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2011年01月18日

大悟後

山岡鉄舟研究 大悟後
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が大悟したのは、明治十三年(1880)三月三十日、四十五歳。この時に小野派一刀流十二代浅利又七郎から、一刀流祖伊藤一刀斎のいわゆる「夢想(無想)剣」の極意を伝えられ、同年四月、鉄舟は新たに無刀流を開いた。

その後、明治十八年(1885)三月に一刀流小野家九代小野業雄忠政から「一刀流の相伝」と、小野家伝来の重宝「瓶(かめ)割(わり)刀」を授けられ、それ以来「一刀正伝無刀流」を称することになった。

つまり、二つの流派に分かれていた一刀流が、鉄舟によって再び統括されたのである。

ここで少し一刀流についてつかんでおきたい。そうしないと「二つの流派」や、浅利又七郎からの「夢想剣」、小野業雄忠政からの「一刀流の相伝・瓶割刀」について理解ができない。

まず、最初は一刀流を創始した伊藤一刀斎について触れたい。

 伊藤一刀斎とは戦国時代から江戸初期にかけての剣客である。しかし、一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がないが、ここでは「剣と禅」(大森曹玄著)を参考にしたい。

一刀斎は、通称を弥五郎と呼び、伊豆の人とも関西の生まれともいわれ、生国も死処も明らかでないが、身の丈は群を抜き、眼光は炯炯(けいけい)として、いつもふさふさした惣(そう)髪(はつ)をなでつけ、ちょっと見ると山伏かなにかのような風態で、実に堂々とした偉丈夫だったという。はじめ鐘捲(かねまき)自斎について中条流の小太刀と、自斎が発明した鐘捲流の中太刀を学び、両方ともその奥儀を極めたうえ、さらに、諸国を遍歴修行して諸流の極意をさぐり、また、有名な剣客と仕合をすること三十三度、そのうち真剣での勝負が七回で、一回も敗れたことがなかったという。

それらの体験から一刀流を創始したが、老年になってから秘訣を神子上(みこがみ)典膳に授け、自身は仏道に帰依して行方を晦(くら)ましたので、一層その人物像が神秘化されている。

一説には、一刀斎が徳川家の師範に神子上典膳を推挙したのを、船頭から取り立てた高弟の善鬼が恨みをいだいて憤激したので、両人を立ち合わせて勝った方に仕官を斡旋することにした。

結局、悪弟子の善鬼は敗れて死に、典膳が小野次郎右衛門と改名して将軍の師範になったのだが、それ以来、一刀斎は剣に望みを断って仏門に入り、諸国の霊場を回遊したのだという。

次に、「二つの流派」に分かれたとはどういうことか。

伝わるところでは、流祖伊藤一刀斎の次が神子上典膳(小野次郎右衛門忠明)、以下、忠常、忠於、忠一、忠方、忠喜、忠孝、忠貞、この後が鉄舟に伝えた小野業雄忠政であるが、忠方の時、次の忠喜に瓶割刀を与え、中西子(たね)定(さだ)に一刀斎自記の伝書を相続させたことにより両派が生じ、中西派も一刀流正統を称し、その系譜に浅利又七郎があり、浅利から鉄舟が夢想剣極意を伝えられたのである。

また、夢想剣については、一刀斎が剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈って満願の日になっても、依然として神示はなく、失望した一刀斎は拝殿を降り帰りかけた。そのとき、物陰に黒い影がチラリと動く気配が感じられた途端、無意識に手が動き、刀が鞘走って、その影を斬りすてていた。
いや影を見た、というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに間髪を容れない心・手一如の速さだった。

後年、この時の体験を回顧して「あれこそ自分が八幡宮に祈って得られなかった夢想の場である」と気づき、夢想剣と名づけたと伝えられている。

さらに、瓶割刀とは、一刀斎の愛刀であったと伝っているものであり、一刀斎が三島神社の従者であった頃、神社に賊が押し入った際、瓶に潜んだ賊を瓶ごと切り伏せたことから「瓶割」との異名が付いたといわれ、神子上典膳(後の小野忠明)を筆頭に、代々、一刀流小野家に受け継がれてきた。

