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2007年02月21日

望嶽亭に伝わる真実

 望嶽亭に伝わる真実
 
 まず、近代日本のスタートとなった幕末維新という時代を、もう一度ざっと振り返ってみたい。
 
 まず、当時の基本的背景状況としては、徳川幕府がその本来の姿ではなくなっていたことがあげられる。歴代の徳川幕府将軍は征夷大将軍として、朝廷から兵権と政権を掌握し、日本全体を取り仕切る権限を与えられていたから、たとえ大藩大名といえども幕府政治に直接参画できないことになっていたはずである。

ところが、幕末になると、薩摩を代表とする、いわゆる雄藩が朝廷とともに、国内政治に参画し始めた。どうしてこのような実態となったのだろうか。
 
 すべての始まりは嘉永6年(1853)6月3日の、米国東インド艦隊司令長官ペリーが率いる黒船艦隊四隻が来航し浦賀(現在の久里浜)に上陸したことであった。
当時、欧米諸国は19世紀中頃から資本主義が進展し、市場を求めてアジアに急接近しつつあった。ペリーはアメリカ大統領の親書を携え、大砲で脅しをかけながら、日本に開国を迫った。それに逆らうことは、隣国の清国のように、欧米諸国の蚕食される可能性が高かった。
侵略されつつある中国の実情を、日本の支配層は的確に把握しており、それに対して強い戦慄と、強烈な危機感を持ち、日本をどのような国家にしていくかという方向性と方策をめぐって、様々な混乱・衝突・戦いが発生した。
 
 安政期(1854~60)は、ペリー再航と通商条約の勅許と将軍継嗣問題、それをきっかけとした安政の大獄、その結果、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、これで政治状況は一気に混沌化した。
 文久から元治期(1861~64)は、長州を中心に「攘夷」思想が日本中をかき回した。慶応期(1865~68)に入ると、薩摩が長州との「雄藩連合」を率いて幕府と対立し始め、幕府による江戸薩摩藩邸焼き討ちから、鳥羽伏見の戦いでの幕府軍敗退、江戸無血開城へと、幕末維新激流が一気になだれ込み、明治維新が成立したのであった。
 
 この最後の江戸無血開城に、わが主人公の山岡鉄舟が突如登場し、官軍の実質的リーダーである西郷隆盛との駿府会談を成功させたのである。

 しかし、何故に時代は西郷という人物を、国家体制の局面を左右させるタイミングに、リーダーとして登場させたのであろうか。 

 これに対する答えは極めて錯綜していて容易ではないが、西郷が持つ時代への変革方向性、それは新時代体制への考え方であり、方策であったが、それが時代の流れをつかんでいた、ということが最大要因であったと思われる。
だが、この西郷には豹変ともいえる考え方の変化があったこと、その事実を指摘しなければならない。時代の流れを一貫してつかんでいたとはいえないのである。

 実は、第一次長州征伐まで、西郷は長州に対して強い姿勢で臨んでいた。つまり、幕府側を代表する重要な人物であった、という事実である。これは幕府が征長総督府を組織したとき、薩摩藩を代表して西郷が総督府参謀となったことでも分かり、総督は尾張藩の徳川慶勝であったが、実際の指揮は西郷が全て仕切っていたのであった。

 その西郷が、なぜに自らの考え方・方針を変え、長州と同盟を組み、幕府に対抗し、官軍参謀として、対幕府戦争の前面に登場してきたのであろうか。この西郷の変心から明治維新への構想が実質的にスタートした、といっても過言でないほど重要な事件であった。

 それは、勝海舟との出会いによってもたらされた。元治元年(1864)の9月11日、西郷は時の幕府軍艦奉行であった海舟と会うため、大阪の旅館に出向いた。西郷は「轡の紋のついた黒縮緬の羽織」だったと海舟が述懐しているが、そこで海舟が西郷に語ったことが、西郷を動かし、西郷の考え方を反転変化させ、これが明治維新へ大きく動くきっかけとなったであった。

 人は自覚的に、つまり、自らがもつ物事へのとらえ方や考え方を自分で変える、ということはかなり難しい。それも価値観に属する分野については、特に難しい。
 だが、時代を左右する大人物には、その特に難しいと思われる自覚的変化によって、自らの考え方を大転回させ、次の時代を創りあげていくものである。その最適例がこのときの西郷であった。
 
 海舟は、西郷が尋ねた時の大問題であった兵庫開港延期について、次のように語った。
「小生は、別段この談判(注 兵庫開港延期問題)を難件とは思はない。小生がもし談判委員となったら、まづ外国の全権に、君らは、山城なる天皇を知って居るかと尋ねる。すると彼らは、必ず知って居ると答えるだろう。そこで、しからば、その天皇の叡慮を安んじ奉るために、しばらく延期してくれと頼むのサ。そして一方に於いては、加州(注 加賀)、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決するばかりサ」(『勝海舟全集・21・氷川清話』講談社)

 この海舟発言を聞き、西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕した。何故なら、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながり、その背景には「幕府には政権担当能力がない」という含みを持たせていたからであった。

 これは以前から海舟の持論ではあったが、とうてい幕臣から発言される内容ではない。しかし、逆に西郷にとっては眼を輝かせる見解であった。海舟の持論の意図するところを突き詰めると、一種の「共和政治」を志向するものであり、それだけに幕府内では反発が強く、実際に海舟は、この年の10月に軍艦奉行の役を降ろされたうえ、蟄居を命じられてしまう。
 
