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2006年12月21日

危機を救った「望嶽亭」

危機を救った「望嶽亭」
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

時代の変革とは、偉大な人物の登場によってなされ、それらの人物に共通しているのは時流を捉え、つかみ、編集し、行動できる力量を備えていることではないかと思う。
徳川幕府時代から明治への大変換時、その起点となった江戸無血会場、そこへ直接的に関わって成功させた人物は、西郷隆盛であり、勝海舟であり、山岡鉄舟であったが、この三人に共通していたことは、時流に適合した改革者としての要件を保持していたことであった。つまり、その時代のなかで、抜きんでる力量を備えていたのである。

では、その抜きんでていた力量とはどのようなものであったか。それを当時、お互いに相手を評価した記録から確認してみたい。ただし、鉄舟については、今後も本連載で人物像を詳細に評価・検討していくので、ここでは海舟と西郷、この二人についてお伝えしたい。

まず、海舟が西郷をどのように評価していたかである。
≪おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州とだ。
横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教えてやったくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばゝあったヨ。おれはひそかに思ったのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ。
その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優るほどだッたけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。
そこで、おれは幕府の閣老に向って、天下にこの二人があるから、その行末に注意なされと進言しておいたところが、その後、閣老はおれに、その方の眼鏡も大分間違った、横井は何かの申分で蟄居を申付けられ、また西郷は、漸く御用人の職であって、家老などいふ重き身分でないから、とても何事も出来まいといった。けれどもおれはなほ、横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ≫(『勝海舟全集・21・氷川清話』講談社)
また横井小楠の人となりを『氷川清話』の「注意書き」でこう言っている。
≪横井小楠は、西郷ほど有名ではないが、肥後出身の儒学者で、一時は越前藩に招かれて藩公の賓師となり、松平春嶽が文久二年に幕府の政治総裁職になったときは、その顧問格で幕政にあずかった。その年の暮、江戸で襲われて無腰で逃げるという事件があり、翌年、肥後藩に戻って士籍没収の処分を受ける。「横井は何かの申分で蟄居を申付けられ」とは、そのことを指す≫

海舟が「果たして西郷は出て来たワイ」と指摘した通り、西郷は幕府の前に東征軍大総督府参謀として登場し、立ちはだかってきた。海舟の人物観は正しかったのである。
その立ちはだかる西郷に、幕府は和平使者を幾人も差し向けたが、撥ねられ、受け入れられず、和平への道は閉ざされたかと思ったそのときに、突如として一介の旗本である鉄舟が時代の前面に登場し、決死の駿府駆けを成し遂げ、江戸薩摩屋敷における西郷・海舟会談につなげ、ここに近代日本の基点が成立したのである。
この明治新日本のスタート時に、海舟と西郷という人物が存在しなかったならば、別の展開になっていたと思われるほど、この二人の人物が果たした役割は偉大である。
つまり、日本の近代化がスタートした明治時代の幕開けというタイミングに、時の官軍に東征軍参謀として西郷が存在し、一方の幕府に海舟という時代の流れを国家的に編集できる人物がいたこと、それが明治維新を成功させた背景であった。
もう少し海舟の西郷評をみてみよう。
≪官軍が品川まで押し寄せて来て、今にも江戸城へ攻め入ろうといふ際に、西郷は、おれが出した僅か一本の手紙で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそゝ談判にやってくるとは、なかゝ今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談はとても纏まらなかっただろうヨ。その時分の形勢といへば、品川からは西郷などが来る。板橋からは伊地知などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといって大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、たゞ西郷一人を眼においた≫(同上)
正に海舟が述べたとおり「たゞ西郷一人を眼においた」交渉作戦は、西郷という人物の偉大さを示し、時代が西郷を迎え、西郷によって新しい時代がつくられていくこと、それを海舟が知っていたことを示している。このように海舟が認識した西郷という人物は、当時の日本で際立つ力量の人物であった。

では、その際立った人物の西郷からみた海舟、それはどのような人物像であったのか。
西郷が海舟に初めて会ったのは、元治元年(1864)の9月11日。海舟が神戸の海軍操練所から老中の阿部豊後守に呼ばれて大坂まで出てきた際、旅館の一室に西郷が訪ねてきたときであった。
当時の政治的国家重大事件は第一次長州征伐であり、兵庫開港問題であった。このころの西郷は征長に非常に熱心で、幕府の戦争準備が手緩いのをはがゆがって、軍艦奉行の海舟の意見を問いただし、諸外国の兵庫開港要求についても海舟の意見を聞きに来たのであった。この西郷に対し海舟は、得意の相手の逆手をつく論法をもって、現状幕府の腐敗しきった内情を暴露し、雄藩の手で政治を一新しなければだめだと説いたのであった。これを聞いた西郷は、その結果の報告を含めた大久保一蔵へあてた手紙で、海舟を次のように語った。
≪勝氏へはじめて面会仕り候ところ、実におどろき入り候人物にて、最初は打叩くつもりにて差越し候ところ、とんと頭を下げ申し候。どれだけ知慧のあるやら知れぬ塩梅に見受け候。まづ英雄肌合の人にて、佐久間(象山)より事の出来候儀は、一層も越し候らはん。学問と見識とにおいては、佐久間抜群のことに御座候へども、現時に望み候ては、この勝先生を、ひどく惚れ候≫(『海舟余波』江藤淳著)
これは殆ど「べたほめ」といえる内容である。この手紙は大久保公爵家に保存されていたが、このとき西郷と同道して海舟に会った伯爵吉井友美(幸輔)が、明治20年ごろになって大久保家から入手し、明治天皇の天覧に供した。そのとき吉井が海舟にもそれを見せたところ、海舟は西郷の勝評を見て涙を流さんばかりに感激し、のちに側近にむかって、
≪あの手紙には感じたよ。勝は喰えない男だ、といふくらゐに思はれていたろうと思ったら、かくのごとく見てくれたことは真に感謝にたへない≫(同上)と言ったという。
これらの記録から分かることは、人物は人物をお互い評価し合っていることである。
なお、この大坂での会談は、結果的に西郷が持っていた幕府に対する考え方を、大きく変えるきっかけになった。西郷が考え方を変えたということは、薩摩藩の幕府に対する方針が変わったという重要な歴史的会談である。これについては次回に解説したい。
 
