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2009年06月10日

尊王攘夷・・清河八郎その三

尊王攘夷・・清河八郎その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

桜田門外の変を契機として、清河八郎は国事に奔走しはじめた。お玉が池の清河塾机上から儒書が消え、土蔵に出入りする武士たちが増え、その中から清河を含む14名の同志によって「虎(こ)尾(び)の会」が結成された。時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)といわれている。

「虎尾の会」は尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、「危険を犯す」という意味のとおり、後に出てくるように結成後多くの危機に遭遇している。

発起人は清河八郎以下次のメンバーであった。

薩摩藩   伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬  北有馬太郎
川越浪士  西川錬蔵
芸州浪人  池田徳太郎
下総    村上正忠 石坂周造
江戸    安積五郎 笠井伊蔵
幕臣    山岡鉄太郎 松岡万
 
また、盟約書は次のように書かれていた。

「およそ醜慮(しゅうりょ)(外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。

一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」

清河が主張する尊王攘夷思想を盛り込んだもので、この中に「火攻め」とあるのは、横浜の外国人居留地の焼き討ちを意味している。

この当時の尊王攘夷志士達は、しきりに横浜の外国人居留地の焼き討ちを狙っていた。

例えば長州藩の桂小五郎も、万延元年に品川沖停泊中の軍艦丙辰丸で、水戸藩の有志と会し、幕政改革を意図した次の盟約を結んでいる。(寺田屋騒動 海音寺潮五郎)

「幕府の要路の大官を殺すか、横浜の外人居館を焼き討ちすれば、天下震動して、幕府は戦慄するであろうから、この役目は水戸人が引き受ける。長州人は幕府に建言して、幕政を改革して、安政の大獄の裁判を撤回させる役目を引き受ける」

この盟約は、水戸藩内の混乱で実行にいたらなかったが、「火攻め」の対象は常に横浜の外国人居留地であった。

その要因は天皇の勅許を得ない日米修好通商条約の調印と、この結果生じている国内経済の混乱、外国人の日本人への侮蔑行動、つまり、夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。

加えて、違勅調印を攻撃すれば、幕府は安政の大獄によって弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった結果が、「虎尾の会」の盟約書であり、桂小五郎のそれであった。

この「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要である。

これから八年後、鉄舟と益満は東海道を駿府へ向って急いでいた。東征軍参謀西郷隆盛と会見するためであったが、その道中は官軍で満ち溢れていた。その中を駿府まで通過する通行手形は、薩人益満の薩摩弁であった。独特の薩摩訛りは他国者に真似できない。益満がいたからこそ通行を邪魔されずに、慶応四年三月九日西郷と「江戸無血開城」の談判が出来たのであった。

その駿府行きの鉄舟と、益満と慶応四年の再会は、赤坂氷川神社裏の勝海舟邸であった。一介の旗本に過ぎず、それまで一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、将軍徳川慶喜から幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受け、政治的立場の上層部に相談しようと、何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。そこに「虎尾の会」以来の旧知、益満がいたのである。

ところで、清河を毛嫌いしていたのは海舟であった。海舟は清河と同型の人物ではないかと思う。清河の才気に国際的要素を加え、ひとまわり大きくし、純情さを一味少なくし、手練手管の芸を加えた人物、それが海舟であると思う。人は自分と同型を好まない傾向があるような気がするが、鉄舟は清河が暗殺された五年後、清河と同型の海舟と莫逆の交わりを結ぶことになった。それも鉄舟と清河が初めて会った瞬間に親しくなったように、海舟も鉄舟と出会い、ひとこと言葉を交わした瞬間、与(くみ)する仲になった。時間軸を隔てて同型の清河と海舟との深い交わりは、鉄舟という人物の一面を示していると思う。

氷川神社裏の海舟邸に益満がいた理由は、海舟日記(三月二日)で明らかである。

「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」

つまり、対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたもので、鉄舟が訪れる三日前の三月二日という絶妙タイミングである。さすがに政治的能力の高い海舟ならであるが、それよりも鉄舟と益満とが同志として盟約を結んでいた仲であったことを、海舟が熟知していたことの意義は深い。