 だが、幕府内部の反発が強いということは、薩摩側からみれば「その通りだ」という見解になるので、当然、西郷はこの「共和政治」構想に触発され納得し受け入れ、この会談を境に幕府を見限る方向に動き出したのであった。

 その動きの第一弾は、対長州政策の変更であった。ここで長州を攻め潰すのは幕府を助ける結果になってしまう。ここは長州の政治的力量を温存し、「共和政治」の一翼を担ってもらうことの方が得策である。と考えるのは自然であり、その結果、第一次長州征伐・征長総督府参謀でありながら妥協的に終わらせる、という結果を西郷は図ったのである。

 西郷について詳しい作家の海音寺潮五郎氏は、大坂会談時の海舟発言を次のように推察している。「長州征伐のことについて、勝は西郷にある程度の忠告をこころみたように思われるのである。おそらく、その忠告はこうではなかったか。『長州は征伐しなければなりませんが、そうひどく苦しめるのは、わたしは賛成出来ませんね。ひどく痛めつけるとなると、どうしても長くかかります。今は日本人同士が長く内輪喧嘩していていい時ではありません。欧米列強が野心を抱いて、日本のすきをうかがっていることを、われわれはいつも考えていなければならんのですよ。長州が恭順謝罪の意を表するなら、適当にその実をあげさせるというくらいで、ゆるしてやるべきでしょう』勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である。明治になってからの彼のことばだが『愛国ということを忘れた尊王など、意味のないものだ』というのがある。西郷とのこの最初の出会いの時、勝が上述のようなことを言わないはずはないと、ぼくは思うのである」(『西郷隆盛』学研文庫)

 この海舟・西郷会談が、その後の西郷の考え方を大きく変えさせ、結果として薩摩藩の方針を変化させ、長州と結びつき、反幕府体制をつくっていくきっかけとなった。

 さて、鉄舟に話を変えたい。鉄舟が西郷と会談するため駿府にたどり着くこと、それが江戸無血開城成功への転換点であったが、駿府までの行程には従来から三つの説がある。

 一つは、駿府まで薩人益満休之助が同行していたという説であり、これが一般的に唱えられている。二つ目は、益満は体調を崩し、箱根からは鉄舟の単独行であったという説である。もう一つは途中で体調を崩した益満が追いついたという説である。

 この三説については、鉄舟自ら記録を残していないので、関係者間で長年にわたって論議されているところであるが、この中で記録といえるものが存在しているのは第二説のみである。その記録とは静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん(80歳)であり、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)で明確にされており、前号で要約抜粋して紹介した。

 今回、改めて望嶽亭を訪れ、さだよさんの語りをお聞きしているうちに、不思議な新鮮感覚に包まれた。さだよさんの語りがあまりにも瑞々しいのである。代々伝えてきている時代は、遠い幕末時で、今を遡る138年前のことなのに、さながら昨日の事件のように感じてくるのである。これはどうしたのか。どうしてこのような新鮮な感動が湧き上がってくるのか。

 さだよさんの穏やかな笑顔を見続け、身体を捉えたこの不思議感覚を考えているうちに、ある一つのヒントを得ることができた。それは代々という歴代的な言い伝え、という意味合いと反対側の概念である「記憶が短い」ということである。口承伝承を生んだ20代松永七郎平の女房「かく」との時間的距離が近く短いのである。口承伝承してきた人が少ないという意味でもある。

 望嶽亭に代々口承伝承され始めたのは、当時の望嶽亭20代松永七郎平の女房「かく」からであった。慶応4年(1868)の3月7日夜半にかくが、鉄舟を助けるために体験した強烈な出来事、それが鮮烈な印象としてかくの脳裏に深く刻まれ残って、以後、代々口承伝承されてきたのであった。というこの経緯から、伝承は代々何人もが経由して伝えてきた歴史をもち、昔からの古臭い物語ではないか、という思いを当然一般的に持つ。確かに、時代は幕末時で、138年前であったので、そのような感覚に陥りやすい。

 しかし、望嶽亭・松永家の系図を調べてみると、「かく」が体験したこと、それが現在のさだよさんに伝わる間には、たったの一人しか間に介在していないのであった。
かくが官軍と対応したときは33歳、75歳までご存命で73歳のときに、孫に嫁いできた「その」に直接語り伝承させ、その「その」が55歳の時に、現在のさだよさんが18歳でお嫁に来て、伝承を受け継いだのであるから、望嶽亭を語る伝承の道は「かく⇒その⇒さだよ」という最短時間で伝承されてきている、という事実である。

 これは重要である。口承伝承として記憶され、残され、伝えられている時間は長いのであるが、伝承者として携わった人は少ない。つまり「記憶が短い」のであり、歴史は短いのである。この説を採る人物に作家の江崎惇氏がおられる。著書「誰も書かなかった清水次郎長」(スポニチ出版)で望嶽亭説を唱えている。

 また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」(『清水次郎長と幕末維新』岩波書店)と著書にあるように、高橋敏氏は実際に望嶽亭まで調査に行かれている。

 鉄舟の駿府行きは本連載で何度も書くように、鉄舟意外にはなし得なかった偉業である。そしてこの偉業をひそかに助けた人たちがいたはずである。その事実を伝える松永さだよさんの語りは魅力的であった。

投稿者 Master : 2007年02月21日 15:35

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