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2008年11月14日

貧乏生活その三

貧乏生活その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟の貧乏は家庭に悲劇をもたらした。妻英子が最初の子を生んだが、乳が出ないので栄養不良で亡くなってしまったのだ。鉄舟は立派で丈夫な体であるから問題がないかもしれないが、赤ちゃんは母からしか栄養が摂れない身。その母である英子が栄養不足では赤ちゃんは育たない。鉄舟夫婦の食生活は、鉄舟自ら次のように述懐しているように酷かった。

「何も食わぬ日が月に七日位あるのは、まぁいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうちに半分位あることもあった」(小倉鉄樹著『おれの師匠』島津書房)

その赤ちゃんの出産は真冬だったが布団も十分にない。鉄舟は自分の着ていた着物を脱いで、英子に掛けてあげ、鉄舟は褌一本で英子の枕元に座り、看護しながら座禅を組んでいる。目を覚ました英子がビックリして
「それでは風をひきます。せめて羽織だけでも着てください」
というので
「そうか」
と、裸に羽織を着たが、英子が再び寝てしまうと、またそっと羽織を英子に掛けてあげる。また、英子が、ふっと目を覚まし、裸で座禅を組んでいるのを見て起き上がろうとするのを
「心配するな。裸の寒稽古をしているのだ。禅では寒中裸修行は当然だ」
と笑い飛ばす。

後年、鉄舟は弟子の小倉鉄樹に述懐している。

「こんなおれになんだって惚れて夫婦になる気になったものだろう。寝ている妻の顔を眺めては我知らず不憫の涙がこぼれたことがある」(『おれの師匠』島津書房)

 貧乏の話には事欠かない。

 鉄舟は出かけることが多く、一度外出すると二三日戻らないことが多々あった。
英子は、家財道具を売り飛ばし、畳まで売ってしまい、八畳の間に残った三枚の畳だけのがらんどうの家、その上、食べるものもなく、その後生れた赤ちゃんがひもじさに乳房にしがみつくのを、あやしだまし縁側に出た。

夫は今頃どこで何をしているのだろうか、寂しく夕闇の空を眺めていたところ、突然、塀の外から一つの包みが抛りこまれた。

 何だろうと包みを開けてみると、中には蕎麦のもりが三つ入っている。不思議なことがあるものだ。どうしたのだろうかと思い、食べてよいのだろうかと躊躇いつつ、包みを持って家の中に入り、お腹が空ききっている身、天の与えだと、押し頂いて食べてしまった。

 それも醤油がないので、水で喉を潤しながら食べてしまった。三日間何も食べていなかったので、そのうまさは何ともいえないほどだった。

 翌日、鉄舟が帰宅した。
 「昨夕、友人と家の前を通ったのだが、用事の都合で寄れなかった。きっとおまえが腹を減らして居るだろうと思って、蕎麦屋で食べ残したもりを包んで、通りがけに外から抛り込んだが食べたか」
と言われたときには、鉄舟の心のうれしさで胸がいっぱいになってしまって、英子は涙ぐむばかりだったという。これも小倉鉄樹が書き残している。(『おれの師匠』島津書房)

 また、英子は家の敷地内に野菜をつくったりしていた。さらに、近所の空き地や森に生えている草、食べられそうなものを採っては食べていた。これを見て近くに住んでいる人たちは、鉄舟の家の周りは草も生えないと揶揄するほどであった。

 当時の鉄舟の住まいは小石川鷹匠町である。現在の地下鉄丸の内線茗荷谷駅から歩いて近い小石川五丁目辺り、桜並木が綺麗な播磨坂へ春日通りから入ったすぐのところ、昭和四十一年までは竹早町といった辺りであるが、ここには下級の旗本屋敷が並んでいた。

 当時の切絵図(安政三年)を見ると、幕府からの拝領屋敷である高橋泥舟の家と山岡家は並んでいて、山岡家の敷地面積は図面上から判断すると高橋家の約1.5倍ある。高橋家の敷地は百四十坪といわれているので、この1.5倍であるから二百十坪となり、今の感覚では広い敷地である。

