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2011年10月12日

駿府・静岡での鉄舟・・・其の二

山岡鉄舟研究
 駿府・静岡での鉄舟・・・其の二

江戸から駿府への徳川家臣団移住は、慶応四年(1868)から明治元年へと、新しい年号に変わった十月、この一ヶ月で全員の移住を完了させよと命令が新政府からなされていた。しかし、十月二日から十二日まで明治天皇の東上、その間は徳川家移住が中止、また、家屋・家具等の整理処分に時間がかかり、実務的に一カ月では無理で、陸路は翌年まで続き、海路は十月と十一月の二カ月にかけて行われた。

移住に陸路と海路のどちらを選ぶかはお金次第であった。お金のある者は陸路、または個人で船を雇った。この雇船は商いのため江戸に立ち寄る帆前船を清水港までチャーターしたもので、お金がない者は徳川家がチャーターした大型船での移住となった。

この移住の状況、今の時代につながることも多いので、当時の記録からいくつかみてみたい。最初は陸路。それを幕末時に御徒(おかち)であった山本*政(まさ)恒(ひろ)(七十俵五人扶持)の日記からひろってみる。

御徒とは徒士・歩行とも書き、御目見以下の軽格武士御家人で、職掌は将軍近辺の警護である。この日記は原題を「政恒一代記」、それが「幕末下級武士の記録」(昭和六十年・時事通信社)として出版され、この中に東京出立前の家屋敷処分状況が記されている。

「無禄移住を願出たり。因て江戸持地面は其儘上地し、家屋は売方多く買い手少なきを格外の下落也。三年前に建直し、瓦家にて建坪二十余坪の家作、漸くにて代金弐拾円にて売渡」

政恒の住所は下谷三枚橋通仲御徒町大縄地(現・JR御徒町駅近辺)で約二百坪の敷地、政恒は多少絵心があり、自宅を絵図で遺している。これを見ると池があり築山もあって庭木も大きい。これを移住までに「悉く焚木に使用した」と記しているが、現代では豪邸となる立派な邸宅が、江戸時代の軽格武士御家人の住むところであった。

今の御徒町あたりは雑然と建て込んでいる街並みであるが、古地図を見れば御徒屋敷が整然と区画され並んでいる。

この当時の江戸は、素晴らしい調和のとれた景観都市であった。それを証明するのがイギリス人写真家「フェリックス・ベアト」の写真である。撮影したのは慶応元年(1865)から2年(1866)頃で、江戸市中をパノラマ写真として残している。特に海舟と西郷が江戸無血開城を談じた愛宕山から撮影した江戸景観は見事である。今、愛宕山から眺めると、当時の景観は望むべくもなく、ベアトと同じ位置から見た現代の東京の街並み、それに貧しさと哀れさを感じる。

このような無秩序景観になっていった始まりが、徳川家臣の駿府移住という要因から発生したと推測される。家臣の家屋が一斉に売りに出され、不動産市場の需給バランスが一気に崩れ、売り手不利で安く買いたたかれ、それを購入した江戸市民は、時間経過の中で何度か転売しつつ、その度に土地は細かく区分所有されていき、都市景観の調和美が失われていった、と政恒日記から推測され、東京の現状を成程と思った次第である。

更に、政恒に日記から移住の途中状況を見てみたい。

「明治二年(二十九歳)正月家族引纏め東京出立、川崎・藤沢・小田原・三嶋・吉原・由井・江尻の七宿へ泊し、駿府研屋町米商山本屋吉右衛門方に止宿す。予の家族は、かん・よし(七歳)・万平(五歳)・文次郎(二歳)さだ都合六人なり。因て元大御番京都へ在勤の時用ひし長持の駕籠を求め、夫へ夜具・蒲団三組を敷入れ、子供三人を乗せ、屋根へは下駄・傘・おまる等を乗せ、其他の者は歩行し、足の労れし時は駕籠を雇ひし也」

