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2013年04月26日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の三

慶応から明治へ、一世一元の改元は、明治天皇が即位した慶応四年(1868)八月二十七日の翌月九月八日になされた。この「明治」という出典は「易経」の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとったものである。聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である。

この元号提案者は松平春嶽(慶永)とも、または、清原(儒学の家柄)、菅原(学者の家系)両家堂上の勘文、これは朝廷の質問に答えて吉凶を占って提出する意見書であるが、その中の二・三の候補から、籤によって選んだともいわれている。いずれにしても、この明治という改元によって封建時代から近代化へ、日本は見事に変換したわけで、改元は大成功であった。

さて、明治天皇がどのような天皇であられたのか。勿論、明治時代の治世者として偉大な業績を遺されたのであるから、その業績の数々を具体的に挙げるのは簡単だろうと思われるが、これが意外と難しい。この難しい理由は後ほどとし、まずは、明治天皇がいかにバランスのとれた君主であったかを三つの側面からお伝えしたい。

最初は人格面である。明治15年(1882)にチャールズ・ランマン(日本公使館勤務)がその著書「Leading Men of Japan」で次のように書いている。

「ヨーロッパの君主や王族の多くと違って、明治天皇は放縦に身をまかせるということがなく、もっぱら精神を教化することに喜びを見出している。知識を求めるにあたって労を惜しまず、個人的不自由も厭わない。まだ若いにも拘らず(注 当時二十歳)、枢密顧問官の会議には頻繁に出席する。(中略)行政部門をよく訪れ、天皇の出席が望ましいあらゆる公務にも常に顔を出す。科学や文学にいそしむ一方で、専門的な研究に毎日数時間をあてるなど自分を厳しく律する習慣を持ち、それに厳格に従っている。性格においては賢明、断固たる決意の持主で、進歩的かつ向上心に燃えている。治世の最初から天皇のまわりには帝国きっての賢い政治的指導者が配され、これが当然のことながら天皇自身の成長にも役立っている。かくして今世紀の日本の王冠は、偉大なる尊敬に値する人物の上に輝いている」続けて「偏見から自由で、国家の繁栄の増進に有益と思われるあらゆるものを外国から採り入れる熱意ある向上心のある持主」と称え、ピョートル大帝に驚くほどよく似ていると明言している。(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

ピョートル大帝(1672~1725)とは、ロシアのツァーリ。スェーデンとの戦争で勝利し、ヨーロッパ大国の地位を確立し、バルト海への出口を獲得、ここに新しい首都サンクトペテルブルグを建設し、国家名称をロシア帝国に昇格させ、ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評されている人物である。

しかし、ドナルド・キーン氏は同書でランマンに異論を唱える。

「人格の上でこの二人には類似するところなぞ何一つなかった。片や粗暴で残忍とさえ言えるロシアの君主、片や誠実で極めて控えめな日本の君主である」と。

このように人格面ではピョートル大帝を否定しているが、ランマンは国家を近代化へ導いたという業績、その共通性をもって、似ていると評したのであろうと推測する。

次は、明治天皇の文化的素養である。これも外国からの評価から紹介したい。

明治天皇崩御のとき、各国のマスコミは挙げて業績をたたえ、哀悼の意を表しているが、ドイツのアンツァイゲル紙は「日本天皇の詩的宮廷」と題し、歌道に深い教養をお持ちと伝えている。(明治天皇 渡辺茂雄 時事通信社)

「そもそも日本における古来の伝統は、今日のような現代的な社会にあっても、なおその勢力を維持し、『ミカド』の宮廷をして、ミューズ(詩神)の居所たらしめ、天皇の宮廷は、あたかもトルバドール派詩人の時代におけるルネーの宮廷のごとく、いずれもみな詩人にして、詩歌をもって談話するも、廷臣にとっては決して不自然とは思われない・・・」

明治天皇は「幼少よりきわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」ので、父君孝明天皇は万一行きすぎることがあっては、という心遣いから六歳の時に「今日から毎日歌をつくるように―――歌はたけき心をなごやかにするものだ」と仰せになり、その時から毎日孝明天皇に歌を差出して添削を受け、孝明天皇崩御後も歌道に励み、その生涯に十万首に及ぶ和歌を詠んでいる。

