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2008年08月07日

鉄太郎の結婚その二

鉄太郎の結婚その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

安政二年(1855)に小野鉄太郎(鉄舟)20歳と、山岡英子16歳は結婚し、鉄太郎は山岡家の信吉の養子となり、口が利けない信吉に代わって山岡家を継いだ。いよいよ山岡鉄舟となったわけである。

当初、鉄太郎は山岡家に婿入りする気持ちは全く無かったが、槍術の師山岡静山の突然の逝去という事態になり、家督相続者として、静山の妹英子が、鉄太郎を懇望し情熱を示したことによって結婚したのであった。

後日、これを証明する言葉として、弟子の小倉鉄樹に次のように語っている。
「おれも若い時、今の家内に惚れられて、おれでなくちゃならぬというから、そんなら行こうと山岡へ行ったんだ」(俺の師匠 島津書房)

ここで素直に考えて疑問が残る。

結果として、鉄舟は山岡家を家督相続したが、師である山岡静山との厚い信頼関係、それは一年に満たない僅かな期間であったが、静山は武術というものを単なる技量とせず、人間陶冶の道と考え修行していたから、鉄舟から見て静山という人物は理想像であり、静山から鉄舟を見れば自分の分身とも見える関係として、お互い理解が通じ合っていた。

そのような関係であったから、山岡家の関係者と隣家の高橋泥舟家でも、鉄舟が最適な家督相続者として認識していた。これは当然であろう。

ところが、鉄舟の方では、英子と結婚する気が全然見られなかったのである。どうして鉄舟はその気がなかったのであろうか。

勿論、山岡家や泥舟から鉄舟に家督相続の話を持ち込めば、鉄舟の性格からして結婚を直ちに決心承知したであろう。事実その通りになったわけであるが、何故に自ら家督相続に対して最初に意思を表明しなかったのであろうか。つまり、鉄舟は最も尊敬し、敬愛した師、静山の後継者に誰がなるかということ、そのような重大事項に関心を持ちえていなかったのである。不思議ではないか。

その理由として、考えられることはいくつかある。

まず一つは年齢である。鉄舟は20歳、英子の16歳は当時の女性が結婚する適齢期であるが、男性の20歳はまだ若い。

江戸時代の平均結婚年齢をいろいろ調べてみると、男性は20歳前半、女性は10代半ばといわれている。井原西鶴「好色一代女」(貞享三年 1686)に、娘盛りを15歳から18歳とあることからも、女性は10代半ばあたりが適齢期と考えられる。

一方、男性はどうか。町人の例を見ると比較的遅く、町人としての職が自立できるのが20代の半ば過ぎで、その頃が結婚適齢期であった。これは食べることが出来なければ結婚できないということからも頷ける。だが、大店の奉公人として暖簾分けしてもらえる立場の場合は、40歳近くにならないと結婚を許されなかった。それだけ、暖簾分けするには厳しい奉公期間が必要であったのだろう。余談だが、性の面は遊郭や岡場所が多く、独身男性はそちらに行っていたようである。

武士の結婚適齢期はハッキリしない。家督相続なども様々なケースがあり一概に言えず、平均としての年齢は分からない。

だが、20歳の鉄舟は、結婚することは考えていなかったであろう。

何故なら、当時の鉄舟にはすべきことが多々あった。

まず、第一は剣の修行である。剣の道で自らの才能を発揮したいと玄武館道場で一直線修行にはいり、ボロ鉄から鬼鉄とまで言われるようになり、若くして翌年幕府が開設する予定の講武所に、世話役として推薦されるほどの実力者となっていたから、結婚という考えは持ち得なかったであろう。

もう一つは色道修行である。「嘉永六年六月四日(1853)の朝、鉄太郎は内藤新宿の女郎屋で目を醒ました」と南條範夫の小説「山岡鉄舟」(文春文庫)にあるように、ペリー提督が浦賀に来航した日にも色道修行をしていたほどであった。

この時期の鉄舟、高山から一緒に江戸へ戻った弟たちを、すべて持参金付で養子に出し、一人身の自由を謳歌していた上に、六百石の旗本の子息であるから、小遣いには不自由なかった。恵まれた環境下で剣と色道修行に励んでいたのである。