家族六人が七泊もして荷物を持って陸上を徒歩で移動したのであるから、随分お金がかかったであろう。現代の引っ越しからは考えられない状況である。

移住では家族間の悲劇も発生した。四百俵の平賀家の事例である。(「徳川家臣団第三編」前田匡一郎著)

「内匠(勝成)の妻は三枝左兵衛の娘で左兵衛が朝臣(新政府)になったので、父も内匠も大層立腹して、三百年来の徳川家の御恩を忘れたる不忠不義の武士のこんな娘は我が家には置けぬと早速離縁を申渡し、妻は女の子の幸を連れて泣く泣く三枝家へ帰った」

徳川家が禄高七〇万石では従来の生活ができないのであるから、朝廷・新政府へ仕えるよう強く勧奨し、それを受け入れた結果は夫婦別れという悲劇を生みだしたのだ。

 さて、海路であるが、これについては大正十五年(1926)静岡民友新聞に「府中より静岡へ」という記事が坂井闡(せん)という人物により連載され、その中にチャーター船の様子を述べた明治三十四年の
「塚原渋柿園」(明治期の小説家)による回想が紹介されている。(「徳川慶喜静岡の三十年」前林孝一郎著 静岡新聞社)

 「移住者を清水湊まで運んだのはアメリカの『飛脚船』ゴールデン・エージ号という船であった。長さは七十~八十間(約二百五十~二百九十メートル)、幅十二~十三間(約四十五メートルほど)の大船で品川沖の台場付近に停泊していた。乗船希望者は本願寺あるいはその付近の民家を借りて待機していたがその数は約二千五百から二千六百人に上がっていた。

むろん、その中には婦人や子供、一人では動けない老人なども含まれていた。当然のことながら持ち込み荷物は最小限に制限されていたが、みな新生活への不安から一品でも多く持ち込もうとして必死だった。出発当日は朝早くから数十隻の小船が動員された。小船は陸と船を数百回も往復したが、乗り組みがすべて完了したのは夕方六時を回っていた。

船はパンク状態で甲板はテントを張って『野営』の状態、船内も『すしを詰めたというより目刺し鰯を並べた』ような状態だったという。約二里(八キロメートル)も小船に揺られたうえに、貨物船特有の石炭のにおいにやられて船内あちこちで嘔吐するものが出た。病人の呻き声、子供の泣き声、そしてそれをなじる水夫の怒鳴り声で、船内は『牢屋どころか地獄』を思わせる様相であった。

特に困ったのは用便であった。これだけの人数に対応するだけのトイレのあろうはずもなく、船底に四斗樽を十四、五も並べて代用した。しかし男性はともかくとして女性はと言えば元旗本・御家人の奥様、お嬢様たちである。たいそうな難儀をしたが、偶然にも船内に持ち込まれていた『おまる』が引っ張り凧になった。

また樽にたまった汚物を船外に捨てようと樽を吊り上げたが、途中で綱が切れ、乗客がこれを頭から浴びるなどというハプニングも起こった。二日半かかって清水湊に到着したが、この間亡くなった人は四、五人、出産も五、六件あった」

 このような塚原の回想内容は、その後各文献でしばしば引用され、一般的にこれが海路移住の全てであったかのように伝わっている。これは大変な誤解であることを指摘したい。

外国船による大量輸送は九回行われた。これは東京都立公文書館の資料により概略確認できる。(徳川家臣団第三編)

1. 十月二日 横浜亜国商人所持蒸気飛脚船ニーヨルク 千三百八十八人
2. 十月八日             オーサカ   千四百八十一人
3. 十月十一日            アテレイン  四百十一人
4. 十月十五日     アテレイン帆前船キングフィルツリプテ 千七百五十人
5. 十月二十四日           ヤンシー   二千二十八人
6. 十月二十八日           ヤンシー   千八百九十三人
7. 十一月三日            クルリュー  四百八十四人
8. 十一月五日            ヤンシー   千四十七人
9. 十一月九日            ヤンシー   八百十四人
    合計  九便   一万千二百九十六人

