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2012年02月18日

 痩我慢の説と鉄舟・・・その二

山岡鉄舟研究 痩我慢の説と鉄舟・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

明治24年(1891)に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。
① 敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。
② 維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。

この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。

明治五年(1872)海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年(1873)には参議海軍卿、明治八年(1875)四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。

明治二十年(1887)に伯爵、翌明治二十一年(1888)枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年(1889)憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。

だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」(文芸春秋)で指摘しているので紹介したい。

「明治七年(1874)の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。

最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年(1877)の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」

その状況を巖本善治の「海舟余波」(女学雑誌社)では、

「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。

「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」

この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。

前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。

「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。
それは木村芥舟(嘉毅)と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。
この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年(1901)一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。

いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。

それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。(「海舟語録」明治三十一年十月七日で)

「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)*、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」

と語っている。
この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。

では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。

明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。

だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。

「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。

さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。

さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。

海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。

「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)*百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」

これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。

また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。

話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年(1853)から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。
つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。

こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年(1864)の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。

なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。

これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。

この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。

作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」(西郷隆盛 学研文庫)と解説しているが、その通りであろう。

そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。

次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。

実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(北 康利著・講談社)から紹介する。

「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年(1900)の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。
そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。

きっかけは十年前にさかのぼる。
静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。
咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。
新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。
この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。

この文章は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。

幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。

かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。

一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。

(木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない!)
東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」

この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。
しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。

投稿者 Master : 2012年02月18日 13:55

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