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2013年06月27日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の六

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が明治天皇へどのように影響を与えたのか。

江藤淳氏が、鉄舟は「明治天皇の扶育係であった」と言い、山内昌之東京大学教授が「統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多い」と述べている。
このように、明治天皇に大きな影響を鉄舟が及ぼしていることは事実と思われるが、それを具体的に検討するためには、明治天皇の何がどう変わったのかについて分析する必要がある。

だが、この分析に入る前に、まず、人は、どのような時、どのような場面で、自らがもつ思想・考え方を変えるのかという事例をいくつかひろってみたい。

最初は、熱烈な攘夷論者であった井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)が、開国論者へ変化した事例である。

文久三年(1863)長州藩は吉田松陰の意志を継ぐべく、藩士五名をロンドンへ派遣した。
この当時の攘夷論者は、まず、国家を外敵の侵略から守ることに目的をおいていた。これを後に国策となった富国強兵に例えれば「強兵」に重点をおいたわけで、その方法として勤倹尚武を説き、精神的・肉体的鍛錬によって、外国の侵略から日本を守ることが出来る、と考えていた。

ところが、ロンドンに向かう途次、まずは上海に着いて実態を目の当たりにしてみると、井上聞多は早くも開国論者に変わったのである。その井上を薄志だとこき下ろした伊藤俊輔は、ロンドンに着いた途端、開国論者に変化した。

二人を驚かせ、変化させたのは、西洋においては軍事面の発達より、経済面の成長充実であった。この時点で二人は「強兵」富国論者から、「富国」強兵論者に変わったのである。 そのことを井上は「世外侯事歴維新財政談」の中で、次のように回顧している。

「実業を盛んにせにゃならぬという考は、何からと云うと、倫敦の有様を見ても、いろいろな事を聞いても、商工業の発達というものが著しく目に見えている。読んだよりは事実を見て感じがつよくなった。農工商の発達を十分図らぬ以上は、富国強兵・・・強兵は出来るかも知れぬけれども、富国はいくら士族が勇気があって、身命を賭してやったからと云って、食わず飲まずでは行けるもんじゃないと云うのだ。つまり実際から覚えた」

井上、伊藤は外国の実態を見て、富国強兵の背後に経済発展があることを理解し、今までの考え方を急転させたのである。

さらに、翌元治元年(1864)八月の、英仏蘭米四国艦隊下関砲撃の情報をロンドンで入手すると、二人は藩主を説得しないといけないと考え、急遽六月に帰国、藩庁に出頭し、海外の情勢を説き、攘夷が無謀なことと、開国の必要性を訴えた。

しかし、結果として、二人の主張は相手にされず戦争となり、馬関(下関)と彦島の砲台を徹底的に砲撃され、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊し、大砲は勝利捕獲物として持ち去られた。

現在、この大砲の一門はフランスから、下関市立長府博物館に里帰りしている。これは本来戦争勝利記念物であるから、フランス政府は返還しないのが決まりであるところ、直木賞作家の古川薫氏が、昭和五八年(1983)当時の安倍晋太郎外務大臣に働きかけ、長府毛利家に伝わる紫(むらさき)糸(いと)威(おどし)鎧(よろい)をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保十五年(1844)製の長州砲一門を昭和五九年(1984)に戻してもらったのである。

しかし、もう二門が、パリ・セーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)に保管されている。
一門は入口入ったすぐのところに展示されていて、百四十八年過ぎても、世界観なき長州藩攘夷思想が引き起こした事件の傷跡として、世界中の観光客が訪れるパリで格好の見せ物になっている。

しかし、もう一門の方が、長らく所在場所が不明だったので、筆者がアンヴァリットの学芸員と館内を半日かけて探し、軍関係の管理地におかれていることを確認した。
この経緯は二〇〇九年七月号でお伝えしたが、これが「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」であって、弾の重さが十八封度礮(約8.2キログラム)、葛飾別墅、現在の東京都江東区南砂二丁目付近に存在した、当時の長門萩藩(長州藩)松平大膳大夫(毛利家)の屋敷で、佐久間象山の指導のもと、屋敷内で大砲の鋳造を行ったものであることが判明したのである。

ここで大砲製造が佐久間象山であることに注目したい。大砲が製造されたのが嘉永七歳次甲寅(1854)であって、この当時の象山は鎖国攘夷思想であったが、十年後の元治元年(1864)に京都三条木屋町の居宅で暗殺された際には、完全な開国論者に変化していた。

