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2012年05月15日

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

榎本武揚を辰之口牢獄から赦免するよう、黒田清隆に働きかけたのは福沢諭吉であるが、既に黒田は五稜郭の戦いで榎本の才能を認めていた。

凾館戦争時も終焉に近づきつつあった明治二年(1869)五月十三日、新政府征討軍陸軍参謀黒田清隆は、五稜郭の総裁の榎本に降伏勧告書を届けた。だが、榎本は拒否し、その代わりに「兵火に焼くのはしのびない。活用して欲しい」とオランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」、自らが翻訳書写し数多くの脚注等を書き入れた、当時の日本ではまだほとんど知られていなかった国際法の研究書であるが、これを戦災から回避しようと、黒田に差出したのである。

この「万国海律全書」を見た黒田は、榎本の非凡な才に感服しつつ、十六日に返礼として酒樽と肴を贈った。榎本が切腹を図ったのはこの日の夜遅くであったが、近習に止められ断念、ここで降伏を決意、翌日、黒田のもとに向かい五稜郭は開城となった。

辰之口牢獄に送られた榎本の処置について、長州・土佐藩は断罪を叫んだが、黒田は榎本が日本にとって必要な人物と判断、加えて、福沢の赦免申し入れもあり、助命しようと各方面に熱心に助命嘆願活動を行い、頭を丸めて最終決定会議に臨み「この通りだ。この頭に免じて許してくれ」とまで懇願した。

この黒田の主張を支持したのが西郷隆盛であった。江戸無血開城の際に徳川慶喜を救った西郷が、榎本も助けたのである。

赦免された榎本は、北海道開拓使次官のポストにいた黒田から、明治五年三月開拓使に出仕するよう要請され明治政府に入り、以後要職を歴任、明治二十一年の初代伊藤博文内閣では逓信大臣、第二代黒田内閣で農商務大臣を兼任し、その後文部大臣に任じている。

またこの間に、黒田の長女と榎本の長男が結婚、両家は親戚となり、この夫妻の養女が黒田家に嫁ぐなど、二人は一段と強固につながり、終生信頼し合う仲であったという。

ところで、司馬遼太郎が、この黒田が明治維新三傑の二人、西郷と大久保を殺したという指摘を名指しで行っている。意想外な指摘であり、日本の政治裏面史として興味深いので余談となるがふれたい。

 それは司馬遼太郎著の「翔ぶが如く・第三巻」で、
「黒田は、結果としてかれが師とあおいだ西郷と大久保をともに殺したということになる」と書き述べている。

この指摘内容、まず、西郷について解説すると、黒田は薩摩藩であるので、元々西郷隆盛の支配下にあり、西郷に従っていたが、征韓論論争では西郷に対立する大久保利通側につき、大久保の指示を受け精力的に反対に動き回ったことが、西郷を下野させる要因となり、西南戦争で自決する事態につながった、というのが司馬遼太郎の見解である。

征韓論を述べだせば、それだけで一冊の本となるほどであるのでこれ以上はふれないが、黒田の動きが西郷を死にいたらしめたという主張である。

次に、大久保を殺したとはどういうことなのか。これは黒田の特異性ある二面性人格が影響しているので、少し解説を加える必要があり、再び司馬遼太郎の言葉を借りたい。(翔ぶが如く・第三巻)

「黒田清隆はかれ自身がどう制御することもできないほどの豪酒家である。酔えば人格も知能もいちじるしく低下するという精神病の範囲に入るところのアルコール性痴呆症であった。そのくせ、素面のときには謹直で、およそ人に対してかっとなったことなどはなく、浮浪者にいたるまでかれは底ぬけに親切であった。一定量の酒精が入ると人格が一変するという点では、かれに見るほどの典型症状はすくないにちがいない。いかに高官でも――かれの上司である三条実美や同僚の伊藤博文、井上薫ですら――乱酔中のかれから罵倒されたり、ピストルでおどされたりした。

この男が、その妻を斬殺したのである。夫人は多病であった。しかし素面のときの黒田はこの夫人をいたわり、他に婦人を設けるようなことはなかった。

西南戦争がおわったあとの明治十一年の三月、泥酔してもどった黒田が、ささいなことから妻を斬り、死にいたらしめたらしいのである。

当時、黒田は開拓長官を兼ねて参議でもある。現役の大臣が殺人罪を犯すという例は、それ以前にもそれ以後にもない。事件は内密にされたが、新聞が確認困難なニュースを諷刺(ふうし)のかたちで書いた」

この当時、大久保が事実上の首相であったが、大久保は広まる諷刺内容を隠蔽するよう、東京の治安を担当している大警視川路利(とし)良(なが)に指示、川路は黒田の妻の墓所を掘って棺内をあらためることにしたが、川路は棺の蓋を少しだけ開け、すぐに「これは、病死である」と断言、直ちに元どおりにして埋めてしまう。

