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2009年02月11日

尊王攘夷・・・その一

尊王攘夷・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟に影響を与えた人物に清河八郎がいる。
 
 清河八郎とは、天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業の長男として出生、十八歳で故郷を出て、幕末、尊王攘夷運動の一翼をにない「回天の一番乗り」を目指した人物である。「回天」とは「天下の情勢を変えること」を意味している。鉄舟より六歳上である。

 清河については、明治・大正初期に活躍した山路愛山が次のように評している。

「(八郎)かつて書を同志山岡鉄太郎に与えていわく、予は回天の一番をなさんとするものなりと。その剣客たる風概もって想うべきにあらざるや」と。(山岡鉄舟 小島英煕著 )
また、その清河が、同志山岡鉄太郎に与えたという手紙は、次の内容である。(清河八郎 成沢米三著)

「先程より度々芳意(注:親切に対する尊敬語)を得候通り、最早各邦の義士参会、則ち近日中、義旗相飜えし、回天の一番乗仕るべく心底に御座候。折角御周旋甲士(注:甲州の土橋鉞四郎)に早々御手配成さるべく候、塚田には内々国元に遣わし候もの、頼み遣わし候間、彼も義気あるもの故必らずうけがいくれ申すべく存じられ候。千万御苦心仰奉り候 頓首  
   初夏 十一日                正明
山岡高歩君
   薩の和泉殿(久光)明日当邸に着也

初夏十一日とは文久二年(1862)の四月のことであり、正明とは清河の號(いみな)、宛名の山岡高歩(たかゆき)とは鉄舟の名前で、鉄舟は號であるが、この時清河は大坂の薩摩藩邸に滞留していた。

何故に山形・清川村の酒造業の息子が薩摩藩邸にいたのか、また、鉄舟が何故に清河の同志と呼ばれるようになったのか。さらに、この手紙の最後「薩の和泉殿明日当邸に着也」にあるように、薩摩藩主島津忠義の後見役である、父親の島津久光が京都に入るタイミングに、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを述べたのか。

これらの疑問を解明するためには、当時の政治状況を振り返って見なければならない。

安政の大獄で反対派を弾圧した大老井伊直弼が、万延元年(1860)三月三日桜田門外で暗殺されたあと、政治は一気に混沌化した。井伊大老は、幕府を元来の幕府に戻し、保とうとしたのであるが、暗殺されるという不始末は、目指していた方向が、時代に逆らっており無理だということを、満天下に示すことになってしまった。

この変化は、井伊大老の後の幕府の運営が、老中久世大和守広周と同安藤対馬守信睦になって、朝廷に対する対応が変化したことでわかる。

また、この変化は、幕府の権威が次第に失墜すると共に、尊王攘夷運動が急テンポで展開されてきていたことへの対応でもあった。

つまり、井伊大老の時代は朝廷を統制しようとする意図が強かったが、久世・安藤政権になると朝廷の権威を借りて幕府の権力を強固にするという方向に変わったのである。これは、抑えるというより、利用・協調するという形、これを公武合体というが、幕府側の一歩後退であり、妥協であった。

もうひとつの背景は、当時の尊王攘夷運動というものが、反幕府勢力結集のスローガンとなっていて、幕府がこのスローガンに対抗するためには公武合体が必要だ、という考えからでもあった。

実際問題として、攘夷実行なぞは、安政五年(1858)六月の日米修好通称条約、その後七月に蘭・露・英と、九月には仏と調印済みで、その後年々貿易が盛んとなっている状況下では全く無理である。

という条件を考えれば、とるべき対応策は尊王となる。現実的に考えて、攘夷の実行は不可能であるから無視する。一方、尊王については、反幕府側の主張と同じ立場になることによって、反幕府側が反対できないようにする方策、これが公武合体であり、具体的には皇妹・和宮の降嫁という発想になったのである。

つまり、「かたじけなくも皇妹が将軍の御台所になるならば、これ以上の公武合体はないし、尊王のあらわれはない」という理屈であった。

したがって、幕府は無理押ししても、皇妹・和宮の降嫁を実現しようと動いた。

この幕府の申し出に対し、孝明天皇は反対であった。すでに有栖川宮と婚約が整っており、和宮も「何とぞこの儀は、恐れ入り候えども、幾重にも御断申上度、願いまいらせ候。御上御そばはなれ申し上げ、はるばる参り候こと、まことに心細く、御察しいただきたく、呉々も恐れ入り候えども、よろしく願い入りまいらせ候」(開国と攘夷 小西四郎著)と固く辞退したが、さまざまな朝廷内や幕府の工作が激しく行われ、とうとう孝明天皇は承諾された。

その承諾に当たっての最大の要因は「念願とする攘夷が、和宮の降嫁という公武合体によって実現するかもしれない」という強い希望であり、攘夷が実行されるのならば、どのような犠牲を払ってもと考えたからであった。

この孝明天皇の意思を変えさせた、朝廷内における有力な見解は、天皇の諮問に答えて上書した岩倉具視であった。

「幕府の権威がすでに地に堕ち、昔のような威力がないことは、大老が白昼に暗殺されたことで明らかである。したがって幕府は、国政の大権をあずかる力はない。・・・・だが朝廷の権力の回復を急ぐあまり、武力をもって幕府と争うことは、現在の国情ではかえって国内の争乱をおこし、外国の侵略を招く恐れがある。そこで名を捨て、実を採ることが肝心である。いま幸いに幕府が熱心に和宮の降嫁を請願しているので、公武合体を表面の理由として許可し、今後外交問題はもとより、内政についても大事はかならず奏聞の後、施行するよう幕府に命ぜられたならば、結局幕府が大政委任の名義を有していても、政治の実権は朝廷にあることになる。・・・・まず幕府に条約の破棄を命じ、もし幕府が本当にこれを承るとならば、国家のためと考えられて、降嫁の願いを勅許せらるべきである」(開国と攘夷 小西四郎著)