象山は信濃国松代藩士で漢学者・朱子学者として早くから著名で、天保十年(1839)当時は神田お玉ヶ池で象山書院を開いていた。弟子には吉田松陰、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内など、幕末・維新に多大な影響を与える精鋭が数多くいた。

象山の思想が天保十一年(1840)頃前後から大きく揺れ動きだしたのは、天保八年(1837)のアメリカ船モリソン号打払事件で、マカオで保護されていた日本人漂流民七人が乗っており、非武装船なのに打払令を実行したことへの疑問に加えて、アヘン戦争の勃発と清国の敗戦であり、国防を図るために西洋砲術を学ぼうと江川英龍門下に入り、海防意見を藩主に建議している。

その建議内容は、このままの攘夷では打払しても必敗する。必敗を必勝にするためには、オランダから戦艦を購入し、水軍軍事訓練強化を図り、その模範事例としてロシアの初代皇帝ピョートル大帝(1682-1725)がオランダから技術導入し、それによって強大国家建設成功の事例を挙げている。

この海防意見は、真田藩主真田幸貫が老中海防掛を退いたことで頓挫したが、返って海外事情を積極的に掌握しようと、オランダ語を二カ月でマスターし原書から学びつつ、理解したのは専門の朱子学と蘭学が矛盾しないということであった。

つまり、東洋の道徳は維持しつつ、西洋の科学を学びとって、国防を強化するという方法に矛盾はない、という考えに至ったちょうどその時に、幕府が漂流民中浜万次郎(ジョン万次郎)を御普請役に引き立てたことを知り、ならば弟子の吉田松陰を外国へと考えたわけで、この時点で象山は「鎖国攘夷」から、外国から科学技術を導入するが鎖国は維持するという「和親攘夷」に転換したのである。

この経緯を証明する川上貞雄氏所有の象山書翰について2011年11号でお伝えしたが、その後に続いた外国との関係、それは嘉永6年(1853)ペリー来航、安政元年(1854)ペリー再来航、安政3年(1856)ハリス下田着任、安政5年(1858)日米修好通商条約調印、万延元年(1860)勝海舟訪米等で、西欧諸国との通商が既定事実化したことの情勢変化を認識し、象山は再び理論と政策再構築に取り掛かり、ついに「和親攘夷」から「和親開国」へと思想転換したのである。

象山という思想家の思索の跡を探ると、あるときは鎖国を主張し、あるときは和親に転じ、あるときは開国に転じ、情勢の急激な展開にともなって、さまざまな変化を示しているが、バックボーンとしての朱子学は貫いている。

ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられると判じている」と述べているが、象山の思想変化は明治天皇にも関与しているのである。

以上のように、人が変化する場合は、井上聞多と伊藤俊輔のように、実際に現地現場を体験することで、今までの主義主張を急変化させた事例、佐久間象山のように自らの専門領域に情勢・時流変化を取り入れることで、徐々に時間をかけて思想変化をとげていくという事例が見られる。

では、明治天皇はどのようなスタイルで思想変化をしたのであろうか。

それへの回答は「明治天皇には最初から最後まで思想変化はなかった」ということであろうと思っている。

天皇としての進化と、年齢とともに深められた思考力について変化はあったであろうが、井上や伊藤、そして象山のような思想的変化は必要なく、天皇として必須要件のもの、それは変化というものでない別次元となるが、そこに鉄舟が大きな影響を与えたと推測する。

しかし、ここは大事なポイントであるから、鉄舟が侍従として天皇にお仕えした時の精神・心理状態がどのような状況であったか、これを検討してから再度取り上げたい。

鉄舟が明治天皇の侍従であったのは、明治五年(1872)六月十五日から、明治十五年(1882)六月二十五日までの満十年間で、天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時であった。

では、侍従に就任した時の鉄舟は、どのような精神・心理状態であったのか。

それを検討するためには、文久三年四月の清河八郎暗殺事件にまで遡ることが必要で、事件後、責任を追及され、幕府当局によって御役御免の上蟄居処分という状態に陥った。
蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」処置であり、木刀・竹刀を構え庭で素振りは許されず、一室にて座って過ごす生活しか認めない処置である。