この処理が世間に洩れて、一般大衆から「国法が大臣に及ばずということは暗黒国家である」という悲憤の声が満ち溢れ、この事が大久保を暗殺した犯人の斬奸状に書かれていたという。大久保は明治十一年五月十四日に紀尾井坂で襲撃され殺されたが、その下手人島田一郎が大久保暗殺の理由の一つあげていた事から、黒田夫人の怪死事件処理が大久保暗殺につながったのだというのが司馬遼太郎の主張である。

実は、この斬奸状に黒田夫人の殺害が具体的に書かれていたかどうか、史実確認で意見が分かれているところだが、黒田はそのような疑念を抱かせる二面性人格であったことは間違いなく、このような人物が日本の二代首相として政治を任されたのである。

もう一つ余談であるが、伊藤博文初代首相も殺人を犯している。それは井伊大老の後を継いだ坂下門外の変の安藤信正老中が、天皇の「廃帝」を図っているという噂が広まり、その「廃帝」手続きを調べ研究しているという疑念で、和学者の塙次郎が文久二年(1862)の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔(博文)と山尾庸三であった。

塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。

伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。

明治22年(1889)に大日本国憲法が公布、翌年第一回帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が始まって、新たに首相制度が設置されたが、その初代・二代の首相がいずれも殺人に関わりがあったという日本の政治裏面史を理解しておきたい。現在とは比較できない程の近代化への混乱期であったという意味である。

さて、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」に戻りたい。福沢の海舟への批判は「勝氏はあらかじめ必敗を期し、そのいまだ実際に敗れざるに先んじて、みずから自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたるは者なれば、兵乱のために人を殺し、財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる痩我慢の士風を傷うたるの責めは免るべからず」と、戦わないのは武士道にあるまじきものというもの。

榎本へは「氏を首領としてこれを恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」と、二君には仕えるべきでないという批判であった。

この福沢による海舟の「あらかじめ必敗を期し」と、榎本が「二君に仕えた」という指摘は鉄舟にも当てはまる。鉄舟は海舟と幕末を共にし、明治天皇の侍従となっているからである。しかし、福沢から批判は受けなかった。何故に福沢から論評を受けなかったのか、否、福沢が批判できなかったと理解すべきだが、その事を考えてみたい。

その分析に入る前に、江戸時代の武士とはどのような人間達であったのか。それを司馬遼太郎の言葉を再び借りて紹介したい。(翔ぶが如く・第一巻)

「江戸期の武士という、ナマな人間というより多分に抽象性に富んだ人格をつくりあげている要素のひとつは禅であった。禅はこの世を仮宅であると見、生命をふくめてすべての現象はまぼろしにすぎず、かといってニヒリズムは野(や)狐(こ)禅(ぜん)(注:禅に似て非なる邪禅のこと)であり、宇宙の真如(しんにょ)(注:あるがままであること・真理のこと)に参加することによってのみ真の人間になるということを教えた。

この日本的に理解された禅のほかに、日本的に理解された儒教とくに朱子学が江戸期の武士をつくった。朱子学によって江戸期の武士は志(こころざし)というものを知った。朱子学が江戸期の武士に教えたことは端的にいえば人生の大事は志であるということ以外になかったかもしれない。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた」

と述べ、続けて

「西郷は思春期をすぎたころから懸命に自己教育をしてこの二つの要素をもって自分の人格をつくろうとし、幕末の激動期のなかにあってそれを完成させた」

と西郷が江戸期武士の典型であると評価している。

この司馬遼太郎に沿って鉄舟について考えれば「鉄舟は幼年期から剣禅一如(いちにょ)(注:絶対的に同一である真実の姿)を求めて、幕末から明治期にかけて大悟し自己を完成させた」人物であり西郷とは別次元での武士の典型であった。そのことを次のエピソードから紹介したい。

後に僧侶となった人物が、維新後、鉄舟宅で玄関番をしており、ある時鉄舟に尋ねた。

「剣の極意とは何でしょうか」
「それは浅草の観音さんにある」

そこで浅草寺に日参したが分からない。そこで再び鉄舟に尋ねると、
「それは寺の扁額にある施無畏(せむい)だ。あれが極意である」

との回答。施無畏とは「観音経」(妙法蓮華経観世音菩薩普門品(ふもんぽん)の経文にある「怖畏(ふい)急難の中において能(よ)く無畏を施し給う」からきている。

この「無畏を施す」とは、人間の一生は何をするのかというと、怖れのないところを掴むことで、何ものも怖れない。何ものにも怖じけない。つまり、病気を怖れず、死を怖れず、貧乏する事も怖れず、すべてに対し怖がらないという意味となる。