だがしかし、このような理由もあったが、英子との結婚が胸中になかった、その最も大きく重要な理由は、剣への志にあった。

師の山岡静山は、槍術の名人である。そこに弟子入りした鉄舟は、当然、槍の稽古に励んだが、その槍と剣とで苦しみもがくことになった。

本来、人は自分のことを知らない。ソクラテスの「汝自身を知れ」の通りである。自分とは何かを解明することが生きる上で最大の課題であり、鉄舟も同様であった。

鉄舟が剣の道に入ったのは九歳の時。久須美閑適斎に心影流を学び、後に井上清虎から北辰一刀流、続いて玄武館道場、その間、ずっと殆ど狂気のような修行で頭角を現し、周りに敵うものがいなくなり、驕慢な態度が表れてきた頃、山岡静山と出会い、立合いし、木っ端微塵に打ち砕かれ、自分より遥かに強い剣客がいることを再認識した結果、静山に弟子入りしたのであった。

それまで、剣一筋に歩んで、剣の道で奥義を極めれば、相手が何で来ようと、立派に対応できると思っていたが、槍の静山に完膚無き負けを喫し、今までの決心がぐらつき、このまま剣の道でいくか、それとも槍も併せて学ぶのか。どちらに自分は向うことが適切なのか。人生の岐路に立っていた。

それも、身近に静山という、自分が目指すべき理想像に接し得たために、師のような人物になるのか、それとも師とは異なる方向性に行くべきなのか、返って迷い、それに、子どもの頃から負けず嫌いで、一度思いこんだら徹底的になるという鉄舟の性格であったため、鉄舟はこの時期、相当悩み、考え込んだ。
その時、静山からも、隣家泥舟の義父にあたる高橋義左衛門からも、次のように言われたと、子母澤寛は小説「逃げ水」(嶋中文庫)で、鉄舟に語らせている。

「おれはな、御隠居(高橋義左衛門)にも紀一郎(山岡静山)どのにもいわれたのだ。お前はずいぶん稽古するが槍よりは先ず剣をやれ、槍はやっても免許から奥にはすすめんとな。はっはっ、その通りだ、その言葉をおれがこの頃井上先生(井上清虎)から血嘔吐を出す程にひっぱたかれてな、やっと解りかけて来ているんだ。凡そ武芸は技ではねえ、だから稽古だけではどうすることも出来ねえものがあるんだ。おれは今になってはじめて剣を遣うが面白くなってきた」

 この鉄舟の語りは、自分の中に内在する無意識分野イメージ、それを自我意識分野に取り込んだことを示していると思う。静山という稀有の槍の名人に出会うことによって、槍への限界能力を悟らされ、鉄舟はもともと潜在的に剣に志向していたのだと、改めて確認し目覚めさせてくれたのである。

したがって、槍については静山の弟泥舟もいるし、静山の弟子達もいるのであるから、自分が山岡家を継ぐという意識を持ち得なかったのである。鉄舟の立場からは当然であった。

しかし、結果として鉄舟は山岡家に入った。それは英子の情熱からであったが、そのことに併せ、生前の静山が鉄舟を評していた言葉を、改めて知ったことも深く影響した。

それは、山岡家の家督相続者に困った泥舟が、酒井家に養子にいった鉄舟の実弟金五郎を通じ、実は、金五郎は泥舟に槍の稽古受けている関係で、次のように鉄舟に伝えたのであった。

「静山は生前よく、“世間に青年はたくさんいるが、技が達者なものは勇気に欠け、気性の勝ったものは技がまずい。そういう中で小野鉄太郎(鉄舟)は世間で<鬼鉄>といわれている通り剛毅なうえに、精神の寛やかなことは菩薩の再来ともいえるほどだ。彼は将来必ず天下に名を成すものになるだろう。実に頼もしい青年だ”といって嘱望していた。しかし、山岡家と小野家とでは身分格式の差がありすぎるので、養子に来てくれともいえぬしなぁ・・・・」(山岡鉄舟 大森曹玄著 春秋社)

