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2006年10月10日

随行する薩摩藩士・益満休之助

 随行する薩摩藩士・益満休之助
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

徳川慶喜から官軍との交渉について、直接指示を受けた鉄舟は、慶応4年(1868)3月5日、赤坂・氷川神社裏の海舟邸を訪ねた。玄関口で厳しく警戒されたが、ようやく海舟と会えた経緯については既にお伝えした。
だが、海舟邸に益満休之助がいることに鉄舟は驚いた。

薩摩藩士の益満休之助がどうして海舟のもとにいるのか。鉄舟と益満とは、お互い若い頃「尊王攘夷党」で意気投合した仲間であった。尊王攘夷党とは、清河八郎を中心に安政6年(1859)又は万延元年(1860)に結成したといわれる、別名「虎尾の会」ともいう勤王鎖国論者同士の秘密結社であった。当時、鉄舟は23・24歳、氷川神社裏の海舟邸を訪ねたときは32歳、約10年前に益満とは尊王攘夷党で活動しあった親しい関係だった。
尊王攘夷党の中心人物である清河八郎については、後日詳述しなければならないが、若き鉄舟が深く付き合い、影響を受けた人物である。しかし、概して清河八郎の評価は芳しくない。清河八郎と関わったことが、当時「山岡鉄太郎は危険人物だ。海舟を狙っている。注意しろ」と、大久保一翁から言われ警戒される素因となっていた。
司馬遼太郎は清河八郎について、その著書「奇妙なり八郎」の中で「憤怒せよ、と無位無冠の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と述べ、あまり高く評価していない。
しかし、藤沢周平はその著書「回天の門」で「誤解は、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と書き、「ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか」と同じ山形県同郷出身者としての気持ちを込めて述懐している。

さて、氷川神社裏の海舟邸に戻りたい。海舟が「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(海舟日記3月5日)とあるように、鉄舟と会った海舟は、今までの誤解・懸念を解くとともに、駿府行きについて「臨機応変は胸中にある」と「縷々と説明し、その毅然とした決心の固いのには感服した」と鉄舟を認め、この出会いを「莫逆の交わりを結ぶ媒介となった」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)と述べているほどである。
そこで海舟は「おれは手を拍って『よし、かくまで至誠確乎たる決心ならば、よもや仕損じはあるまい』と答えて、薩人益満休之助を随行させ、更に西郷に宛てた添書を与えた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)のであった。
この益満が海舟邸預かりになった経緯は、海舟日記(3月2日)に「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」とあり、この目的は対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたものであった。しかもそのタイミングは鉄舟が訪れる3日前の3月2日という絶妙さであった。さすがに政治的能力の高い海舟の直感行動力である。

ここで薩摩藩邸焼討について触れないと、益満と海舟の関係が整理できない。薩摩藩の上屋敷は三田四国町にあった。今の港区芝三丁目のセレスティンホテルあたりである。広大な敷地の藩邸で、ここを幕府のお雇い武官であるフランスのブリューネも参加し、砲撃を加えたのである。攻撃の主力は庄内藩で、その他に上之山藩や鯖江藩なども加わった。
この経緯について「徳川慶喜公伝4」(渋沢栄一編)と、当時、外国奉行並町奉行であった「朝比奈甲斐守昌弘(閑水)」の手記を要約してものが「西郷隆盛」(海音寺潮五郎著)にあり、それらを整理すると次の通りである。
「慶応3年10月頃から江戸市中で、強盗が富商の家に侵入して、江戸府内をさわがせたので、町奉行で調査したところ、このうちの七八人あるいは十人余の賊は三田の薩舟邸から出ていることが判明した。しかし、この頃の町方与力や同心らは軟弱な輩ばかりで、手に負えないので、庄内藩主酒井忠篤に市中の取締りをさせることにしたが、なおやまなかった。酒井家に新徴組を所属させて、これもまた市中巡視にあたらせたが、やはりそれほどの効果はなかった。
幕閣では種々協議したが、薩摩藩邸を攻撃すべきという意見と、事前に京都にいる慶喜の指示を仰ぐべきであるという意見が対立し、議論は三昼夜に及んだが、朝比奈の意見で慶喜の指図を仰ぐという意見が通ったのが12月24日。この決定を早速攻撃派に伝えたが頑強に抵抗され、すぐに攻撃すべきだと逆に強行主張され、圧され、とうとう閣老らは攻撃策に踏み切ってしまい、翌25日、遂に薩摩藩邸とその支藩佐土原藩の三田の邸を焼いた」
 この薩摩藩邸焼き討ちのときに、首謀者として捕らえられたのが益満であった。幕閣の協議で擦った揉んだのあげく、ようやく決定した薩摩藩邸攻撃であるから、簡単に首謀者の益満を牢から釈放放免できるはずがない。しかし、益満は海舟によって助け出され、それも鉄舟が訪れることを分かっていたかのように、3日前から海舟邸にいたのである。
ここで分かることは海舟の権力である。鳥羽伏見の戦いを誘発した薩摩藩邸焼き討ち、その要因を謀った死罪となるべき敵方薩摩藩の政治犯を、釈放放免させることができる権力、それは、この当時、海舟が徳川政権の実権を握っていたことを証明するものであった。
何故にこのような権力を持ちえたか、これについては当時の幕府内の政治的動向と、諸外国との関係を解説しないと分かり難く、これも後日詳述したい。