明治二年(1869)の歌会始第一回では、華族や役人のみの歌であったが、明治七年(1874)には一般国民の歌も募られるようになり、そのうちの優れたものを選歌にするようになったのは明治十二年(1879)からであった。

平成二十四年の歌会始は一月十二日、皇居・宮殿「松の間」で行われた。今年のお題は「岸」で、天皇、皇后両陛下や皇族方のお歌のほか、1万8830首の一般応募(選考対象)から入選した10人の歌が、古式ゆかしい独特の節回しで披露された。天皇陛下のお招きで歌を詠む召人は詩人・小説家の堤清二さんが務めた。

天皇陛下は2011年5月6日に東日本大震災のお見舞いで岩手県を訪れ、ヘリコプターで釜石から宮古まで移動した際に、上空から見た被災地の印象を詠まれ、皇后陛下は、俳句の季語を集めた歳時記に「岸」の項目がないことをとらえ、季節を問わずに、あちこちの岸辺でだれかの帰りを待つ人たちに思いを馳せられたという。

ドイツのアンツァイゲル紙が「日本天皇の詩的宮廷」と述べたのは、このように国民との結びつきを高く評価したのである。

また、明治天皇の和歌について、昭和を代表する二人の歌人が次のように高い評価をしている。まずは、北原白秋である。

「歌聖としての明治天皇は、その御風格において、まことに大空のごとく広大であらせられた。いかにも帝王の御製であり、御歌柄であらせられた」

斎藤茂吉も次のように述べている。
「明治天皇は和歌を好ませたまひ、且つ歌聖にましました。その歌詞の堂々たる、御心のままの直ぐなる、さながらを詠じたまひて、豪(すこし)も巧むことあらせられず、これ御製の特色と拝察したてまつるのである」

これらの発言は、明治天皇の和歌を通じた文化的教養の高さを証明するものであろう。

三つ目の側面は、江藤淳氏が言う「軍服を召した、けいけいたる眼光を光らせる写真」、つまり、前号で紹介したヒュー・コータッツィがいう、エンペラーとはラテン語のエンペラート「軍を率いる者」が語源であるが、それにふさわしい軍人としての一面である。実は、明治天皇は戦争に格別の関心を寄せている。

「天皇は、この戦争(普仏戦争1870年7月~71年5月)に格別の関心を寄せた。陸軍士官だった高島鞆之助は、回想している。天皇は、手元に届いた普仏戦争の戦況報告をつぶさに調べ、両軍が採った戦略について、しきりに侍臣たちに質問を浴びせたものだった、と。高島によれば、この戦争が終って間もなくドイツの軍隊が横浜港に寄稿した際、艦長は天皇に一枚の写真を献上した。それは普仏戦争の写真で、『砲烟天に漲り、殺気大空に満ちて一見血湧き肉踊る物凄さ』を写し出していた。ドイツ海軍士官の艦長は、よろしければ写真について説明いたしましょうか、と申し出た。天皇は直ちに許可を与えた。写真が撮影された日の両軍の戦略はもとより、戦争の結末に到るまで天皇は非常な興味をもって説明に耳を傾け、『龍願殊の外麗しく御聴取りになった』と、高島は書いている」

「天皇は明治五年(1872)四月七日、ドイツ弁理公使から普仏戦争凱旋祝祭の写真の説明を受けている。言うまでもなく、天皇が一外国人をこのような目的で御前に召すなど前例のないことだった」(明治天皇 ドナルド・キーン)

普仏戦争でフランスが敗れたことから、それまで日本陸軍はフランス式を採用していたが、この時以降、日本陸軍はドイツ方式を導入した。明治天皇の普仏戦争に対する情報収集分析結果が影響したと考えるのは容易である。

しかし、践祚されたころは、おはぐろをつけて薄化粧していた少年天皇であったわけで、その変化は国家君主として、軍の統率者として、その適性が十分あることが推測できるであろう。

