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2007年07月05日
飛騨高山の少年時代その五
飛騨高山の少年時代その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
人の現在は過去に影響される。特に子供時代の出来事が、成人後の自分に大きく投影されることが多い。鉄舟も同じである。
鉄太郎としての少年時代を、エピソード的に前号までにお伝えしてきた。その一つは、町人百姓の子供教育施設である「寺子屋」で学んだことである。飛騨高山郡代の子息が、町方の子供と一緒に机を並べるということは、身分上、通常あり得ないのであるが、両親は周りの意を介さずに通わせた。結果的に鉄舟の民主的思考に大きな影響を与えた。
二つ目は、書法を全く知らなかった鉄太郎が、後年、小野道風に比せられるまでになれたのは、飛騨高山で岩佐一定という書の良き師に出会え、潜在していた書の能力を開花できたからであった。
三つ目は、宗猷寺の鐘楼の鐘を、和尚さんが「くれてやる」と言った冗談を本気で受け止め、それに対してねばりにねばった尋常でない気質。それは生来の正直一途、一本気、剛直、剛情さを正しく証明している逸話であって、当時の江戸っ子旗本気質である、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルという一般的評価とは、全く異なる性格の証明であった。
四つ目は、父の代参でのお伊勢参りの旅、そこで出会った藤本鉄石によって国際情勢を、伊勢神宮神主の足代弘訓から国学思想を学ぶことができたこと。この二人との出会いは、高山という山深い小さな地域では、とても入手し難い時代の先端的思考を養うことになり、江戸無血開城という対官軍和平路線への伏線となった。
以上が前号までお伝えした内容であるが、五つ目となる今回は両親との別れである。人は両親から受ける影響が最も大きいが、その両親が子供時代に相次いで亡くなるという事態に接すると、子供心に受ける打撃は計り知れない。
鉄太郎にとって両親の死は突然訪れた。鉄太郎が十六歳の時、母磯が脳卒中で倒れ、その五ヶ月後父小野朝右衛門が亡くなった。
まず、今月号では母磯について述べたい。磯は「至って丈高く色黒く気分鋭し」」(『おれの師匠』小倉鉄樹著)にあるように、頭脳鋭き長身の女性であり、飛騨高山郡代の奥方身分になっても、決しておごらず威張らず変わらずに人に接していた。陣屋での生活でも、いつも自分で身体を動かす陰日なたのない明るい性格であったので、小野朝右衛門が七十歳を超える高齢でありながら、飛騨高山郡代の重責を立派に取り仕切れたのは、磯の協力が大きかった。小野家の中心人物でもあった。
その母が突然倒れ、言葉を交わすまもなく、亡くなったのである。嘉永四年(1851)九月のことであった。高山の秋は早く深く訪れるが、その宗猷寺の深夜、一人の少年が山門をくぐり、鐘楼の鐘を右に見ながら左に向かう。そこには高山の町を見下ろす一本の老松があった。その根元に「喬松院雪操貞顕大姉」母磯の石墓がある。それに向かう姿が鉄太郎であった。四十九日まで夜毎墓前に参り、観音経の読経と、話しかけをするのであった。その姿は当然代官所や近所の評判になった。
鉄太郎と磯のエピソードが残っている。ある夜、母の部屋で鉄太郎は書の解釈を母に教えてもらっていた。その日は「忠孝」についてで、その出典である「孝経」の「孝を以って君に事うれば、則ち忠なり」の意味を母に問うてみた。
「忠も孝も人間の心の柱、土台石。人間として守りつとめる道。忠とは、君に正しく命がけで仕えること。孝とは、子として親を喜ばすよう正しく仕えること」。その解釈を聞いた鉄太郎は、何気なく無心で「では母上は、上様に、父上に、どのような忠孝を実践されているのですか」と反問してきた。そのとき磯は、天から咎めがあったごとく、痛烈な自分への打撃と受けとめ、鉄太郎の目を見てしばらく絶句した。そして「母は何も身につけないままでした。忠孝心の何も。鉄太郎に話せることは何もありません。まだまだ出来ていない母をゆるしておくれ」と目に涙するばかりであったという。