 この便船の区分けは、基本的に百俵以上(御目見)と未満(御家人)に分けたようであるが、これは当初の基本方針であって、実際は様々に乗船したらしい。 

なお、上の九便リストに塚原が回想したゴールデン・エージ号が見当たらない。本人の記憶違いと思われるが、人数の多さから推察して十月二十四日五便のヤンシーではないかと考えられる。

次に、十一月五日のヤンシー千四十六人に乗船した新庄萬之助直義の記録を紹介したい。新庄は両番格(御小姓と御書院の両番を勤め得る家格)の四百石であるが、母と妹を残し、父と二人で駿府に移住するため本願寺に入った。(徳川家臣団第五編)

「此院にて長崎人にて何某作太郎とて御雇外国船の通訳をなす者に逢ひけり。其者の言に自分は少し病気にて爰(ここ)に居残り居るが、自分の乗り居るヤンシューと云える船は雇船中最大なるものゆえ其船に乗る方船暈(めまい)に罹る事少なからんとの事に他の船の出るにも係らず其船の来るを待ち、十一月五日ヤンシューに乗込、作太郎周旋にて上等の一室を借り受けたり。

船長の名をバチラと云ひ支那人のボーイ多く徘徊しチュデヤートと云ふ語を盛に誦す。其何を意たるを解する能はず。船中は板壁塗料及石炭の匂ひにて人々頭痛を感ず。父は之が為に炊出しの握飯を喰ひ得ざりしが余は別条なかりし。船は日没後に出帆し、日出前清水港に着す。軈(やが)て日出れば三保の松原は近くして緑に富士山は遠くして白し、其外見馴れぬ山海の景色に少しは紛るる事を得たり。是れ実に十一月六日の朝なりき」

このように一日で順調に海路移住した事例も記録に見られる。事実は様々な角度から検討しないといけないと思う。

一方、受け入れる駿府の住民には町触れが出されていた。

「このたび約千人ほどが東京を出発した。そのうちに当地へも到着することになるが、各町内で宿泊場所を提供してほしい。見苦しい住居でも構わないということである。到着次第、各町内へ宿割りをするので、不都合が生じないように取り計らって欲しい」

清水港に到着した移住者は、とりあえず近在の民家や寺院の本堂を借りて住みつくことになったが、彼らは「お泊まりさん」と呼ばれた。

駿府には六百九十四人、浜松七百二十一人、掛川七百一人、遠州横須賀六百八十二人、田中六百五十人、相良七百六十人、中泉七百二十九人、小島三百九十九人、三州赤坂六百二十八人、三州横須賀六百六人。いずれも一家の当主の人数である。一家五人と想定し従者も考慮に入れると、駿府周辺には約五千の人口流入があったと考えられる。

当時の駿府の戸数は四千四百七十六戸、人口は二万千四百六十六人であるから、四分の一に当たる人口の流入があったわけで、急激な人口増加であった。

先に触れた塚原の親は元二百三十俵取りの与力で、江戸市ヶ谷に四百余坪、大小合わせて十一間という屋敷を構えていた。

しかし、移住後、両親が清水に確保できた家は六畳に三畳の二間、三尺四方の台所に竈が一つ、天井はなく屋根は板葺で、半分は朽ちていた。これでも「壊れた厩に住んでいる人たちに比べればましなほう」と母親が語っていたという。

それでも屋根さえあれば雨露はしのげたが、問題は食糧の確保である。無禄移住という無収入を承知で覚悟してきたのであるから藩は養う義務はない。しかし、藩も見るに見かねて、暮れの十二月に無禄移住者に扶持米を支給することにした。

三千石以上の家臣に毎月五人扶持、これが最高扶持で最低は毎月一人扶持であった。一人扶持とは玄米一斗五升支給で、白米にして一割減であるから一日四合ほどになる。これは一家に支給される量であるから、家族の人数を考えればとても足りない。食糧が尽きて一家七人が餓死したとか、村人が哀れんで麦粥を与えたところ、一気に数杯も平らげたあげく、にわかに苦しみ息絶えたというような話が伝えられている。