 ところで、海舟はいつ益満と知り合っていたか。益満を和平工作の武器として使える人材であることを知っていたからこそ、海舟は益満を牢から出したのである。ということは益満をよく知っていたということになる。
 海舟が益満を知った経緯は諸説ありはっきりしないが、当時、海舟のところによく出入りしていた薩摩藩江戸留守居添役の柴山良助が、益満を海舟邸に連れてきたのではないかと思われる。柴山良助は西郷の添書をもつて、初めての江戸留守居添役着任時に挨拶に来たことから、その後、しばしば海舟のところに出入りするようになっていた。これには元治元年(1864)9月、大坂で海舟と西郷が会談し、海舟が展開する時局展望に西郷が驚嘆し、以後、海舟を高く評価し、柴山に海舟と親しくするよう西郷が指示したという背景が存在した。なお、文久2年(1862)4月の伏見寺田屋事件で、殺された柴山愛次郎はこの柴山良助の弟である。
 
 この当時、海舟は官軍との打開工作に手詰まって苦しんでいた。その打開のための和平工作要員として薩摩藩士三人を確保したのであるが、そのタイミングを計ったように、3月5日にいたって身の丈六尺有余という一人の剣客、鉄舟があらわれたのであった。
 和平工作要員としての薩摩藩士三人は、江戸留守居役南部弥八郎、同添役肥後七左衛門と益満であったが、海舟が益満を選び、鉄舟に随行させることにしたのは、尊王攘夷党時代の鉄舟との関係を知っていたからと推察できる。
 さて、鉄舟が記した「西郷氏と応接之記」からその経緯をみてみたいが、文章が漢文体のため口語体に大意を書き直し紹介したい。
「江戸を出発し、品川、大森を過ぎて、六郷川を渡ると官軍の先鋒が銃列をなして満ちていたが、その中を鉄舟と益満は誰何されることなくすたすたと歩いていった。
 ふと見ると、隊長の宿舎らしきところがあった。鉄舟は中に案内も乞わずに宿舎に入って行き、隊長はどこだと尋ねた。その尋ねた先に隊長と思える面構えの人物がいるので、この人物を後から聞くと篠原国幹であったが、その篠原の前で
「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と怒鳴った。
「えっ!。朝敵!。トクガワヨシノブ!」と篠原はつぶやく。
篠原は誰のことなのか、咄嗟に分からなかったのだ。当時の習慣で将軍については直接名前をあげることなく、敬称として将軍、大樹公、上様などと称することが常識であった。
また、徳川将軍にお見えすることなどかなわない陪臣である篠原にとっては、ヨシノブという言葉が将軍であるということ、それを理解することは一瞬にはできない。
「よし。通れ」と思わず言ってしまう。
篠原の前から宿舎外に出て、鉄舟は益満と再び早足で歩き出す。鉄舟の早足は有名で、若き時代から足腰は鍛え抜いてあって、歩き出すとぐんぐん速度が上がり、瞬く間に篠原から見えなくなった。この後、篠原は気づいて後を追ったがすでに鉄舟ははるか先を歩いており、鉄舟を捕らえることは出来ない。
横浜を過ぎ、神奈川の宿に入ると、もう長州藩の領域で、ここからは益満が先に立って歩いた。益満の薩摩弁が役立つ。独特の薩摩弁は他国者には真似できない。益満の薩摩弁の訛りが通行手形であった。無印鑑であったがいずれも礼をもって通行を邪魔されることなかった。
こうやって昼夜兼行し駿府に到着でき、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で東征軍大総督府参謀西郷と会談ができたのであった」

 これが鉄舟の記した駿府までの経緯である。これによると益満の同行によって、難なく駿府の西郷のところに到着したことになっているが、果たして、その通りであろうか。
当時の緊迫した戦争・騒乱状態下、つまり、日本を二分する一方の官軍軍勢が勢い強く充満している東海道筋、そのなかを幕府旗本武士が官軍の進路と逆コースをとり、すんなり行動できたと考えるのは常識的ではない。何かトラブル・危険・問題があったと考える方が妥当であろう。
 そのことを主張するのが「誰も書かなかった清水次郎長」(江崎淳著)であって、「益満休之助、断じて駿府に来らず」と書き、その説をなしていた人物として静岡市に居住し、鉄舟の子息の山岡直紀氏の書生をしていた、日本画家の大石隆正氏をあげ、箱根の関所までは益満が一緒だったが、その後忽然と益満は消えたと主張し、駿府における西郷との会見・交渉にも益満はいなかったという。確かに鉄舟が記した「西郷氏と応接之記」において、西郷との会見・交渉の場に益満がいたとは書かれていない。
 とすると、鉄舟は箱根関所を越えてから駿府まで単独で行動したのか、という疑問が生じてくる。駿府の所在した大総督府の近くになればなるほど、官軍陣営は密集して旅営しているはずであるから、幕臣旗本として鉄舟の通行は困難であったと考えるのが常識的な判断である。
 
 箱根から駿府の間の行程については、三つの説があり、謎に満ちている。
 一つは駿府まで鉄舟と益満が一緒だったという説である。これが一般的に従来から唱えられている。もう一つは前記の江崎淳氏を代表とする説、つまり、益満は駿府に行かなかった。その理由として箱根で益満が体調を崩したために、鉄舟が単独で駿府に行ったというものであり、この場合は誰かが鉄舟を助けたはずである。三つ目は途中で体調を崩した益満が回復して駿府で追いついたという説であるが、これも誰かの助けが必要であった。

投稿者 Master : 2006年10月10日 11:07

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