磯は素晴らしい人物であったと思う。子供心から発する無心で素直な問い、それが人間の心の真理を問うものであればあるほど、答えに窮するものである。つい適当にぼやかしてしまうことになりやすい。だが、磯は違った。鉄太郎の問いに、出来ていない自分をさらけ出して正直に答えている。この磯の飾らぬ率直さが鉄太郎の中に深く入ったことは間違いない。後年の鉄舟の生き方に顕れている。この母磯の生き方を見てみると、死語に近いが「家刀自」という言葉を思い出す。
磯は当時、特別な女性であったのだろうか。江戸時代の後期、女はどのような生き方をしていたのであろうか。磯を知るためにも、当時の女の実態を少し検討してみる必要がある。江戸の開府時に江戸には女は少なかった。男臭い街だった。それはそうだろう。天正十八年(1590)家康が江戸城を居城とし、慶長三年(1598)に江戸幕府を開くと、都市づくりのために、地方から働き手が多勢集められ、土木工事が活発に行われ始められた。殺伐な男どもの街であった。
そのような江戸に女達が増え始めたのは、享保時代(1716~36)の八代将軍吉宗の時代だった。幕府開府から百年以上経って、ようやく女の比率が35%くらいになったといわれている。女が増えるということは、生活するにふさわしい街になってきたことを意味する。生活の基本は世帯として家族を持つことである。したがって、男は嫁探し、女は婿選びをすること、そこから江戸の新しい男女関係がようやく芽生え始め、そこに今までと異なった新しい女の姿が現れてきたのである。
当時の女達の実態を知るのは結構難しい。歴史の表面に女があまり登場してこないからである。しかし、当時の女達が江戸時代の暮らしぶりを語り綴った文章がある。それは才女として名高い只野真葛の「むかしばなし」であり、今泉みねの「名ごりの夢」であり、読み本や芝居で表現された女達であるが、これらは江戸の暮らしを中心としたものであって、鉄太郎の母磯のように高山という地方生活者にはあてはまらない。そこで、地方女性の目から検討してみたい。
それは、紀州和歌山の一隅から、静かに時代の推移を見守って、一人の主婦が綴った日記、綴り手は「川合小梅」である。小梅と磯とは、一つの共通性が存在する。
その共通性とは何か。それは「家刀自」ということである。家刀自とは久しく聞かない言葉であるが、これについて「『江戸の娘がたり』(本田和子著)」は次のように述べている。
「『刀自』という語は、柳田国男によれば英語のMATRONマトロン(既婚の婦人)と対比され、語の本義は独立した女性を意味するという。即ち男性の『刀禰』の対語か、とされるのである。刀禰が、官・民いずれかの有力者の総称であるとすれば、その対として、刀自もまた、権威と力を持った女性。従って、『家刀自』と呼ばれる主婦には、相応の任務と権能と、そしてそれに伴う尊敬とが付与されていたと言うのである」
「主婦権の象徴として、杓子が挙げられるが、それは、『分配権』が彼女らの掌中にあったということ。そして、それと並んで、あるいはそれ以上に、重要であったのは、酒の分配と供与に関する権能であって、酒造りに携る者たちを『トジ(杜氏)』と呼ぶのは、女と酒の結び付きを示す名残りではないかと見るのである。神を祭り、人が集う『ハレの日』に、無くてはならぬ特別の飲みものが酒である。その醸成と分配の権限が、女性の手にある・・・。ことの真偽は別とて、柳田が強調するのは、人が日々の暮らしを生きるというその生活の中枢に、女性が位置していたというそのことであり、伝統世界の女性の力を代表するものとしての『家刀自』の姿であった」。
さらに、この時代の特性、つまり「多くの男たちが、花に酔うことを忘れてひたすらに国事に奔走し、眦を決し肩をいからせて体制にいどんだとされるこの日々、彼女たちは、変わることのない毎日の暮しに心を砕き肉体を労した。家族の身辺を気づかい、近隣の人々との和を重んじ・・・。一ときも休むことのない家刀自の務めを、彼女たちは淡々とこなしながら、周囲に対しても時代に対しても、そのために自ずから要請される必要な目配りを怠らない」と述べている。
