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2009年07月16日
尊皇攘夷・・清河八郎その四
尊皇攘夷・・清河八郎その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
清河八郎が江戸を追われ、全国各地の逃亡先で出会った中に、京都の田中河内介がいた。田中は但馬出石の医師の第二子であったが、京都に遊学している間に、権大納言中山忠能に召し抱えられ、中山家の家臣である田中近江介の家を継ぎ、諸大夫となった。
諸大夫とは、公卿に次ぐ家柄で、朝廷から親王・摂関・大臣家などの家司、つまり、事務を司る職位で、四位・五位の官人である。
ここで権大納言中山忠能(1809-88)に触れなければならない。後日、鉄舟と同じく明治天皇を囲む酒飲み仲間となった人物であり、明治天皇の外祖父である。
祐宮(明治天皇)の生母は忠能の娘中山慶子で、嘉永五年(1852)9月22日に、中山家敷地内に設けられた、浴室と厠のついた二間だけという質素な産所で誕生したが、この産所を建築する際に、借金をしなければならないという貧しい中山家であった。
いまでもこの産所は京都御所を取り巻く御苑の北の端に、板塀で仕切られた屋敷跡があって、その庭の一角に残っている。明治天皇がこのような質素な産所で生れたのは、宮中の慣習によるものであった。出産は建物を穢す、と古くから信じられていたからであり、代々、天皇の御子は宿下がりした生母の家近くで生まれるのが普通であった。
明治五年、鉄舟が明治天皇の侍従番長として宮中に出仕するようになって、明治天皇と鉄舟については多くの逸話が残っている。後日詳しく展開する予定であるが、ここでは中山忠能との関係を、侍従高島鞆之助の語ったものから紹介したい。
「御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語りを御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた」(『明治天皇』ドナルド・キーン著 新潮社)
このように、鉄舟と中山忠能は明治天皇の「御気に入りの侍臣」であり、酒宴の常連メンバーであった。
さて、時は文久元年(1861)に戻るが、当時の中山忠能は、それまで祐宮の外祖父として威勢をふるい、外国との条約勅許にも強硬に反対したが、一転、皇女和宮の降嫁では推進斡旋役に回ったことから、尊攘派からにらまれ、逼塞せざるを得ない状況下にあり、対外的には子息の中山忠愛が動き、ここに清河は目をつけていた。
清河と田中河内介の出会いは、田中と旧知である虎尾の会同志の北有馬太郎から、田中が剛毅な性格で頑固な尊王論を持ち、京都では知られた人物であると聞いていたので訪ねたのである。
清河は誘われるままに、田中の屋敷で一泊し、得意の弁舌で尊皇攘夷・倒幕論を説きながら、噂話であるがという前提つきで「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」と切り出したところ、田中の反応は予想以上に多きいものだった。
「怪しからんことだ。それが本当なら、言うも憚る不逞なことだ。しかし、その噂はどこから出たものか」
「水戸です」
「水戸? なるほど水戸か」
「水戸藩内には、この噂に憤激し、安藤信正老中を刺そうとする動きがあります」
「そうだろう。この噂を聞いて水戸が黙っているはずはない」
「しかし、それがしは安藤老中を討ち果たしても時代は変わらないと思います」
「なぜた?」
「それは今まで二百数十年、天下を仕切ってきた幕府の骨組みは意外にしたたかで、容易には倒れないと考えるべきで、井伊大老が首を斬り取られても、すぐに安藤に代わり、その安藤が井伊を上回る狡知をもって、皇女和宮の降嫁により事態をうやむやに収めようとしている動きを考えれば、他の方策が必要だからです」
「うーん。そうかも知れん。そこで、そこもとに打開策があるのか」
「ございます」
「話されい」
「ご承知の通り、九州は元々勤皇の土地柄です。九州に下り、有志に義挙を説き、同志を募り糾合し、京に上がります」
「そのようなことが、貴殿に出来るか。それに一人では無理だろう」
「その通りです。そこで田中様にお願いに来たのです」
「何か」
「それは、大納言中山忠能卿のご子息中山忠愛卿は英邁な方と伺っています。田中様のお力で一度お会わせいただき、忠愛卿から親書を賜りたいのです。それと田中様は九州の尊攘志士と親しいとお伺いしております。それがしを、かの地の志士達に周旋する書状を書いていただきたいのです」
「親書や周旋状をどういうように使うのか」
「九州に参り、青蓮院宮の密使と偽って呼びかけます」
「青蓮院宮を騙るなぞ、穏やかならぬことだ」
「いや、順序が前後するだけでしよう。京に糾合した同志によって、京都所司代を討ち、青蓮院宮を奪い奉って尊王倒幕義軍の総帥に頂く、というのがそれがしの企てで、その後に諸国の尊皇攘夷の士に呼びかけるなら、天下の草莽の志士達は一斉に宮の下に集まり、倒幕の一大義軍が出来ます」
「うーむ・・・。危険な策だが・・・。もしかしたら出来るかもしれないな。よし、周旋状を書き、中山忠愛卿に会えるようにしよう」
「ありがとうございます。九州の説得は必ずやり遂げて見せます」
