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2011年06月07日

彰義隊・・・その四

彰義隊・・・その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

江戸城無血開城後、鉄舟と海舟の信頼関係は一段と深まった。
それを証明するのが、慶喜亡命計画である。いざという場合、慶喜の生命と名誉を守るため、イギリスに亡命させようとする海舟の腹積もり、それを鉄舟にだけ明かしていた。

慶応四年(一八六八年)三月二十七日の「海舟日記」、「此日、英公使パークス氏幷(ならびに)海軍惣督キップル氏を訪ふ。此程之趣意を内話す。英人、大に感ず」とあるように、英国公使と会談し、この会談の内容について「解難禄三五」(勝海舟全集1 講談社)で「密事を談じ、此艦をして一カ月滞船なさしむるを約す」と付記している。

 この「此艦」とは、当時横浜に入港中であった英国軍艦アイアン・デュークのことであり、パークスが同艦を一カ月停泊させる密約を、海舟が鉄舟に次のように語っている。

「実はいよいよとなると浜御殿の裏にバッテーラ(バッテーラとはポルトガル語で小舟を意味する)を備えて、慶喜公を乗せて英吉利の軍艦にお乗せ申すという計画がある」(海舟余波 江藤淳)

 ここでいう「いよいよとなると」というタイミングとは、何事かが突如官軍側に起こって、西郷との間で取り決めた慶喜の処置、それは水戸への退隠であり、命の保証であるが、それらが叶わぬ事態が発生した場合という意味であって、この重要な「密事」を鉄舟にだけ打ち開けていること、そこに海舟の鉄舟に対する人物評価が顕れている。鉄舟の主君慶喜への忠誠心を本物と的確に認識していたからである。

 さらに、もうひとつ指摘できるのは、当時の鉄舟がおかれた政治的立場の変化である。江戸城無血開城という偉業を成し遂げたことで、回りからの眼が違ってきた状況を「おれの師匠 小倉鉄樹」は次のように述べている。

 「此頃は師匠は勝さんと全く同格に政治向の事にも関与するやうになった。五月二十日伊豆守御渡=『勝安房守・織田和泉守・山岡鐵太郎・岩田織部正』右幹事被仰付、御政治向へ関係いたし候・・・・」(慶応四年五月二十二日江湖新聞)

 加えて「大抵の仕事は勝と相談し、又勝からも相談を受けて、勝にやらせた。勝は、師匠が幕府の大難を美事に片付けて以来、心から師匠を信頼し、大小となく師匠に相談し、師匠も亦勝の才略を知っていろいろ献策する所が尠(すくな)*くなかった。だから勝の仕事の大半は山岡の方寸から出たもので、それが勝の才気に依(よ)*って完成されたのである」

 この内容、少々鉄舟贔屓に偏っていると思われるが、いずれにしても政治的立場への重しが深まっていたことは事実である。

 彰義隊の結成は、慶喜への忠誠心から、二月十二日に慶喜が寛永寺・大慈院に謹慎したことがきっかけとなって、一橋家の家臣である渋沢成一郎、天野八郎等十七人が、雑司ケ谷の茗荷屋に会したことから始まった。(『徳川慶喜公伝』四 平凡社)

 この集りの最初は「尊王恭順有志会」と名乗ったように、尊王と恭順がイデオロギーであるから、慶喜が寛永寺に籠った目的と同じである。ところが「身命を抛(なげう)ち、君家の窘辱(きんじょく)を雪(そそ)ぎ・・・・」(『徳川慶喜公伝』四)とあるように、慶喜が謹慎という行動で目的を遂げようとするのに対し、それとは全く反対の動きであって、言葉の独り歩きのような感じであるが、その後も会合を重ね、二月二十三日に浅草本願寺に屯所を定め、この時に「彰義隊」と名乗った。

「彰義隊」とは「義」を「彰(あらわ)す」という意味で、頭取には渋沢成一郎、副頭取は天野八郎が就いた。なお、彰義隊については、慶喜の「将棋廻り」という説もある。

 「『彰義隊』の文字は以前は慶喜公の御将棋廻りで、夫(そ)から後に義を彰すと云ふ事にあった。旧(ふるく)は御将棋廻りの者であると云ひました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)

 この将棋廻りとは、武将が陣中で腰を掛ける床几(しょうぎ)の回りのことで、将軍の周囲を固める者、転じて親衛隊とでもいった意味ではないかと思われるが、後に捕らえられた天野八郎は、獄中で綴った遺書「斃休録」の末尾で、わが身を将棋の香車の駒になぞらえてこんな感慨を書き残している。