瀬名村の農家に間借りした市田家は元千二百石、その子剣三郎が山に入り、たまたま椎茸の栽培地に入り込み、椎茸を思わず袂に入れたところを「泥棒」と連呼され、かっとなって刀を抜いて農民を切ってしまった。この事実を自供した剣三郎を藩庁も許すわけにいかず切腹となった。剣三郎は十九歳であった。

このような悲劇は数限りなくあるが、六十五年前の戦後、日本国民の多くは同様の食糧難に陥った。この時、筆者は田舎で親と一緒に山や川の土手で食べられる物を漁った経験があるので、徳川家臣の駿府移住は他人事ではなく感じ、深く身につまされる。

だが、全員が困ったわけでなく、地元の経済活況に関わった事例もある。静岡市伝馬町はJR静岡駅近くで、江戸時代は参勤交代の宿場町として旅人で賑っていた。しかし、幕末になってさびれる一方であった。ここに隣の鷹匠町に「お泊まりさん」が入って来た。

このお泊まりさんは貧乏幕臣とは違って、邸を与えられたそれなりの身分の者たちであった。そこで、伝馬町は町の繁栄を協議して遊郭をつくることを藩庁に届け出た。慶応四年六月のことであるから、お泊まりさんがまだ実際に移住してこないタイミングであって、如何に伝馬町はお泊まりさんに期待したことが分かる。結果は、その後芝居小屋や湯屋もでき、旅籠屋は遊女屋に代わって繁栄した。

これは戦後の進駐軍目当ての同様商売で荒稼ぎしたものと重なるが、いずれにしても一概に悲劇ばかりではなかったということを認識したい。

ところで、山本政恒のその後であるが、

「家族を伴って浜松に移住、浜松奉行井上八郎の配下に入った。やがて払い下げ金を得て、裏早馬町に敷地およそ六百坪、建坪五十坪の家屋を購入することができた。当初は、藩から『役持』(手当て金)が唯一の収入であったが、これだけでは生活できないので、屋敷内の掃除にために雇い入れた農民に農作業を教わり、耕した農地から相当の収入を得ることができるようになったという。

明治五年(1872)十月、浜松県監獄の下級役人、のち捕亡吏(警察官に相当)となったが、二年後、自分の不注意から囚人を取り逃がし、免職となってしまった。その後は張り子面作りの内職で生活せざるを得なかったが、職を得るため単身上京、翌年四月に印書局取片付け方として、さらに五月に熊谷県に職を得てやっと安定した生活を送れるようになったのだった。下級役人または警察官となるというのが、無禄移住した旧幕臣のたどった平均的なコースであった」(「徳川慶喜静岡の三十年」)

ところで、この静岡移転に伴い、徳川家臣は以下の四つに分けられたことは前号で述べた。第一は脱走して反政府活動に走った者、第二は朝廷・新政府に仕える者、第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として無禄でも徳川家に残る者である。

この身の振り方から指摘できるのは藩側からの「リストラ」が行われなかったことである。現在の日本、企業経営が厳しくなると社員の首切りリストラが、まず、最初に行われることが多くなっている。しかし、徳川藩は70万石に合わせるような家臣の首切りは行わなかった。駿府に来る者は全員受け入れている。

これは関ヶ原の合戦後、西軍だった上杉家が会津から米沢への四分の一に減封され、その際「リストラ」は一切しなかったこと、それが平成22年のNHK大河ドラマ「天地人」主人公直江兼続によって語られたことは記憶に新しいが、これより過酷な実質四百万石から七十万石へと八割以上の減封であった徳川藩が、家臣の「リストラ」を実施しなかったことを高く評価したい。

徳川藩は武士道経営を貫いたと理解し、このような政策を決定し実行した藩経営に鉄舟が参画していたことを再認識したい。

鉄舟は慶応四年・明治元年に幹事役として海舟と二人で名前を並べ、同年九月には権大参事の藩政補翼となり、徳川から静岡藩となった政治に重要な役割を負う立場に栄進していた。

投稿者 Master : 2011年10月12日 05:41

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