したがって、座っている目の前には書見台があるだけで、書見台が自分の稽古相手であって、台上には上古時代からの刀剣の歴史、江戸時代以前の古流剣法から続く諸流派教本、甲陽軍鑑などの軍学書、孫子兵法等の兵書、佐藤一斎の言志四録などの学識書、王羲之の十七帖等の書法帖など、明るいうちは書見台に向かい、暗くなると坐禅に入る生活続けることになった。

だが、世間と切り離された日々を送ってみると、改めて気づくことがあった。それは今までに無き経験であるが、自分自身の内部により深く入っていくという感覚である。

これまでの人生でも、思考することになるべく時間を取ってきたつもりだったが、中心には常に剣をおいていたため、その修行の合間に「思考時間」を取り入れたものであった。

しかし、今は違う。静思することしかできない環境下になってみてわかったのだが、改めて自分とは何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのだろうか、つまり、自分探しの旅をしているような気がしてならず、これまでとは違う感覚に浸ることができるようになってきた。

蟄居処分が宥免されたのは文久三年十二月末で、二十八歳になっていた。「ありがたい。これで外出ができる」と自由になった喜びを叫ぶと同時に、八ヶ月間の謹慎によって自らの奥底を見つめた鉄舟は「やはり自分には剣だ」と、今後の生き方の中心を改めて定め、その第一歩を踏み出すべく立ち合ったのが浅利又七郎義明であり、結果は見事な完敗、その後もどうしても浅利に勝てない。

浅利を実際に見た人の話によると、晩年であったが、すらりとした痩躯で、巨躯とか、エネルギッシュというような感じは少しもなかったという。

浅利道場での稽古、浅利が木刀を下段に構え、ジリジリと攻めてくる。鉄舟は正眼に構え、浅利の剣尖を抑え押し返そうとするが、少しも応ぜず、盤石の構えで、まるで面前に人無きがごとく、ヒタヒタと押してくる。

既に、浅利道場で鉄舟に敵う者は浅利以外にはいない。そのたった一人の敵手、浅利に、鉄舟の豪気をもってしても、どうしても勝てない。

浅利の下段の構えを崩せず、一歩退き、二歩下がり、ついに羽目板まで追い込まれてしまう。
そこで、再び、立ち合いを所望、元の位置まで戻って木刀を構えるが、またもや同じことで、たちまち追い詰められてしまう。完全に気合負けである。

このようなことを四五回繰り返したあげく、ついに溜まりの畳の上に追い出され、仕切り戸の外まで追いやられ、ピシャリと杉戸を閉めて、浅利は奥へ入ってしまうこともある。手も足も出ないとはこのことである。

昼の浅利道場での稽古を終え、日課としている夜の自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま浅利がのしかかってくる。圧迫され、心が乱れどうしょうもない。そのことを明治十三年(1880)に記した「剣法と禅理」で次のように語っている。

「是より後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸を凝(こら)し、想ひ浅利に対するの念に至れば、彼れ忽ち(たちま)余が剣の前に現はれ、恰も(あたか)山に対するが如し。真に当るべからざるものとす」

この大きな山を越え打ち破るためにはどうしたらよいのか。日夜真剣に考え続けてみた結果は「心の修行で立ち合うしかないだろう」ということに気づいたのである。

そこで今までの心を鍛える禅修行を思い起こしてみると、剣に比べ、追究が甘く未だしだったことを、深く自省したのである。

剣の修行は九歳から始めたが、禅修行はそれより遅かった。また、鉄舟の禅修行は何人かの師匠についている。

安政二年(1855)二十歳の時から慶応二年(1866)頃までの約十年間は、芝村(現・川口市)長徳寺の願翁和尚に師事した。

しかし、同和尚が鎌倉・建長寺、続いて慶応三年(1867)に京都・南禅寺の住職として転じたため、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治二年(1869)頃に京都・天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことから、同和尚に一時師事した。

宮内庁に出仕するようになった明治五年からの三年間は、三島の龍択寺星定和尚に師事し、その後、明治十一年(1878)頃から大悟する明治十三年までは、再び滴水和尚に師事したが、この他に相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚にも教えを受けてきたが、当時の鉄舟は「昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す」(剣法と禅理)という状況であった。

つまり、剣で浅利又七郎に勝つため、心の修行である禅に没入していたタイミングに侍従となったわけである。

禅修行も激しいものであったが、その結果は、必ずや明治天皇に影響していくはず。
次号以下でそれらについてふれたい。


投稿者 Master : 2013年06月27日 09:12

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