さて、主題を鉄舟に戻したい。鉄舟が駿府にたどり着き、西郷に会うこと、そのことこそが江戸無血開城へのターニングポイントであった。何故ならば、西郷はその独特の人物判定価値観により、たちどころに鉄舟の本質である「すべてを捨て去ることができる力量」に感服し、鉄舟の戦略目的であった「慶喜の生命安全」について、「吉之助が請け負う」という言質を鉄舟に与えたからだ。
では、どうやって鉄舟は駿府にたどりつけたのか。それを明らかにする一つの秘話がある。その秘話を語るのは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさんである。望嶽亭に代々口承伝承されてきた内容、それは慶応4年(1868)3月7日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の大戸を密かに叩く一人の侍がいた、ということから始まる。以下は松永さだよさんが語り、それをまとめた「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)からの要約抜粋である。

 慶応4年3月7日の深夜である。
 鉄舟は、「由比」倉沢の薩埵峠に差し掛かった。ここは五十三次の中でも難所中の難所といわれ、海岸沿いの道は、波にさらわれないで渡りきる潮時が難しく「親知らず子知らず」と呼ばれている。もう一方の山道は切り立った崖に沿って曲がりくねった細い峠越えの道であり、鉄舟はここを急ぎ足で登りだした。そのとき「止まれ!誰か!」と官軍の誰何。薩摩藩の益満休之助は、箱根で体調を崩して同行していない。如何に鉄舟といえども一人では官軍の中を突破できない。鉄舟は急いでもとの山道を引き返した。官軍は怪しいとみて鉄舟の背に鉄砲を撃ってくる。急坂を降り走って、薩埵峠の麓まで戻ると、そこは望嶽亭の前であった。
 「たのむ!たのむ!」「たのむ!たのむ!」「・・・・・・」
 官軍に悟れぬよう、押し殺した必死の声で大戸を叩く。ようやく望嶽亭の中で、大戸の近くに人が立つ気配がし、そーと戸を開けかかったその瞬間に、鉄舟がすべり込む。大戸を開けたのは望嶽亭20代松永七郎平の女房「かく」であった。 
 「駿府の大総督府に行かねばならぬ大事な身である。官軍に捕まるわけにはいかない。匿ってもらいたい」と低く重い声で、一途に頼み込む鉄舟をみた七郎平は「これは深い訳のある人だ」と瞬時に判断、母屋と切り離された15畳の蔵座敷に通し、厚く重い漆喰つくりの扉を閉めた。客間でもある蔵座敷で、改めて鉄舟から事の次第を聞いた七郎平は「それならば陸路は危ない。海路しかない」と、鉄舟を漁師姿に着替えさせ、船の手配と共に、清水の侠客次郎長に「この方は、大事なお方だから無事駿府の大総督府に届けてもらいたい」と手紙を書いた。

 表の通りに官軍の足音が迫ってきた。蔵座敷から海に抜ける階段を駆け降り、望嶽亭お抱え漁師の栄兵衛が待つ櫓舟に乗り込む。「栄兵衛、頼むぞ」の声と共に、艫(とも)を沖に向け押し出し、栄兵衛も満身の力を込めて水棹(みさお)を突き、引き潮に乗って江尻湊(現清水港)を目指した。無事、江尻湊に漕ぎ着き、鉄舟は栄兵衛の案内で次郎長のところへ向った。七郎平の手紙を読み終えた次郎長は「倉沢の望嶽亭・七郎平の頼みとありゃこの次郎長、命に懸けて守りやしょう」と子分に家の周りを警戒させ、鉄舟を座敷に上げる。翌3月8日、鉄舟は、はやる気持ちを抑えて次郎長宅で休息した。
いよいよ9日、鉄舟は次郎長と子分に守られ、清水から駿府の西郷が宿泊していた伝馬町・松崎屋源兵衛宅に向かい、そこで西郷と会見した。

以上が「危機を救った藤屋・望嶽亭」の粗筋であるが、実は望嶽亭20代の松永七郎平が鉄舟との対応に追われている間、女房「かく」は大変なことになっていた。
というのも、官軍が大戸を破れんばかりに叩き「官軍じゃ!早く開けろ」と叫び、開けた途端に「ここに武士が逃げ込んできたであろう」と跳びこんできたからであった。
官軍は、かくの頬に刀の鎬地(しのぎぢ)を当て「隠すと為にならんぞ」と厳しく問い詰めた。武家の出のかくは落ち着いて「お疑いでしたら、屋敷内をお探し下さい」と答える。「よし、くまなく探せ」という隊長の命で、布団部屋から納戸まで銃剣や刀で突き刺し探したが、鉄舟は既に海の上であったので見つからない。すると、官軍は「騒がしてすまなかった」と詫び、小判をおいて立ち去ったが、このときの出来事がかくの脳裏に深く刻まれ、以後、藤屋・望嶽亭に代々口承伝承されてきたのである。
この秘話について、歴史学者は記録がないという立場から認めていない。だが、今回、改めて23代当主夫人の松永さだよさんにインタビューし、これは真実ではないかと確信を持つに至った材料を確認した。これについては次回にお伝えしたい。

投稿者 Master : 2006年12月21日 10:57

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