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2010年04月19日

清河暗殺その三

山岡鉄舟研究 清河暗殺その三
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
文久三年(1863)三月、上洛した将軍家茂は朝廷から攘夷をいつ実行するのかという、攘夷期限を明示するように執拗に厳しく責めたてられた。

朝廷が督促する攘夷という内容は、通商条約を破棄し、在留の外国商人を追い返し、貿易を中止し、それをいつ外国側に通告し、実現させるのか、というもので実態的には無理難題で、現実味がないものであったが、これが勅意であった。

とうとう四月二十日になって、将軍は攘夷期日を五月十日と答え、その旨を諸大名に通知して、ようやく将軍は江戸に六月に戻ることができた。

清河が実質リーダーである浪士組は、将軍が攘夷期日を定める前に、関白鷹司輔(すけ)煕(ひろ)から攘夷の達文が下されており、それを旗印として江戸に戻り、攘夷の一番乗りを果たそうと「横浜焼き討ち」を計画していた。その決行予定日は四月十五日であった。

しかし、決行二日前の十三日に清河は暗殺された。幕府は事前に清河の計画をつかんで、綿密な仕掛けで斬ったのである。

では、「横浜焼き討ち」が四月十五日であることを、どのようにして幕府はつかんでいたのか。

それは、「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』編者三田村鳶魚 中央公論社)にあるように「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されているように、窪田冶部右衛門による密告だ、と推測するのが妥当であろう。

 では、ここで疑問が生じるのは、清河が浪士組一同に「横浜焼き討ち」決行日を明示していたかということである。

「横浜焼き討ち」は清河にとっては義挙、幕府にとっては暴挙で、正面切って宣戦布告して行う戦いではなく、相手の隙をつく仕掛けをもって急襲するものである。また、攘夷派の攻撃に対して幕府は横浜を警戒態勢下にしているのだから、攻撃日を浪士組員に伝えることは決行間際のタイミングにするか、目的を明示しないまま行進していく途上で命令する等、細心の注意をもって秘密裏に計画する。だから、事前に決行日を知っていたのは、清河が心を許した僅かな人数に過ぎないであろう。

 このように考えてくると、確かに窪田冶部右衛門は浪士組の頭の一人ではあるが、清河の腹心ではなく、決行日を把握していなかったと考えるのが妥当である。

 そこで、窪田冶部右衛門はどうやって決行日情報を入手したかが問題である。そのヒントとして、ここに神奈川奉行所組頭である窪田の息子、泉太郎が登場する。

 攻撃する側の清河の思考回路を想定すれば、焼き討ちするには、当たり前であるが、そこの地理状態を知らねばならぬわけで、そのためには横浜を事前に視察調査する必要があるが、簡単に旅するような感覚で横浜に行けたのであろうか。それは無理であった。

横浜は、もともと東海道神奈川宿から南にはずれた一漁村であったところで、幕府は神奈川開港の際、街道の要衝地を開くことを嫌って、ここに外国施設を集中させたという経緯があったので、結果として、長崎の出島のごとき対応を図っていた。

ということは、横浜に通じる道筋に関門という番所、安政六年(1859)から翌年にかけて子安・台町・芝生・石崎・暗闇坂・吉田橋の6か所と宮ノ河岸渡船場に設けられ、さらに、掘割りによって居留地が分離されると、西の橋、前田橋、谷戸橋の3か所にも設置され、役人が通行人や荷物の改めを行っていたので、簡単に横浜を事前視察することはできなかった。

そこで、清河は窪田冶部右衛門の息子・神奈川奉行所組頭である泉太郎に目を付けたのである。また、泉太郎は組頭であって、奉行の次に位する重要な役職であるから、ここから紹介受ければ横浜視察はできるだろう。

早速に清河は、得意とする策略、それは冶部右衛門を通じて「視察する正当性ある」ものであるが、その策をもって泉太郎への紹介状を書かせることに成功し、これを持参し鉄舟と斎藤熊三郎(清河の弟)、西恭介の四人で横浜に出かけたのである。四月十日のことであった。