鉄舟は明治十三年(1860)三月三十日に大悟し、この「施無畏」境地に達し、その心境を詩で語っている。

学剣労心数十年  (剣を学び、心を労すること、数十年)
臨機応変守愈堅  (機に臨み、変に応じて、守り愈々(いよいよ)堅し)

意味は「剣を学び、心を労して数十年。相手次第で臨機応変、自由に変化して、負けることがなくなった。堅い塁壁も一朝ことごとく摧破され、痕跡もなくなった」という絶対境地である。

また、この施無畏という心境は、現代剣道でもよく説かれるという。筆者はパリ在住の剣道最高位八段で作家の好村兼一氏から、パリ訪問時にお会いし剣道についてご教示を受けている。その好村氏が今年の四月に「神楽坂の仇討」(廣済堂出版)を著した。早速読んでみると、主人公は幕末に北辰一刀流、鏡新明智流と並んで江戸三大流派と呼ばれた「神道無念流」物語であるが、その開祖「福井兵右衛門」に次のように語らせている。

「人性は即ち天性であり、私の所為ではない。性は陰陽、長短、勇弱、知愚・・・と、様々な象(かたち)として表れながら、その本源は一つなのである。本源の真理に明らかとなれば、万理に通じ、心は融通(ゆうずう)無碍(むげ)。体は鏡に揺動する影のように円滑自由である。機を窺い隙を打たんと欲するのは邪念であり心の偏(かたよ)りに他ならず、心偏れば体は凝(こ)り固まる。本源妙智の一刀を求めるには、心を無念の位に置き、己を天性に委ねるべし・・・」

この境地は鉄舟が達したと同じであり、剣の奥義に達した名人は同様な事が分かる。

さらに、好村氏は鉄舟が受け継いだ一刀流の開祖「伊藤一刀斎」も著しており、そのあとがきで「一刀斎が築いた一刀流剣術は現代剣道の根幹を成しており、極意『切落し』は今なおそこに生き続けている」と述べている。

この切落しとはどのような極意なのか。鉄舟が記した「一刀正伝無刀流十二箇条目録」に「切落之事(きりおとしのこと)」が第二極意としてある。好村氏によると「切落し」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間に、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことであるという。相手の太刀筋を受けかわすのではなく、相手から逃げず、真正面から立ち向かって、相手の剣が向かってくる時に、こちらの剣を振りきるのである。

素人流に考えれば最も危険な太刀筋と思われるが、これが四百年以上の古き時から、現代剣道の根幹をも成してつながる極意なのである。

しかし、この切落し極意を真剣勝負の太刀捌きとして熟(こな)せるのは、明治以降では鉄舟しかいなかったのではないかとも好村氏は語る。

つまり、「すべてに対し怖がらない」という大悟・施無畏の心境に達し得ていないと、真剣での命の斬りあいで「切落し」極意は使いこなせないという意味である。

ところで、鉄舟は、その死が翌年に迫った明治二十年(1887)に、四谷仲町の自邸で、門人の籠手田安定(県知事・男爵)等の求めで、ほぼ四回にわたって武士道に関する講義を行った。傍聴者に井上毅(文部大臣)、フランス人法学者ボアソナード、中村正直(文学博士)、山川浩(陸軍少将)等がいた。

その時の「山岡先生武士道講和記録」を安部正人が、籠手田安定から譲りうけて、明治三十一年(1898)十月、海舟にこれを示して「評論」を述べてもらい加えたものを一本にまとめて、嗣子山岡直記の序文と高橋泥舟の題字とをつけて「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」として光融館という本屋からB6判二五二頁の書物として発行したのが、明治三十五年(1902)一月のことである。

この内容について「山岡鉄舟の武士道」(勝部真長編)で次のように解説している。

「光融館版の『武士道』はかなり売れたらしく、わたくしの所蔵するのは明治四十五年七月の奥付で第九版をかぞえている。その後、昭和十五年頃には大東出版社から同じ『武士道』の新版が山岡未亡人の序文をつけて出された。

とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。

鉄舟という人は何よりも先ず『剣の人』である。禅もやったが、禅は剣を完成させるための手段、修業の方法の一つとしてやったので、禅をそれ自身目的としたのではない。剣を持たない武士はないから、武士道という以上、『剣の道』を離れてありえないわけである。

鉄舟がその生涯をかけて追究したのは『剣の道』であって、『剣の道』を通じてその人間を完成させていったのである。『剣』が完成しなければ『人間』も完成しない、というのが鉄舟の人生の課題であった。鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年にその『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」

この「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」を詳しく読みすすめると「真の武士道とは」が確認でき、「真の勤皇愛国とは」が理解され、「誰が明治維新の大事業」をしたのかが解明され、その結果として福沢諭吉が主張した「痩せ我慢」は、鉄舟からみれば極々小さな問題だという事になってしまう。それを次号でお伝えしたい。

投稿者 Master : 2012年05月15日 10:34

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