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2008年07月20日

鉄太郎の結婚その一

鉄太郎の結婚その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が最も敬愛した師山岡静山は、安政二年六月に逝去し、文京区白山下から小石川植物園脇の御殿坂へ行く道筋の蓮華寺に葬られた。
静山の葬儀が終わり、しばらくたった後、蓮華寺の住職が静山の弟である高橋精一(泥舟)を訪れ、妙なことを伝えた。

「実は、困ったことがあります」
「なんでしょう。静山についてですか」
「はぁ、言い難いのですが、静山先生の墓辺りで、毎夜妖怪が現れると言うのです」
「誰がそのように言っているのですか」
「はぁ、近所の方々ですが、見たといって、大変怖がっているのです」
「それで、ご住職は見たのですか・・・」
「いや、その・・・、それがちょっと・・・。怖くて拙僧は、まだ・・・」
「そうですか。では、拙者が今夜でも現場でたしかめてみしょう」

泥舟は内心、そんなバカバカしい妖怪なぞ、出るはずがないと思っている。まして、静山の墓に関わって妖怪が現れるとは。よし、今夜、必ず確かめてやる。と夜半にいたって身支度し、出かけようとしたが、その夜は夜半過ぎから、雷をともなう大雨となった。

しかし、そのようなことでひるむ泥舟ではない。尊敬する兄静山に関わることだ。小石川鷹匠町の屋敷からそれほど遠い距離ではない。大雨の中、蓮華寺に着くと、静山の墓を見通せる墓石の間に、全身ずぶ濡れで身を隠した。

しばらく待っていると、本堂のほうから足跡が聞えてきた。いよいよ来たか妖怪め。と身構え、じわっと近づいていって、あっと驚いた。

何と、その妖怪とは鉄太郎(鉄舟)ではないか。大雨の中、鉄舟が走ってきて、その走る姿を雷の青い光が照らし出す。

鉄舟は泥舟がいることなぞ知るよしもなく、静山の墓に向って手を合わせ、着ていた合羽をすっぽり墓にかぶせた。

「先生。鉄太郎が参りました。もう雷は心配に及びません」

実は、静山は雷が大嫌いだった。天下無双の槍の名人でも苦手があった。

「そうだったのか。妖怪とは鉄さんだったのか・・・」

夜な夜な静山の墓に、鉄舟がお参りしていたのだ。泥舟は鉄舟の兄を思う気持ちに感涙した。

 静山の死は早すぎた。突然の逝去で山岡家は跡継ぎの問題が残った。山岡家には末弟に信吉がいる。当然、順序であるから、この信吉が山岡家を継ぐことになる。

しかし、信吉は言葉が出なかった。生来から口を利けなかったのではない。幼い時蝉取りに行った夏、突如として大風が吹き荒れ、夕立が激しく、それを避けようと閻魔堂に雨宿りをしていたところに、境内の杉の木に雷が落ち、そのとき信吉は気絶し、小石川鷹匠町の屋敷に担ぎ込まれたときは、不幸にも口が利けなくなってしまっていた。両親はじめ、隣家の高橋家も一緒に、医者はもとより加持祈祷師のところを回ったが、とうとう今日まで口を聞けない状態であった。

ところで、この信吉、血筋は争えず、後日、槍をとっては相当の達人になった。

後年、宮内大輔(天皇の補佐役)の杉孫七郎と御前試合をした時、杉孫七郎が押し込まれ「参った。参った」と、連発して叫んでも、信吉は聞えなく、御前試合で興奮していたので、ますます猛烈に突きたてたので、ビックリして鉄舟が槍先をくぐって飛び込み、大事に到らずに済んだことがあると、鉄舟の内弟子である小倉鉄樹が語っている。(参考 「おれの師匠」島津書房)

この信吉を、跡継ぎとして一応届けてあるが、口が聞けないので公の務めが出来ない。したがって、養子を貰って家督相続を決めないと山岡家は廃絶の憂き目となる。

「困ったのう」
「どうしたらよいでしょうか」

山岡家と隣家の高橋家で頭を悩ましているのは、山岡家の家督相続候補者のことである。ここで跡目相続と、家督相続の違いを理解したい。幕法で跡目相続とは主が死後に相続する場合を言い、家督相続は主が存命中に相続する場合を意味した。したがって、信吉は跡目相続となり、信吉に養子を貰うので家督相続となる。

さて、家督相続について困っている最大の理由は、最適の候補者が明らかであるのに、その人物に対して持ちかけられない、というジレンマがあることである。

山岡家と高橋家の誰もが最適と望む人物とは、それは鉄舟である。静山と鉄舟が師弟として交じり合ったのは、一年に満たない僅かだった。だが、静山がその後の鉄舟に対して与えた影響は計り知れない。単なる武術としての槍術だけでなく、人格的な教えを多々受けたが、それも静山が鉄舟という人物を心底から好ましく、自分の弟のように思って接していたからであった。亡き静山に聞くことが出来れば、後継者として鉄舟の名を挙げることは間違いないであろう。

しかし、どうして鉄舟に山岡家相続の件を持出せないのか。その理由を検討する前に、養子として迎え、その人物の伴侶となる十五歳の英子に、静山の弟子の中から、鉄舟以外の人物を何人も挙げ、気持ちを内々確かめてみたが、いずれの人物にも