この伊藤一刀斎を主人公にした小説が、好村兼一氏によって二〇〇九年九月「伊藤一刀斎」(廣済堂出版)で出版された。著者の好村氏は一九四九年生まれ、パリ在住の剣道最高位の八段という人物である。二〇〇七年に「侍の翼」で小説家としてデビューした際、縁あってパリでお会いしたことから親しくなり、二作目の「伊藤一刀斎」についていろいろご教示いただいた。

というのも鉄舟が明治十八年に「一刀正伝無刀流」として統括し、その際に「一刀正伝無刀流十二箇条目録」として「二之(にの)目付之事(めつけのこと)、切落之事(きりおとしのこと)、遠近之事(えんきんのこと)」など十二箇条を取り上げているが、剣については素人の身、この目録に書かれた剣技について、剣道八段の好村さんに助けてもらったわけである。

十二箇条の全部を説明するのは大変なので、好村さんが「一刀斎が築いた一刀流剣術は現代剣道の根幹を成しており、極意『切落し』は今なおそこに生き続けている」と高く評価する「切落之事」のみに触れたいが、その説明は好村さんの小説の中で、鐘捲自斎と弥五郎(一刀斎)の手合せ場面を紹介することでしたい。

「二本の竹刀が強くぶつかり合って、弥五郎の竹刀は斜め下に弾かれ、次の刹那(せつな)、自斎の竹刀先が突き込まれる。
『おっー』
かろうじて右に飛(と)*び退(すさ)*りかわすと、二の太刀が頭上目がけてきた。
――今だー
弥五郎は怯(ひる)まず、よける代わりに上から鋭く切落す・・・・。弾かれたのは、今度は自斎の竹刀であった。」

この場面から分かる通り、「切落し」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことであるという。実戦の経験がないので苦しい説明だが、概略ご理解いただけたと思う。

ところで、鉄舟は何故に二つに分かれていた一刀流を「一刀正伝無刀流」としたのであろうか。

これについては、鉄舟長女の山岡松子刀(と)自(じ)が、小倉鉄樹の弟子にあたる牛山栄治氏に次のように語ったと「定本 山岡鉄舟」(牛山栄治著)にある。

「父は思うところがあって大悟した後、無刀流の一派を開きましたが、浅利先生の剣もまだ本当ではないところがあると、たえず工夫をこらしていました。晩年(明治十七年)のことですが、一刀流六代の次に中西派とわかれ、小野派の正統をついだという業雄という人が上総にいることを探し出し、自宅におつれして、その剣技を研究していましたが、これが正しいのだとさとる箇所があり、自分の研究と照らして満足したようでした」

加えて、大正十五年(1926)「東京日日新聞」(現 毎日新聞)に「五十年前」として連載された記事がある。これが「戊辰物語」(岩波書店)に収録されていて、山岡松子刀自はこの中で次のように述べている。なお、大正十五年の五十年前とは明治九年(1876)、翌年が西南戦争であった。

「小野派一刀流の祖小野次郎右衛門の末孫で同名の老人が江戸川辺で困り切っていたのを鉄舟が探し出して道場に据え、良く一刀流の組太刀の型を使わせました。この人は剣術となると空ッ下手でしたが型は大変上手で何でも知っているとの事でした」

なお、戊辰物語談話者の略歴が同書に掲載されているが、山岡松子刀自については、次のように書かれている。

「山岡鉄太郎の長女で故山岡直記子爵の姉君である。写真師某に嫁したが、死別し、その後は筑前琵琶などを弾いて暮らしていられたが、鉄舟そっくりのお顔で、娘時代には自ら竹刀をもって道場に出られた事もあるとの話であった。六十六歳」