ここに現れた青蓮院宮とは、伏見宮邦家親王の第四子で、のちに孝明天皇の養子になり、京都郊外粟田口の青蓮院に住んでいた。朝廷が政治の表面に出るようになって、孝明天皇の諮問に応える形で、条約勅許問題では、最も強硬な反幕姿勢を打ち出し、尊攘派公卿の中心的存在となり、井伊大老ににらまれ、慎みを言い渡され、相国寺内に幽閉される身分となっていたが、諸国の尊攘派志士達からは、ひとつの拠り所とされていた人物であった。
その青蓮院宮の密使と偽るためにも、祐宮の外祖父として権威のある中山忠能の子息忠愛から、親書を書いてもらう必要があったのだ。実際に田中の斡旋で忠愛とも会え、親書を書いてもらうことが出来、田中の周旋状を持ち、勇躍して九州に向ったのであるが、それを可能にしたのは田中を説得できたことであり、説くための切り札は「廃帝」の噂であった。
では、「廃帝」の噂が当時事実として存在したのか。これを検討してみたいが、そのためには、井伊大老の後を継いだ安藤信正老中に触れなければならない。
井伊大老後の政治は安藤・久世広周政権となって、この政権が行ったことは、皇女和宮と第十四代将軍家茂との婚儀を整えることで、いわゆる公武合体政策の推進であったが、この結果は尊攘志士から狙われることになり、文久二年一月の坂下門外の変となった。
だがしかし、かねてから、この事あろうと安藤側では屈強な藩士を警護に当てていたので、襲撃した水戸浪士六人全員斬り伏せられ、安藤の生命に別状なかった。だが、警護の一瞬の隙から駕籠の外から刀で貫かれ、頭部と背部に傷を負った。
その後、この傷は思いのほか日がたつにつれて深くなっていった。まず、第一の傷は非難する声の高まりである。安藤が武士にあるまじき、後ろ傷を負ったということである。駕籠の後ろから刺されたので、後ろ傷を負うのは当然であるが、戦わずして背後から斬られたように聞える非難である。
次の傷は、三月になって全快したので、再登城しようとしたところ、幕府大目付、目付衆がこぞって反対したことであり、これらの雰囲気を感知した安藤は、自ら願い出て老中を辞任してしまった。
なお、これら動きには薩摩藩も同調した。薩摩藩主島津忠義の父久光が一千余の藩兵をひきいて、京都に乗りこみ朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)等の謹慎を解くべきというものから、安藤老中を速やかに辞めさせるようにとも、書き込んであったほどである。
このように述べてくると、安藤の評判はいたって悪いということになりそうだが、実はかなりの有能な人物であったらしい。
そのことを述べているのが福地桜痴である。福地は天保十二年(1841)生れの幕臣、明治になってからはジャーナリストとして活躍し、その著書に幕末政治家(岩波文庫)がある。そこに安藤について次のように書いている。
「英国オールコック公使を説きて、英国が五ヶ年間の開市延期を承諾し、これに対する報酬は、輸入物品中幾分の減額に止まらん事を談判し、その坂下御門の変に、頭部および背部に負傷して病牀にあるを顧みず、創を包み傷みを忍びて英公使を引見し頻りにその尽力を望みたりしかば、英公使も安藤が憂国心の厚きに感じて、しからば自ら英国に請暇帰朝して、事情を詳細に外務大臣に具陳し、日本のために竹内等(筆者注 欧州使節として派遣された竹内下野守)を助け、以てこの談判を都合よく帰着せしむべしと請合い、果してまず英国をして、第一に延期承諾の覚書に調印するに至らしめたり。これ実に安藤が特別の功労あらずや」
と書き、このような外国との交渉成果は、明治時代であるならば、勲一等に叙せられるほどだと高く評価しているし、その他多くの識者も安藤を認めている例は多いから、確かに有能であったのだろう。
この安藤老中が「廃帝」を図っているというのである。では、その出所はどこか。それは坂下門外の変の斬奸趣意書の中に次のように書かれていた。
「このたび皇妹御縁組の儀も、表向きは天朝より下しおかれ候ようにとりつくろい、公武合体の姿を示し候えども、実は奸謀威力をもって強奪し奉り候も同様の筋に御座候ゆえ、この儀必ず皇妹を枢機として、外夷交易御免の勅諚を推して申下し候手段にこれあるべく、その儀かなわざる節は、ひそかに天子の御譲位をかもし候心底にて、すでに和学者どもへ申しつけ、廃帝の古例を調べさせ候始末、実に将軍家を不義に引き入れ、万世の後まで悪逆の御名を流し候よう取計い候所行にて、北条、足利にもまさる逆謀は、われわれども切歯痛憤の至り、申すべき様もこれなく候」(『幕末閣僚伝』徳永真一郎著 PHP文庫)
この斬奸趣意書は坂下門外の変を陰で指導したという、宇都宮の儒者で尊攘家の大橋訥庵が書いたといわれているが、この結果、和学者の塙次郎が暗殺されるという事態となった。塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。
坂下門外の変があった文久二年の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔(博文)と山尾庸三であった。
伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。幕末時の異常・非常混乱事態下とはいえ、暗殺犯が後日、日本のトップリーダーになっているということ、何か割り切れない気持である。
さて、清河は京都で成功した「廃帝」の噂を武器に、勇躍九州へ向い、その結果続々として尊攘志士達が上洛、合わせて薩摩藩島津久光が一千余の藩兵をひきいて乗りこみ、幕末風雲の動きは京都で一段と激しさを増す。次回は清河の九州遊説と薩摩藩の動向をお伝えしたい。
投稿者 Master : 2009年07月16日 05:45