 比較のために町奉行所配下の町方与力の屋敷を見てみると、北町与力の谷村猪十郎の天保八年当時の屋敷図面が残っていて(天保撰要類集128)、敷地面積は三百二十坪あり、道路に面した部分を医師二人に貸している。当時の与力は屋敷の一部を医師、学者、儒者、剣道指南、手習い師匠などに貸すことが多かったが、これは支給される禄高だけでは生活が苦しかったことと、人に貸せるほど広かったことを意味している。

 与力の禄高は現米取で大体百六十石から二百三十石で敷地は三百二十坪、それに対し鉄舟の切米取百俵二人扶持はこれより少ないが、この両者の禄高を勘案し考えると、山岡家の敷地が二百十坪というのはほぼ妥当な広さではないか思う。

 この二百十坪の敷地で、英子は慣れない家庭菜園をし、周りの空き地や森で草を採って食べていた。

 このような英子の自然の草花採集による食料調達を、可哀想で不憫と思うか、それとも別の考えを持つのか、それは当時の状況を整理してみないと簡単には判断が出来ない。

 まず、江戸時代の小石川鷹匠町辺りは、どのような環境下であったのだろうか。ちょっと寄り道になるが、当時の鉄舟自宅辺りの自然実態を探ってみたい。
 
高橋家と山岡家の所在地辺りの切絵図(安政三年)を見ると、両家の左下側に「伝明寺」があり、今でも存在している古刹であり、ここは別名「藤寺」とも呼ばれている。

「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり」(改撰江戸志)。ここで詠われて藤寺とは伝明寺のことであり、その謂れは慶安三年(1650)閏十月二十七日、三代将軍家光が鷹狩りの帰り道、伝明寺に立ち寄り、庭一面に藤があるのを見て「これこそ藤寺なり」と上意されたことからである。(東京名所図会)

さらに、この伝明寺の傍らの坂からは、富士山が望まれ、坂下の谷からは清水が湧き出ていて、一帯は湿地で、河童(禿)がいたので富士坂とも禿坂ともいわれた。

詩人の太田水穂が「藤寺のみさかをゆけば清水谷 清水ながれて蕗の薹もゆ」と詠ったように、明治時代でも豊かな自然が溢れていて、地下鉄丸の内線茗荷谷駅名が示すように、ここは小日向村の畑地で茗荷畑だったところである。

このように山岡家の周りは自然が溢れ、そこには食せる草花が多かったのである。

現在、日本のカロリーベースの食料自給率は39%(2006年)で、先進国ではスイスの40%に次ぐ低さで輸入に頼っているが、その主要輸入先としての中国が問題である。

既知の如く中国では水源不足であり、有害物質の投棄による水質汚染の拡大があり、加えて食材生産に大量抗生物質投入や農薬の過剰使用など行われていることから、消費者は中国産の購買を敬遠しつつある。しかし、外食や大手食品メーカーでは、中国産食材抜きでは事業が成り立たないのが実態で、中国産食品の二〇〇六年輸入額は九千三百五十億円と前年比で八%増となっている。

このように日本人は安全性を心配しつつ、中国産の食材を食べ続けなければいけない状況下にある一方、メタボリックシンドロームなど飽食が問題となるほどのグルメ化で、テレビやレストランの「究極のグルメ」などが話題を呼び関心事となっている。

しかし、その「究極のグルメ」が伝えるメッセージ内容をよく見てみると、結局「採りたて」「つくりたて」「焼きたて」「本物」「無農薬生産」などであるが、これを改めて考えてみれば、何のことはない江戸時代から戦前までは、普通に食されていたことである。

別にグルメとして騒ぐことではなく、六十七年前までの一般人が食する食材はこの内容どおりであり、それが安い価格であった。今は本物の豆腐といって一丁何百円もするのを、ありがたく高い価格で買っているが、昔ならば全部本物で、それは普通の価格で売っていた。

その上、冷蔵庫もなかったし、毎日、行商が取り立ての魚やしじみ、作りたての豆腐や納豆、それは防腐剤も着色剤も使用していないのであるから、今から考えると幸せな食生活をしていたことになり、そこに原点を持つ日本食が、今や世界的ブームとなっている。