最後の検討は、何故に鉄舟は大悟後、無刀流を開いたかである。そのことを「剣術の流名を無刀流と称する訳書」(明治十八年五月十八日)に、

「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対
する時、前に敵なく、後に我なく、妙応無方、朕迹(ちんせき)(兆しと跡形)を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」と述べている。

これについて大森曹玄は「剣と禅」の中で、以下のような見解を展開している。

「一刀流仮名字の伝書には、こうある。『一刀流と云ふは、先一太刀は一と起て十と終り、十と起ちて一と納るところなり。云々』。山岡鉄舟翁はそれを解して『万物太極の一より始まり、一刀より万化して、一刀に治まり、又一刀に起るの理有り』と、いっている。

一刀流の『一』がそのような窮極的な意義をもつものだとすれば、それはさらに深められ、その根源を突きつめてゆくとき、必然的に『無』に到達することは、大極は無極という易の道理から推しても、または禅のゼの字でもかじったものには朝飯前の問題である。一刀流は、かくて当然無刀流に展開すべき必然的因子を、はじめからもっていたといえる」

さらに続けて

「“無刀”という言葉に深い哲学的あるいは禅的な要素を含蓄させて用いたのは鉄舟先生がはじめてであって、その点では非常な見識というべきである」とも述べている。

以上、随分と固い難しいことを検討してきた。このあたりでやわらかいエピソードにしたい。

鉄舟が大悟した時、京都の滴水和尚は門下の江川鉄心の家に滞在していた。鉄心は鉄舟と同時代に修行した滴水門下の錚々たる一人である。

大悟した鉄舟は直ちに馳せ参じ、入室して見解(けんげ)を呈した。すると老師はにこにこして耳を傾けた。虫の居所が悪いと、鉄拳が飛んでくる厳しい激しい老師である。その老師が鉄心に向かって「鉄舟居士にビールでも差し上げてください」と言った。

鉄舟はこの頃から胃をおかしくしており、医者から日本酒はやめて、少量のビールにするように言われていたのである。

酒屋から取り寄せたビールを鉄心が出すと、鉄舟はたちまち一ダースを飲んでしまった。まだ欲しそうだったので、半ダース出すと、これも見る見るうちに飲みほし、意気まさに天地を圧する気概であった。

滴水和尚が「もうよいだろう。少し加減した方が胃によい」と注意すると、鉄舟は「少し過ぎましたかな」と笑いながらグラスを置いたのであった。

この姿を見ていた鉄心は「おれも、どうかあのくらいな悟りをひらきたいものだ」と人に語ったという。

最後に大変困った経験をお伝えしたい。

筆者は、このところ鉄舟の講演依頼が増えているが、先日、講演後に質問を受けた。

それは「人間が大悟するということは、全身の細胞が生まれ変わるのではないか。そうならば、鉄舟が五十三歳で、それも胃がんで亡くなるのはおかしいのでは」というもの。

この質問、一瞬、なるほどと思えるところがある。確かに人間の大悟とは、今までの自分から、あるレベルの境地への段階にシフトするものであろう。

そうであるなら、その境地へのシフトする過程で、細胞が良変化を遂げているはずである。そうでなければ、前号で紹介した林成之氏からのヒント、悟ったということは、自分自身が持つ能力、それが余すことなく、最大限に発揮される状態だろう。逆に考えれば、すべてを成し遂げられる人間力が、大悟によって備わるのであるから、細胞は変化しているはずだ、と推測できる。

しかし、筆者はその質問者に対して次のような回答をした。

「大悟したとしても、人間ですから、寿命があり、それはその人が生まれ持ったものではないでしょうか」と。

いずれにしても、大悟についての検討は大変難しい。このあたりで大悟のことから離れ、次回からは再び幕末から明治維新に戻りたい。まだまだ鉄舟が活躍した場面は多い。

投稿者 Master : 2011年01月18日 10:01

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