この横浜視察では、鉄舟がひとつの事件を起こしている。そのことが中村維隆(草野剛三)自伝に次のように書かれている。

「窪田泉太郎は外国人との親交があったので、そのにおいが身についていた。室内の装飾はもちろん、御馳走として出たバターや洋菓子類がそうであった。鉄舟はそれを見ると『けがらわしい、こんなものが食えるか』と、出されたものを引ったくり、床の上に叩きつけると、翌日は早々に江戸へ引き上げた」(『維新暗殺秘録』平尾道雄 新人物往来社)

これを述べた草野剛三は横浜に同行していなかったので、状況を割り引いて考えなければならないが、鉄舟がこのような行動をとったと伝えられている。

この鉄舟の振る舞い、今までの鉄舟とはずいぶん異なる奇異な感じを受ける。鉄舟は物事をじっくり考え、人前で乱暴をするような性格ではない。だが、横浜での行動は大人げなく、芝居がかっているように感じる。わざとらしさが窺え、敢えて無理した所業に思えるのである。

これは大事なポイントである。普段の鉄舟ではない。何かある。多分、それは鉄舟が何らかを伝えるための芝居ではなかったのではないか。

横浜に来た我々清河一行は、外国人が嫌いで、外国人が滞留しているところに見学に来るような人種でない、つまり、頑強な攘夷派であるということを明らかにするサイン表示ではなかったか。そう考える背景根拠は、鉄舟が根っからの幕臣であることである。

ここで改めて清河の行動目的内容を確認したい。清河は「横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。

この中の神奈川本営(奉行所)襲撃は何を意味するか。それは倒幕の蜂起軍となることにつながり、勤王の義軍を起こすということは、幕府と対峙することに直結する。

つまり、清河の本心は「攘夷」でなく「倒幕挙兵」にあることを、この頃に至ってようやく鉄舟は見抜き、そうであったからこそ愚にもつかない所業を行って、神奈川奉行所組頭・泉太郎にシグナルを送ったのではないかと推察する。

本来、鉄舟には幕府を裏切る気持ちは毛頭ない。元々攘夷とは当時の殆どの日本人が同様の気持ちを持っていたわけで、将軍家茂が朝廷に攘夷を約するために上洛した時でもあり、攘夷が時の大勢であったから、清河と親しくし、清河を保護し助け、清河の仲間となって今日まで歩んできたが、倒幕となると事は異なる。三河譜代小野家六百石旗本の血筋が蘇ってくる。

この幕臣に戻ったことは京都でもあった。清河が京に着いた夜、浪士組全員を新徳寺に集め、朝廷に上書を奉じ、勅諚を賜った一連の経緯の際、そのことを清河から知らされた鉄舟は、悩みながらも浪士取扱いの鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたことがあった。その時と同じ幕臣の気持ちを再び蘇らせたである。

鉄舟が倒幕に与しないことについて、藤沢周平が「回天の門」(文春文庫)で、鉄舟と清河の会話を通じて次のように述べている。

「やはり、横浜焼き討ちは攘夷でなく倒幕挙兵なのですな?」
「そう、倒幕だ」
八郎は言いきった。並んで歩いている山岡の顔を見たが、暗くて山岡の表情は見えなかった。ただ重苦しい溜息を洩らすのが聞こえた。
しばらく無言で歩いてから、山岡が言った。
「だとすると、おれは今度のくわだてには加われません」
「むろんだ」
八郎はいつかのように、幕府と手を切れとは言わなかった。いたわるような口調で、しかし明快に言った。
「君と松岡は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい」

藤沢周平も述べているように、鉄舟は横浜行きの前に、清河の倒幕挙兵に賛せず、行動を共にしないという決意をしていた。

さて、結果として清河は「横浜焼き討ち」決行計画二日前に暗殺されたが、幕府による暗殺隊に中に窪田泉太郎がいたことは重要である。神奈川奉行所の組頭が何故に参加していたか。この背景を解明することが、清河が斬られるまでのストーリーに関わってくる。だが、その解き明かしの前に清河が斬られた場面を述べたい。

