである。

江戸に着いた三条と江藤が見たものは、西郷が海舟の意を斟酌し、江戸市中治安取締りを彰義隊という敗者側に与えた結果として、官軍側と様々なトラブルを発生させ、混乱状態を引き起こしている実態であった。

官軍・新政府軍としては、一日でも早く江戸での権力構造を固め、会津中心に結束された奥羽列藩同盟への対処に動きたいのだが、現状では安心して東北方面に進攻できない。

そこで、三条と江藤は、彰義隊をすぐにでも討伐すべきという意志から、長州藩の大村益次郎を軍防事務局判事として、江戸につれてくる人事をうったのである。

この人事は、大総督府から軍防事務局への権力移行となり、江戸市中の治安権力を西郷から大村へ手渡したという意味になる。

大村の投入は、海舟に対する対応も一変した事を意味する。海舟は彰義隊を慶喜の江戸復帰実現のための取引材料として、最大限利用しようと賭けをうったことは前号で述べた。江戸治安維持には慶喜が必要だという主張である。

しかし、これはもともと危険極まりない賭けである。彰義隊が海舟の手で統制可能だという条件下でのみしか成功しない。ある程度の混乱は生じることは慶喜復帰に必要条件であるが、彰義隊が海舟から離れ収拾不能状態に陥ってしまっては、海舟の政治力が喪失したことになり、取引は成り立たなくなる。今やこの状態に海舟は陥っていた。そのことをこれは閏四月二十九日の『海舟日記』が示している。

「此頃彰義隊の者等、頻りに遊説し、その党倍多く、一時の浮噪(ふそう)軽挙を快とし、官兵を殺害し、東台に屯集ほとんど四千人に及ぶ。その然るべからざるを以て、頭取已(い)下に説諭すれども、あへてこれを用ひず。虚勢をはって、以て群衆を惑動す。あるひは陸奥同盟一致して、大挙を待つと唱え、あるひは法親王を奉戴して、義挙あらんと云ふ。無稽(むけい)にして着落なきを思わず。有司もまた密に同ずる者あり。はなはだしきは、君上の御内意なりと称して、加入を勧むる者あり。是を非といふ者は、虚勢を示して劫(おびやか)さむとす」
この頃の彰義隊は、海舟のいうことなぞは無視する状態に陥っていたのである。

このような中、大村は着々と武力解決への準備を始めた。五月一日に、田安中納言と彰義隊にあずけていた市中取締の任を解き、巡邏警備の権を官軍の掌中に収めたのである。この結果は当然ながら、官軍・新政府軍の態度が一変する。

五月二日の『海舟日記』は次のように記されている。
「市中取締ならびに巡邏、官兵にて仰付けらるに付、此方にて心得るに及ばざる旨、督府より御達」
考えてみれば、大総督府から「江戸鎮撫万端」を委任受けたのが、閏四月二日であったから、彰義隊は一ヶ月間のみの治安維持活動であった。またそれは、海舟が慶喜復帰の取引を行った期間であり、復帰という賭けに負けた期間でもあった。

しかし、これは海舟から見た期間である。既に見たように官軍・新政府軍は京都三条大納言邸で開かれた三日を要した閏四月十日の会議で、西郷の位置づけが変わっていたのであるから、海舟が彰義隊を慶喜復帰の切り札として実質的に使えたのは、閏四月二日から十日までの僅かな日数にすぎなかったということになる。海舟には分からなかったが、海舟の賭け、それは海舟の官軍に対する政治力が根源であるが、西郷の権力喪失と共に消えたのである。

さて、彰義隊が江戸市中取締の任を解かれたことは、上野山中に大きな衝撃となり、彰義隊士は激怒した。だが、隊士よりさらに憤激したのは、寛永寺の僧侶たちであり、それらを仕切っている覚王院であった。

五月八日の『海舟日記』に
「彰義隊戦争の企てあると聞く。官軍これを討たんといふ説紛々、隊長へきびしく説諭す」とあり、同じ日に
「彰義隊沸騰、風聞には、法王(公現法親王)を奉じて一戦せんといふ説あり。笑うべし」ともあり、五月九日には
「彰義隊東台に多人数集り、戦争の企てあり。官軍これを討たんといふ。その因て来たるところ、法王(公現法親王)三月中駿河に出駕、大総督へ辛うじて御面会、君上の御嘆願については、種々御尽力もありしにや、終に、君上単独軍門に降られなば、寛奥の御処置にも及ぶべき様、御約もありしに、我輩同月十五日、参謀(西郷)に引合、これらの御事力を奮って止めしかば、陪僧覚王院その功の成らざるを憤り、東帰後もっぱら戦争をすすめしかども、御採用なし。これより愚背を煽動して党を集め、法王を取立て政を復せんといひて小人輩を誘ふ。ついに今日の事にいたるなり」

つまり、海舟は、彰義隊の隊士共が自分の指示に従わないのは、バックに覚王院がいて、覚王院は当初から主戦論であって、その主戦論の根拠は、官軍東征の際、上野輪王寺宮の公現法親王を通じ、直接有栖川大総督に行った和平工作が失敗し、海舟・鉄舟連合に名をなさしめたという怨念・遺恨から発しているという理解であった。

さらに、覚王院の背後には、先々帝仁孝天皇の猶子、明治天皇の叔父となる皇族の公現法親王が存在しているのであるから、覚王院が強力にバックアップしている彰義隊は、独立した徳川家とは異なる新たに大きな政治勢力となったことを意味し、その勢力下に徳川家の家臣である彰義隊士達が移るという事態になる。

これは海舟にとって許されることではない。そこで鉄舟をもって、覚王院を説得し彰義隊解散させるために、上野山中の寛永寺へ向かわせたのであった。

以上の経緯が一般的に認識されている内容である。

投稿者 Master : 2011年06月07日 17:42

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