 「予、昔年(せきねん)より槍印其の外、物の印に『香車』を用ゆ。これ一歩も横へ行き、跡(後)へ引くの道なきを表するの証なり。東台(上野山)に一敗すと雖も、職業(使命)を尽くして他に譲らず。府下に潜伏して今日に至る。決して『香車』に恥ぢず。天地何をか恐れん。盤石動かすべし。我が赤心転(まろ)*ばすべからず」自分はただまっすぐ進むしか能のない将棋の駒だというのである。(『幕末気分』 野口武彦)
 
 さて、この時の官軍・新政府軍は、その権力基盤が確立できるかどうか、それが最大の課題であったが、現実には厳しい状況下にあり、大きく見て三つの不安要因を抱えていた。

 一つは、軍艦の引き渡しに応ぜず、江戸湾に居座って、睨みを利かせている榎本武揚が率いる幕府艦隊の存在。二つ目は会津中心に結束された奥羽列藩同盟の動き。三つ目が江戸の治安であった。

特に、江戸市中の治安は、江戸無血開城によって幕府の威信は失われ、町奉行所の取締りパワーも減じ、治安は乱れに乱れていた。辻斬りが横行し、夜間の通行は危険で出歩く者はなく、町々は無法状態化し、集団を組んだ盗賊が豪商を襲い、金品強奪、家人を殺傷する事件が続発していた。

 このような状況下で結成された彰義隊は、その活動の内容を「同盟哀訴申合書」書き、趣旨は「同盟決起、公(慶喜)の冤罪を条(じょう)陳(ちん)し、闕下(けつか)(天皇)に哀訴せんとする」ものを幕府側に提出した。 最初は、この「同盟哀訴申合書」を幕府側は却下したが、彰義隊に加入するものが多くなり、松平確堂の意向で隊名を公認することにし、府下の巡邏と治安維持を命じた。屯所が上野寛永寺に移されたのはこの時である。

 隊員は喜び、早速に丸提灯に朱の色で「彰」あるいは「義」の一字を筆太で書き入れ、それを持って数名ずつ上野の山から江戸市中を巡察するようになった。

その結果、犯罪は激減し、安心を得た市民たちは、感謝の念を表すために、彰義隊屯所を訪れ、金品を差し出す等が増え、彰義隊と市民の間は良好な関係となっていった。

 これを見つめていた新政府は、幕府側に治安維持の命を発したのである。そのことを海舟日記の閏四月二日に次のように記している。

「江戸鎮撫万端の儀委任候間、精勤あるべく大総督宮御沙汰候事」
 新政府は明らかに宥和策を採ってきたのであるが、そのタイミングを捉えて、またもや政治家海舟が動いた。閏四月五日、慶喜江戸復帰という大胆な策を願い出たのである。
 
ここで閏四月について説明しないと、これからの日付展開が混乱してくる。ご存じのように江戸時代は太陰太陽暦であるから十二カ月は三百五十四日で、太陽暦より一年で十一日ほど短い。このずれは十一日×三年=三十三日となるから、三年に一度、一年のどこかに一カ月を挿入して十三カ月としないと、季節とずれが生じてしまう。そこでこの挿入された月を閏月ということになる。慶応四年はその年に当たり、四月と閏四月の二つの四月が発生しているのである。

 従って、四月十一日に江戸城明け渡しが行われ、この日の暁に慶喜は上野寛永寺から水戸へと下ったのであるから、この閏四月には江戸にいなかったのである。

 さて、海舟は閏四月五日江戸城西の丸に上り、慶喜江戸復帰を求めた。理由は明快であって、次のように提言した。

 「此上府下の静謐(せいひつ)・生霊の安寧を謀らせ給はんことは、臣等が力の及ぶ所にあらず、慶喜恭順の至誠能く士民を感化せしむるものなれば、願わくは慶喜に退隠を命じて之を府内に還住せしめられなば、府下の衆庶は必ず其謹恪恭順に薫陶せられて、令せずして安靖(あんせい)ならん」加えて「此議聴かれざれば、皇国の首府を始めとして、人心の動揺は止む時なかるべし」(『徳川慶喜公伝』四)と切言したのである。