これを聞いた鉄舟は、心から尊敬する静山が、自分をそれほどまでに信頼していてくれたのかと感激し、加えて、英子の気持ちも知り、自ら進んで山岡家の家督相続者になったのであった。

これについて、勝海舟は次のように鉄舟の人柄を評している。

「自分の家の方が高禄で、山岡家とはとても話にならんほど格式が上で、おまけに小野家の相続者である鉄舟が高橋(泥舟)の心中を察し、思い静山に至り、名利を忘れ、決然起って山岡家相続に出かけた」と心情を語った上で「以上の話で、どのくらい鉄舟が馬鹿正直か、いかに潔白かが彷彿としてお前の心中に浮かぶであろう」(山岡鉄舟 大森曹玄著 春秋社)

また、その頃飛騨高山の書の師匠である岩佐一亭に宛てて「小生事も様々、今年相応の養子口出来、身分も先々堅り候」と手紙を出している。(山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社)

ここで改めて鉄舟の業績を振り返ってみたい。

それは、まず「江戸無血開城」である。駿府で官軍総参謀西郷隆盛を説得し得たことによって、明治維新は大混乱なくスタートできたのである。

では、鉄舟が駿府掛けしたのは誰の指示か。勿論、15代将軍徳川慶喜である。しかし、鉄舟は身分低き一介の旗本、慶喜が上野の寛永寺に蟄居しているとはいえ、お目通りできる身分でない。だが、慶喜の護衛役として寛永寺につめていた泥舟の推薦によって、鉄舟は慶喜から直接指示を受け、世に出たのである。

仮に、鉄舟が静山と泥舟の妹英子と結婚していなければ、泥舟の推薦があったか疑わしい。英子と結婚したことよって、泥舟は鉄舟をより身近で見聞き接し、その人物を熟知していた。だからこそ、泥舟は敢えて鉄舟を投入したのである。

というのも、この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。
最後の奇策としての鉄舟投入であり、鉄舟はその重大な意味を理解し、十分承知していた。鉄舟が失敗すれば、江戸城総攻撃となり、江戸市中は戦火の坩堝となる。

今までの交渉者に比し、あまりにも身分・格が低き鉄舟であったが、ただ持ち得ている剣修行で鍛えぬいた身体から発する鉄舟の「決死の覚悟」のみが、この危機を救う手段であると泥舟が判断し、海舟も納得し、西郷説得という一大事を鉄舟に掛けたのであった。結果は見事に成功し、江戸無血開城となり、明治の世へ道が開いたのであった。

考えてみると恐ろしい。人とは「才能と努力と運」で決まる。鉄舟が英子から思慕されなければ山岡家に入れず、泥舟の推薦を受けることにならなかった。いくら鉄舟が剣の才能と、剣の修行を続けていても、剣客として世に名を残したではあろうが、英子と結婚していなかったならば西郷説得という場面には登場しなかった。

つまり、鉄舟を江戸無血開城という、時代を画する一大出来事に遭遇させた要因を遡って考えてみれば、英子と結婚して山岡鉄舟になったことであるといえよう。

六百石の旗本身分から、極貧の生活に陥ったことが、鉄舟に「運」を与えたのである。

人はいくら才能があっても、運にめぐり合えなければ才能を発揮できない。

また、人はどのように努力しても、努力が報われるような運に出会えなければ、その人の努力は水泡に帰する。

つまり、人は運が最も大事で、その運は計算して出会えるものでなく、それらを超えたレベルから授かるものである。

そのことを鉄舟の結婚が教えてくれ、その鉄舟に巡ってきた運が江戸無血開城につながったのである。

次回は、講武所世話役としての新婚家庭の状況をお伝えしたい。

投稿者 Master : 2008年08月07日 16:22

コメント

鉄舟大居士の「才能と努力」は誰もが頷くところ。もう一つの「運」は剣禅書で鍛え極めた当に’無’から開けたものでしょうか?
益々面白くなってきました。
次回が待ち遠しいです。

投稿者 慈風菴木堂 : 2008年08月09日 12:15

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