このように明治天皇は、人格的にも、文化的にも、国家君主としても、バランスのとれた治世者であったことが各方面からの証言で認識できるが、そのような治世を成すには封建時代と一線を画す環境変化が前提要件として必須であった。その必須変化を招いたものは二つの改革、廃藩置県であり、これと同時に成された宮廷改革であった。

廃藩置県について、伊藤博文はその成果を欧米視察団として赴いたサンフランシスコで次のように演説している。

「数百年のあいだ強固に成立していた封建制度が、一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さずに、一年のうちにとりはらわれた。世界のどこの国で戦争しないで封建制度を打破したであろうか」と。

確かに、このように大見得きった通りで、廃藩置県によって、個々の領地を治めていた大勢の封建領主を辞めさせ、代わって明治天皇が日本国で唯一の支配者となったわけで、近代国家への大きな道筋をつけたことは間違いない。

しかしながら、天皇の周りの環境変化も同時になされなければ、既にみたようなバランスとれた君主としての地位を、固められなかったことも容易に推測できるし、恐らく、廃藩置県と同じ月(明治四年七月)に断行した宮廷改革の方が、明治天皇にはより一層大きな影響を与えたと判断している。

改革が実行されるまでの宮廷には、数百年来の前例、旧例、古例という仕来たりが横たわっていて、五カ条の御誓文として「旧来の陋習を破る」という基本方針が出されが、宮廷だけは明治維新を成し遂げた功臣達でも、どうしょうもなく困難で、これでは若き明治天皇への教育が進められないと歎いていた。

木戸孝允は日記で、その必要性を何度も書き述べているし、岩倉具視もまた、若き天皇の周囲に適切な相談相手が必要であることを痛感し、岩倉は三条実美に宛てた書簡の中で「君徳」の培養が肝要であることを強調し、今や維新の初めにあたり天皇は年若く経験に乏しい、ゆえに「輔導の任一日も闕(か)くべからず」と述べ、公家、諸侯、徴士の中から篤実謹厳なる者、器識高遠なる者、または、和漢洋の学識ある者を選抜し、天皇の侍臣ないし侍毒に当てるべきであると勧めている。
この状況について、ドナルド・キーンは同書で次のように述べている。

「この時期まで、宮廷に仕えることが出来たのは堂上華族だけだった。古来からの系統を受け継ぎ、もっぱら先例、格式を墨守するのが彼ら堂上華族の身上だった。天皇が私生活を営む大奥もまた同様に、公家出身の女官が取り仕切っていた。その多くは、前の治世から延々と居残っている者たちだった。これら女官たちは融通の利かない保守主義のかたまりで、天皇に対する影響力を駆使してあらゆる変革の機先を制した。

政府重臣は三条実美や岩倉具視のような公家さえこの現状を嘆き、その改革を試みようとしていた。しかし、数百年来の慣習を一朝にして改革することは至難の業だった」

ここに登場したのが西郷隆盛であった。

「廃藩置県実現のため東京に来ていた西郷隆盛は、今こそ改革の時であると決意した。『華奢・柔弱の風ある旧公卿』を排斥し、『剛健・清廉の士』を天皇の側近に据えるべきである、と西郷は考えた。これを木戸孝允、大久保に謀り、さらに三条、岩倉に進言して英断を迫った。七月四日、決定が下された。薩摩藩士吉井友実が宮内大丞に任じられ、宮内省と内廷の改革の責任者となった.」(同書)

 責任者となった吉井友実は、思い切って女官たちを総免職する強硬策をとった。吉井は総免職を申し渡した明治四年八月一日のことを次のように述べている。

 「今朝女官総免職、ひるすぎ皇后御小座敷へ出御、大輔萬里(までの)小路(こうじ)*殿お取り次ぎにて典侍以下新たに任命、中には等を下げられた人もあり・・・右おわりて皇后入御、判任官、命婦、権命婦の分は余書付をわたす。これまで女房の奉書などと、諸大名へ出せし数百年来の女権、ただ一日に打ち消し愉快極まりなし」(明治天皇 渡辺茂雄)