その家刀自の典型例を、紀州藩儒者川合豹蔵(梅所)の妻小梅の日記から見てみたい。慶応三年(1867)十月十四日、この日は十五代将軍慶喜が朝廷に大政奉還を行い、薩長へ倒幕の蜜勅が出された日であった。日本の運命の転換日として知られているその日、小梅は次のように記している。(『江戸の娘がたり』)
「十四日 快晴。今日雄輔引。宿のけいこ有。小梅ははり物。畳紙も二つかく。日高常吉来る。かき・みかん箱入持参。又参るとてかへる。小梅夕方障子はり抔して又風引かへし、一向気分あしく、夜大にせきくるしく、おかのは久家の丁へ行。朝がたぱらぱら。夜も時雨一しきり降」(『小梅日記』2)
「雄輔とは当時三十四歳の長男のこと、父と同じ儒者として藩の学習館に勤務していた。『宿のけいこ』とは、川合家で開いていた家塾での稽古のことで、帰宅後の雄輔が、家塾でも教鞭を取ったという意であろう。いずれにせよ、この日川合家では、何事もなく、いつものような日常が淡々とくり広げられていたのだ。誠実に職務に精出す長男、知人からの到来ものがあり、一家の家刀自として小梅はそれを書き記す。風邪を押しての障子張りなど、女主人はそれなりに忙しい。朝と夜にしぐれがあって、秋が深まっていく」
日本の歴史が転換した日であったが、紀州藩の一人の主婦の一日は、常と何ひとつ変らない平穏無事であった。徳川御親藩の紀州家に仕える身分でありながら、この日記を見るかぎり何事も変化がない。身のまわりにあわただしさが起こってくるのは、十日以上も経つ十月二十六日である。この日に藩士たちに総登城の触れが出された。しかし、学習館勤務の雄輔にはその知らせがなく、日記には「今日も雄輔宿にいる」と記されている。従って、川合家では、のんびりと風呂など焚いて休日を過ごしていたが、流石に城の様子が気になるらしく日記の後半には、次のように記されている。
「惣登 城の様子。人にたづね候へ共、しかと不分。近日被。仰出有之筈。いか様の事にてもたへ忍び、先をたのしみ、こゞと不申様にとの事よし」(『小梅日記』2)
総登城した藩士たちに何が起こったのか。何が伝達されたのか。人に聞いても「しかと不分(わからず)」で、「近日被(近日通知する)」からといわれ「たへ忍び(耐え忍べ)、先をたのしみ(希望を持て)、こゞと不申様に(不平を言うな)」とのみである。
不安な一日であったが、表向きには淡々と日常的雑務をこまにこなす、常と同じ一日でもあった。ようやく十月二十八日になって、事の次第が分かってくるのであるが、大政奉還の奉聞文を入手し、それを詳細に書き写した後に記したのは、知人に依頼されていた短冊に和歌を書いたりして、常に変らぬ家刀自の暮らしのことであった。
天下の大政変によって、いずれは自分の身にも大変化がくることを分かっていたであろうが、微動だにしないその日常を見ると、誠に素晴らしいと思う。女だからといって、政治や社会のことに興味がなく、分からないというのでなく、知識としては几帳面に情報収集し記録した上で、自分の日常はいつもと変らず、あわてず淡々と主婦の役目をこなしていく。これが家刀自なのだと感じる。前号でお伝えした鉄舟について語った、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎の内容と同じである。大事変が発生しても自らの仕事を平時と同じく務めているのである。
鉄太郎の母磯も川合小梅のような女性ではなかったと思う。代官としての夫小野朝右衛門の行政内容には口は挟まないが、肝心なところは家刀自として配慮し支援し、子供の教育にも熱心に情熱を傾ける。家庭内の雰囲気醸成と責任行動分配権限が、母であり主婦である磯にあったのである。実体的な家庭運営者は家刀自の磯だった。その母磯の突然の死は鉄太郎に大きな影響を与え、その五ヵ月後に父小野朝右衛門を失ったのである。父の死は経済的裏づけを失うことであった。二歳過ぎを含め五人の弟の養育が、鉄太郎の小さな肩にかかってきた。父母の死と弟達の養育――苦労する少年鉄太郎について次回も続く。
投稿者 Master : 2007年07月05日 16:26