 つまり、慶喜が江戸から追放されたため、治安が悪化し、今の幕府体制では手に負えない、という一種の強迫を行ったのである。

 江戸城西の丸で対応したのは、大総督府参謀の海江田武次であり、海江田は即答をうながす海舟に対し、京都にお伺いしないと回答は出来ないと保留した。

 だが、翌閏四月六日にいたって、大総督府は金十五万両を旧幕臣に分配するよう指示がなされた。このことは、新政府側がいかに江戸の治安に困惑しているかという証明であった。

ところで彰義隊は、四月十一日に慶喜が水戸に去ると、屯所を置くべき場所の見解相違、上野は要害の地でないという持論を持つ渋沢成一郎が離隊し、武蔵飯能に向かい振武隊を組織したので、頭取は本多邦之輔になった。

この際に、彰義隊は編成を新たにし、一組を二十五人、組ごとに組頭、副長、伍長を置き、二組を連ねて頭取一名を置いた。このようにして本隊は約五百人、附属隊を合わせると総勢千五百余人に達した。(『徳川慶喜公伝』四)

 この附属隊というのは、諸藩からの脱藩者や加入者がそれぞれ勝手に参加した部隊であったが、その概要を「幕末気分」で以下のように書き述べている。

 「たとえば『純忠隊』は、何とあの竹中丹後守(重固(しげかた))が変名で隊長になっている。竹中は、鳥羽伏見での敗戦責任を問われて登城禁止の処分を受けていたが、汚名返上を図ったのであろう。もっともこの不運な人物は知行所が美濃にあって、いちはやく官軍に接収されていた。帰ろうにも帰る場所がなく、仕方なく腹を括ったという面もある。『遊撃隊』は、幕府講武所の剣士隊で、やはり鳥羽伏見の雪辱戦のつもり。『万字隊』は関宿藩脱藩者、つまり佐幕派の一隊。何と藩主の久世広文までが加わっていた。藩は勤皇派に乗っ取られたのである。『水心隊』も結城藩で同様の事情。『神木隊』は高田藩榊原家の脱藩組。多彩といえば多彩、ありていにいって寄せ集めの軍勢が天下の彰義隊の現実だったのである」

 このように上野の山に結集されてくる状況を、彰義隊メンバーより喜んだのは、輪王寺宮と一緒に駿府でコケにされた覚王院であった。
官軍によって傷つけられたプライド、その仕返しする時が来たとばかりに、この覚王院は全面的に彰義隊をバックアップし、ますます彰義隊はその存在を強めていった。

 結果として「自ら官軍と彰義隊との境界が立ちますやうな訳で、浅草門から柳原の橋々を経て、昌平橋まで内外の境界が立ちまして、皆内廊だけが官軍の往来と云ふゆうな訳でございました」(『史談会速記録』幕末気分 野口武彦)とあるように、外堀と神田川を境界線にして官軍地区と彰義隊地区が出来ていたように、江戸市中に「治外法権」が発生している状態だった。

 さらに「錦片(きんぎれ)とり」というのが流行った。新政府軍の兵士は出身が異なり、服装もそれぞれであるから、身分証明の意味で小さな錦の布切れを袖に縫い付けていた。それを彰義隊が奪うことが盛んに行われ、その延長で事件が続発した。

最初は谷中三崎町の路上、薩摩藩士と彰義隊が遭遇し、言い合いとなり、お互い抜刀し、薩摩藩士が三人惨殺され、これを多くの江戸市民が見ていたが、町役人に対し口をつぐみ、事件の糾明は行われなかった。

 次は上野三橋町で筑前藩士が彰義隊と口論となり、筑前藩士一人が殺害された。これについても誰もが口にせず、この事件も不問に終わった。同じく広小路で佐賀藩士二人が殺害された。これも不問に終わった。

 さらに大事件が発生した。白昼、鳥取藩の弾薬が彰義隊によって奪われたのである。これまでの殺害事件は、お互いの口論からの斬り合いであったが、今回は新政府に対する敵意が顕わになったもので、奥州の戦地に運ぶための弾薬数十荷が、上野の山下の坂本で強奪されたのである。

 この状況は徳川側にとって憂慮すべき事態であった。閏四月二日に「江戸鎮撫万端の儀委任」を受け、その任務を彰義隊に命じたことが裏目に出て、彰義隊の新政府に対する敵視は一層募るばかりであって、これは慶喜江戸復帰、それと家名の存続は受け入れられたが、まだ定まっていない城地と禄高決定にも影響しかねず、大きな懸念材料になってきた。

 そこで、この危機に登場するのは鉄舟である。彰義隊に上使として赴き、覚王院と対決するのである。

投稿者 Master : 2011年06月07日 17:32

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