「私、いやです」

と、驚くほどはっきり言い張る。

これも家督相続候補者について、頭を悩ます一因であった。英子には意中の人物がいるのだった。それは鉄舟であった。

鉄舟が始めて静山に道場で出会い、完膚無き徹底的な敗北を味わい、静山宅で弟子入りを申し出た座敷に、英子がお茶を運んだ時から、すでに好意的に鉄舟を見、受け入れ、その後、事あるごとに静山と泥舟が鉄舟を話題に出し、その人物像を誉めそやしているのを聞いているうちに、次第に特別の感情を持つようになった。多くの弟子の中から、兄二人の評価が抜群であり、日頃、道場で接する機会が多く、その評価振りを確認できる立場であったから、十五歳の萌える気持ちが恋心になったのも自然だと思う。

 では、最適の候補者として誰もが認識し、伴侶となるべき英子も恋心を持っている鉄舟に、何故に山岡家の家督相続を切り出せないのか。

 その最大の理由は「家柄・身分が違う」ということである。鉄舟の小野家は六百石の旗本、山岡家は百俵二人扶持の御家人、武芸の上では鉄舟は静山の弟子ではあるが、当時の封建時代の社会的身分では、遥かに鉄舟の方が上位に所属している。その頃の人々の意識の中には、この身分感覚は強く深く染み渡っていたから、その障害を乗り越えるのは容易でなかった。小野家と山岡家では釣り合いが取れないのである。今の時代に生きている我々ではちょっと考えられない無理な相談というレベルであった。

 もう一つは、鉄舟という人物への配慮であった。
 鉄舟のことは、山岡家と高橋家に関わる人たちは熟知している。鉄舟の人柄を知っている。多分、無理にでも頼むなら、鉄舟は「やむを得ず、承諾するであろう」という見通しもある。それだけに「こちらから申し出ることが出来ない」というジレンマがあった。当時の武家意識というものであろう。

 ここで一つ検討しておきたいことがある。実は、鉄舟は十歳で父の高山代官への赴任に伴い移転し、その後の17歳で江戸に戻ったとされている。とすると、七年間一度も江戸に帰らなかったのか、という疑問がある。

この点について、一部の文献資料では十二、十三歳頃に江戸に剣の修行で一時戻ったとあるが、多くの鉄舟研究家は江戸に戻ったことについて何も論及していない。

江戸に戻ったか、戻らなかったか、どうでもよいではないかと思われるかもしれない。しかし、鉄舟が他家に養子に行くには、当時の常識条件というものがあった。養子に行く為の資格である。武士として持たねばならないある教養、それは「番入」と言われる資格を持っていたかどうかである。

「番入」とは、徳川幕府の学問所である聖堂(昌平坂学問所)、この昌平とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって孔子の諸説、儒学を教える学校の名前にしたのであるが、ここの試験「素読吟味」に合格すると貰える資格であって、この「番入」資格がないと一人前の武士として扱われなかった。また、「素読吟味」に合格しないようでは、他家に養子など決していけなかった。

ということは、鉄舟は山岡家に養子縁組候補者と挙げられていたのであるから、この「番入」資格、「素読吟味」に合格していたことになる。そうすると聖堂で「素読吟味」を受験したことになり、そのためには江戸に戻っていたことになる。

当時の「徳川幕府直参武士の教育制度」についてみてみたい。教育として文と武があったことは知られている。その文事については、普通五歳頃から七歳までに手習いをし、七歳になると「読み書き」を始める。この読み書きは、最初に大学・中庸(儒教の経書)などを家の父兄から教えてもらい、八歳頃になると普通は師匠について正式な学びに入っていく。

 十歳までの間に、四書(大学・中庸・論語・孟子の総称)、五経(易経・詩経・書経・春秋・礼記)などを素読で学び、十一、十二歳の二年間は、これまで習った書物の復習をする。この復習する目的は、徳川幕府の学問所である聖堂で「素読吟味」を受けるためである。十三歳になるといよいよ「素読吟味」を受験することになる。受験するタイミングは毎年十月、十一月と決まっていた。

 「素読吟味」の試験場所は、聖堂の大広間で、正面には林大学頭が、その他に儒者が十人ほど控えていて、その前で一人ずつ素読を行った。試験の日は、朝七つ(午前四時)までに聖堂に集めさせられたから、もう寒くなりかけた十月、十一月であり、いくら武士の子弟とはいえ子供であったから、送る親も、受験する子供も大変だったと思う。

 実際の試験は、大抵半枚くらい読ませて、その出来不出来を儒者が記録し、一ヶ月くらい経つと合格者には「何日の五つ半(午前九時)に聖堂へ出よ」という達しがある。落第したものは、また翌年に願書を提出し受験するが、三度続けて落第すると、もう受験資格を剥奪されてしまう。

 この「素読吟味」は、現在の義務教育みたいなもので、これに合格しておかないと「番入」資格がなく、家督相続は絶対にできないという幕法であった。

 この事について、今までの鉄舟研究家で述べている人がいないが、「徳川幕府直参武士の教育制度」から考察すると、鉄舟はこの「素読吟味」に合格していたはずであり、そのためには十三歳の十月か十一月に江戸に戻っていたはずである。

 余談だが、朝七つ(午前四時)という常識外の時間帯に子供を集めておきながら、実際の試験は五つ半(午前九時)、子供の習性からどういう状態が発生するかというと、必ず喧嘩が始める。その喧嘩も御目見え以上の者と、以下の者の間で始まる。御目見え以上は身分を笠に立て、以下の者を蔑視し、された方は僻み、そこに軋轢が生じることからお互い喧嘩となった。(参考 「風俗江戸物語」岡本綺堂 河出出版)

 鉄舟は英子の情熱によって、山岡家の養子となり結婚した。だが、疑問が残る。関係者が家督相続候補者として鉄舟を最適であると認識していたのに、何故に鉄舟自身はそのことを認識していなかったのか。また、それがどうして可能となったのか。次回検討したい。

投稿者 Master : 2008年07月20日 10:18

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