清河については、多くの人たちが暗殺場面を取り上げているが、いろいろ読み比べてみた結果、やはり、司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)でお伝えしたい。

その日、清河は朝から頭痛を病んだ。文久三年四月十三日である。

ここ数日来、山岡家とは一つ家同然の隣家高橋泥舟の屋敷に寝泊りしていたが、泥舟の妻女が、
「風邪でしょう。きょうは外出はおやめなさいしまし」
と心配してくれたが、

「いや、まずい日に約束してある。先方が折角酒を買って待っているそうですから」
そう言い残して出かけた。行先は、麻布上之山藩邸のお長屋である。かつて清河とは安積良斎の塾で同学だった金子与三郎という儒官をたずねるためであった。

金子のほうではこの日、清河が訪ねてくることは数日前から連絡を受けており、酒を置いて待っていた。
約束の刻限からすこし遅れて清河がやってきた。

用件はわかっている。攘夷連名名簿に血判署名することである。すでに清河はその懐中の帳簿に五百人の署名をあつめており、日を期して挙兵し、まず横浜の外交施設を襲撃することになっていた。むろんその挙兵と同時にこの軍団は王権復興の倒幕軍に早変わりするのである。

「古い学友だ。いまさら蝶々(ちょうちょう)せずとも私の気持はわかってくれるだろう」
「わかっている。加えていただく」

金子は快く署名血判し、あとは妻女に酒を出させ、徳利をさしのべた。その徳利の口が猪口にあたってカチカチ鳴ったことに清河は気づかない。

そのころ、藩邸の裏門あたりをしきりと往き来している数人の武士がある。

裏門からの道は一筋に赤羽橋まで伸び、橋のたもとによしず張りの茶店があり、そこでも数人の武士が、茶を飲んで屯している。いずれも二、三百石取りの直参の風体であった。

そのなかで首領株の佐々木唯三郎だけが、陣笠をかぶっている。あとは講武所教授方速見又四朗、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。

四ッすぎ、清河は藩邸を辞した。

清河も佐々木同様、檜に黒羅紗をはった陣笠をかぶっている。

したたか酔っていたが、たしかな足どりでしかしやや歩みを落して麻布一ノ橋をわたり切ると、不意に横あいから、
「清河先生」
と佐々木唯三郎が声をかけた。
「ふむ?」
「佐々木です」

と、ここからが唯三郎が工夫しぬいた兵略だった。すぐ会釈をするふりをして陣笠をとった。
清河もやむをえない。右手に鉄扇をにぎったまま陣笠のひもに指をかけた。

とたん、背後にまわっていた速見又四朗が抜き打ちをあびせた。ほとんど横なぐりといってよく、清河は左肩の骨を割られて前のめり、一歩踏みだしてつかに手をかけようとしたが、右手首に通した鉄扇のひもが妨げて抜けない。

「清河、みたか」
致命傷は、佐々木の正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。

土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。

これが司馬遼太郎の描いた清河の暗殺場面である。さすがに描写が真に迫り、斬られた場景を想起させるに十分であるが、ひとつだけ疑問が残る。

それは、清河はかつて佐々木唯三郎と講武所で手合せしたことがあり、その時は佐々木が、清河によって目がくらみ立ち上がれないほど打ちのめされたことがあった。

それほどの清河が、佐々木の工夫しぬいた兵略であったとしても、あまりにあっけない斬られ方、そこに何か感じるのである。

それと、どうして清河は幕府から狙われていることを分かっていたのに、何故に一人で麻布上之山藩へ金子与三郎を訪れたのだろうか。それまでは必ず数人が護衛として常に同行していたのに・・・。

これら疑問の背景には、思わぬ清河の心情変化覚悟があった。次号で述べたい。

投稿者 Master : 2010年04月19日 10:04

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