 理路整然とした意見書であって、孝明天皇はこれによって、大きく気持ちが動いたのである。

実際に幕府は、万延元年(1860)七月に、和宮の降嫁が実現すれば、攘夷を実行するとの誓約を行った。二年前に調印した五カ国との修好通称条約ということを考えれば、全く無責任極まる誓約であり、現実の実態を無視したものであった。

幕府としては本当に攘夷をしようとする気はなかったのであるが、何が何でも皇妹・和宮の降嫁を実現したいという立場から、偽りともいえる誓約であったが行ったのである。

その後、この誓約の実行を、再三再四朝廷から攻め立てられ、とうとう三年後の文久三年(1863)五月十日を攘夷期限と上奏、その旨を諸大名にも通知した。

この機会を待っていた長州は、五月十日に関門海峡を通りかかったアメリカ商船を、二十二日にはフランス軍艦を、二十六日にはオランダ軍艦を砲撃した。しかし、この砲撃結果は六月に入ってアメリカ・フランス両国軍艦による報復を受け、陸戦隊の上陸も許し、大損害を受け、翌年の元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃とつながっていくのである。この経緯については後日に詳しく検討したい。

なお、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が、次のように述べている。(パリのカフェテラスから 高橋邦太郎著)

「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」

さて、このような情勢下にあって、諸藩の動きも大きな変化が生じてきた。それを一言でまとめると「雄藩の中央政界への進出」である。

これまで外様大名は、幕府政治体制の中に組み込まれておらず、藩主が個々に発言することはあったが、政治への参加はなされていなかった。

しかし、この時点になると、藩の力を背景に公然と政治活動を行うようになり、その代表が長州と薩摩であった。このように藩が政治活動を行うことを「国事周旋」といい、具体的には、朝廷と幕府の関係に割り入り、雄藩が発言権を発揮しようする工作が行われてきた。

だが、藩の中も複雑である。藩の中に尊王攘夷運動が高まって、その動きの方向に簡単に進む、と考えたいが、そう単純にはいかないのである。藩主-重臣-上級階層-中級階層-下級階層という封建的身分関係があり、その間に軋轢や微妙な考え方の差があり、それらが統一されていくのはもっともっと先になる。

これらについても後日詳しく検討したいが、今回は清河八郎が、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを、鉄舟への手紙で述べ、そのために島津久光が京都に入るタイミングを待っていたのか、これを検討してみたい。

薩摩藩は藩主島津斉彬が安政五年(1858)七月に亡くなって、斉彬の弟である久光の長男忠義が藩主になり、久光が後見役となって藩政の実権を握った。

久光は薩摩藩の実力を背景に中央政界に乗り出そうとし、大久保利通を重用し、その大久保の請願で西郷隆盛を流罪地から呼び戻した。

薩摩藩の尊王攘夷派の中でもいろいろな考え方があった。まず、久光の意図は、あくまでも幕政を改革し、公武合体を実現することであって、大久保や西郷は久光の意見に従いながら、次第に尊王攘夷勢力と薩摩藩の発言権を強めていこうとしていた。
ところが、尊王攘夷の急進派は、幕府を見限り、挙兵による倒幕に向かうべきという強攻策を主張していた。

この久光が文久二年(1862)三月、藩兵千人を率いて鹿児島を出発した。これまで、このような大兵で、一藩が動き、京都に行くということは考えられず、それも藩主の後見役とはいえ、正式の藩主ではない、無位無官の久光の示威行動が許されたということ、このようなことは井伊直弼が、桜田門外で暗殺される以前ではあり得なかった。まさに時代の変化を示す大事件であった。

その久光の京都入りの目的は、安政の大獄で処分されたままになっている公家や大名の罪を許すこと、松平慶永(春嶽)を大老に(実際は政治総裁職)、一橋慶喜を将軍後見職にすることであり、それを朝廷の承認をとりつけ、勅旨として大原重徳を差し下ししてもらうことであった。

また、久光は鹿児島出発時に「過激な説を唱え、各地の有志者と交わりを結び、容易ならざる企てをする動きがあるようだが、そのようなことは決してならぬ」と藩士に戒めている。つまり、倒幕とは反対の、幕府維持体制の改革を狙った大兵を率いた行動だったのである。

ところが、尊王攘夷の各地急進派志士たちは、この久光の目的を理解していなかった。今こそ、薩摩の軍事力で倒幕の道に行くべき時がきたと、薩摩の急進派をはじめとして、著名な急進派志士が、ぞくぞくと京都・大坂に集結したのである。

真木和泉(久留米水天宮祠官)、筑前藩の平野国臣、長州藩の久坂玄瑞、それと鉄舟に手紙を書き送った庄内出身の清河八郎であり、これら当時の一流志士と認められていた人物たちが、久光の京都入りを首を長くして待っていて、その多くは、大坂の薩摩藩邸に滞在していたのである。

四月十六日、京都に入った久光は、当然ながら急進派志士たちが期待する行動は起さず、その気配もなかった。それもそのはずで、久光は、急進派過激浪士を取り締まろうと考えていたのである。この大きな両者の齟齬から伏見寺田屋事件が発生し、清河八郎の「回天の一番乗り」の夢は絶たれたのである。次号に続く。

投稿者 Master : 2009年02月11日 08:52

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