京都の老舗料亭「菊乃井」の社長村田吉弘氏が、先日「KAISEKI」を出版した。英文の日本料理本で、フランスで「ベスト・シェフ・ブック・イン・ザ・ワールド」という世界料理本賞を受賞した。

日本料理が海外で評判になるに連れて、外国人による日本料理店の展開が増え、まゆをひそめたくなる“日本料理”に出合うことが多くなって危機感を覚えたことと、いままで日本料理全体を網羅した紹介書がないことから、今回の出版なったと発言しているが、日本料理の興隆は江戸時代からであった。

徳川幕府体制が確立した「島原の乱」以後、国内で戦いがなくなり、安定化してくると急速に食べ物の種類が増えてきた。寛永二十年(1643)の将軍家光時代に出版された「料理物語」には、魚90種、獣7種、鳥18種、青物77種などの食材によって作られた料理が多彩になってきている。

弘化三年(1846)の山東京山の随筆「蜘蛛の糸巻」によると、江戸で最初の飲食店は天和の時代(1681~1683)の頃に浅草にできた「奈良茶飯」の店とのことであり、随分繁盛したらしい。
またもや横道に入るが、この「茶飯」は元来、奈良の寺院食であった茶粥からきたもので、茶を煮出した汁で煮た飯であり、これを即席に作るのが所謂茶漬けであった。

因みに、茶粥とは今のかゆではなく、今の飯が当時かゆと呼ばれて、今のかゆは当時姫がゆと呼ばれていたので、今の茶飯は昔の茶粥に当たる。(樋口清之著「史実江戸四巻」芳賀書店)

「徳川禁令考」、これは明治27年(1894)に幕府遺蔵の書を中心に、司法省が編纂した江戸幕府の法令集102巻で、前聚は公家・武家・寺社・庶民・外国関係の法令を編年収録したもので、後聚は司法警察関係の資料であるが、その中で文化元年(1804)には、江戸で食べ物商売している店は総数で六千百六十軒あったという。

しかも、この数は吉原・堺町・葺屋町・木挽町の芝居茶屋と、その日稼ぎの振り売りは除外したものである。江戸の人口は文化十三年(1816)に501,161人(「新編日本史図表」第一学習社)であるから、八十一人当たりに一軒の食べ物屋があったということになる。この数は決して少なくないと考える。

つまり、江戸時代は外食産業が盛んであったということであり、これらの店がいずれも「採りたて」「つくりたて」「焼きたて」「本物」「無農薬生産」などの食材を使用していたのであるから、今の時代に生きる我々より「究極のグルメ」であったと推察でき、食生活は江戸時代の方が幸せであったと思う。日本料理の原点は安全だったのである。

話は鉄舟に戻るが、英子は百俵二人扶持という禄高で不足する生活を、屋敷の庭や、恵まれた周りの自然環境から採取できる自然の食べ物で補っていたが、これだけでは当然限界があり、何も食えない日が続く生活をしていた。

しかしながら、ここで最大の疑問が浮かぶ。

貧しくて食えなければ、そこから脱皮するために何かをする、お金を稼ぐために何かをする。これが当たり前の一般的な行動手段であるが、鉄舟の場合、その当たり前のことをしていない。

鉄舟は後年、小野道風に比せられたほどの書家でもあったから、自宅屋敷で書道塾を開いて収入を図るということも、剣の達人であるから剣術指南をするという方法もあったであろうが、それらの収入の道を図った記録も、また、考えた気配が一切ない。

これをどのように理解したらよいのか。普通人の考え方では理解不可能だろう。

明治維新を成立させた江戸無血開場、その対官軍交渉は静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず手詰まって、官軍先鋒は品川まで迫り、江戸城総攻撃は必至となり、そうなれば江戸市中は戦火の坩堝となる時に、最後の奇策として鉄舟の投入であった。

この普通人では不可能と思える江戸無血開城交渉を、鉄舟は単身で駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官西郷隆盛と会見し成功させたのであるが、その偉業の背景には、敢えて若き時代に極度の貧乏に耐え忍んだ生活、これが、必ず関係しているはずである。

そのことについて次回検討したい。

投稿者 Master : 2008年11月14日 10:23

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