さらに翌年五月、再び宮廷改革が実行された。これで典侍以下女官三十六人―――いままで大奥という牙城のなかに勢威をはっていた連中の大部分は罷免されてしまい、爾来、宮中奥向きのことはすべて皇后のもとに統一されることとなり、何百年かつづいた積弊は一掃されたのである。

この結果は、今後は公家であると士族であるに関わらず侍従に任じられることになり、新たに侍従として選ばれたメンバーは以下の通りであった。

鹿児島藩 高島鞆之助 村田新八
長州藩  有地品之允
越前藩  堤 正誼
熊本藩  米田虎雄
土佐藩  高谷佐兵衛
佐賀藩  島 義勇
旧幕臣  山岡鉄太郎
 
 いよいよ鉄舟の登場であるが、これら選ばれた侍従達が明治天皇に大きな影響を与えたことについて、渡辺茂雄が同書で次のように書いている。

 「いずれも戦場往来のえりぬきかの猛者ばかり、彼らがあたらしく女官や公卿にかわって君側に奉仕することになったのだから、いままでとは月とすっぽんのちがいである。いかに天皇の周辺が、剛毅闊達の気にみちてきたか、およそ想像できよう」と。

 西郷隆盛も宮廷改革について、その成果を叔父椎原與三次に宛て書簡で述べている。
「いろいろ変革が行われた中でも、なにより喜ぶべきことは、天皇ご自身の身辺にかかわることである。これまでは華族でなければ御前に出ることは出来なかったし、たまたま宮内省の官員であっても、士族は御前に出ることは出来なかった。しかし、これらの弊習はとごとく改められ、侍従でさえ士族から召し出されるようになった。公卿、武家、華族の分け隔てなく官員は選ばれることになり、特に士族出身の侍従を天皇は好まれるようで、実に結構なことである。天皇は後宮にいることをひどく嫌われ、朝から晩まで表御殿に出ておられる。和漢洋の学問に励まれ、侍従等と共に会読なされるなど、寸暇もなく修業に打ち込むあまり、服装もこれまでの大名などよりいたって身軽で、勉学の励まれようは人並み以上である。今や天皇は昔日の天皇にあらず、見違えるように意欲的になられたこと、三条、岩倉の両卿でさえ認めている。元来が英邁の質で、極めて壮健であられ、このような天皇は近来では稀であると公卿たちも言っている。天気さえよければ毎日でも馬に乗り、二、三日内には御親兵を一小隊ずつ召されて調練する予定で、今後は隔日に調練をなさるとのことである。大隊を率いて自ら大元帥をつとめられるとの御沙汰があり、なんとも恐れ入る次第で、ありがたいことである」(明治天皇 ドナルド・キーン)

 このように西郷の書簡は、見事な明治天皇の変化を書き述べている。

  また、東京大学の山内昌之教授は「明治天皇がローマ賢帝との共通性」(2011.3.31)の中で、次のように述べている。

「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)*で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか。宮中を女官中心の内裏の雰囲気から変え、西欧のように武芸から学問にまで通じる活動的な青年君主に育てた人物は、まずこの2人であろう」と。

その通りと思うが、山内教授が指摘する明治天皇への鉄舟影響を具体的に述べるためには、明治天皇という立場の分析、それは当然に今上天皇とは大きく異なるわけで、その解説が必要であり、併せて、他の侍従との違いを検討しないと十分な理解が得られないだろう。

なお、2012年2月1日に、NHKは「西郷隆盛と山岡鉄舟の相棒物語」を放映した。

この放映内容になるほどと思い、同番組で鉄舟の業績を「江戸無血開城」と「明治天皇教育」と見做したことには同意するが、それを聴視者に十分納得できるものに編集していたか、という視点からは疑問を感じる。

特に、明治天皇の業績の数々を具体的に挙げ、それと関わる鉄舟について述べることはかなり難しく、簡単にはいかない作業であるが、その壁にNHKもぶち当たったので、今回の中途半端な放映になったと思っている。

しかし、この検討をしないと鉄舟を妥当に理解できないわけで、次号以下でそのところを掘り下げいきたい。

投稿者 Master : 2013年04月26日 05:52

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