歴史とは偶然の重なりで、偉大な業績を積み重ねていく。益満と鉄舟の出会いは清河の「虎尾の会」。時が移って、益満が鉄舟の通行手形となるのは海舟邸での出会い。

もし仮に、若き益満と鉄舟が、横浜の外国人居留地の焼き討ちを図りつつ、お玉が池の清河塾土蔵の中で「豪傑踊り」をし合った仲間でなかったならば、果たして駿府行きの道中はあれほどスムースに成し得たであろうか。二人の阿吽の呼吸が効を奏したのだと思う。

一般的に「江戸無血開場」と清河は無関係とされているが、鉄舟と益満のつながりを考察すれば、清河も因子のひとつとして絡んでいたと断じざるをえない。

ここで「豪傑踊り」を説明しないといけないだろう。

「虎尾の会」の中に幕臣の松岡万がいた。この松岡が夜になると辻斬りに出た。また、薩摩の伊牟田尚平は始末に終えぬ乱暴者で、その他のメンバーも所在無さにいろいろ悪さをしに市中を出歩く。

そこで鉄舟が考えた乱暴・悪さ予防対策が「豪傑踊り」であった。まず、鉄舟が真っ裸になって、褌まで外して土蔵の真ん中で四斗樽の底を叩き出す。すると土蔵の中にいる全員が鉄舟を取り巻いて、これも真っ裸になって「えいやさ、えいやさ!」と拳固を振り回して踊りだす。みんなが踊り疲れると酒を飲む。酒が回るとまた鉄舟が樽を叩きだすので、再び踊りだす。こうして踊り疲れてごろごろその場に寝てしまって朝になる。というのが「豪傑踊り」であった。

この「豪傑踊り」の意義は高い。それは鉄舟が持っていた懸念への対策だった。外国人居留地の焼き討ちを実行させ、日本国内に騒乱を起こすことへの杞憂。徳川幕府体制内に身をおく立場として、実行をさせることの理非。さらに、情報が集中している江戸の真ん中に生き、開国はやむなしという認識を持ちつつ、その流れに反逆することの是非。

後年、静岡の金谷・牧の原台地で、お茶畑開墾頭として功績のあった中条景昭も「豪傑踊り」に加わっていたが、当時を回顧して次のように語っている。(おれの師匠 小倉鉄樹)

「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされてゐたようなものだ。なにせ山岡が志氣を鼓舞するのだと云って眞先に素ッ裸になって樽を叩き出すのだから、それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸体じゃ辻斬にも出られるものじゃない」

清河も鉄舟の意図を分かりつつ、この「豪傑踊り」に巻き込まれ、妻のお蓮に「山岡の考えは姑息すぎる」と愚痴をこぼしている。(回天の門 藤沢周平)

鉄舟は分かっていたのだ。仮に清河を首謀者とした浪人集団が事を起しても、国家体制という時代改革への行動には火がつかないと。

改革に対する読みの冷静さは鉄舟だけでない。

維新の三傑の一人、大久保利通も若き頃から次のように述べている。(寺田屋騒動)

「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん。何として、藩全体でやることを考えなければならん。老公は見込みはないが、もう六十九というお年だ。長くなか。あとはきっと久光様が政治後見になりなさる。・・・中略・・・こちらとしては、うまく説きつけて天下のことに目ざめさせればよかのじゃ。それには先ず近づくことじゃ」

大久保利通はわかっていた。有志としての個人集団では、一時の成功や快があっても、時代を転換させるという大事業はできない。薩摩藩という七十七万石の総力を結集するしかない。そのためには久光をいだいて進めるしかない。この冷静な感覚が維新の三傑と称される人物となった基因であろう。立場と事例が異なるが、「虎尾の会」の鉄舟に通じる。

そろそろ清河が、何故に大坂薩摩屋敷に滞留し、伏見寺田屋事件に関与するような、天下の一流志士として認められたかについて触れたい。それは江戸から逃亡することになった事件に関わっている。

まず、その遠因には水戸の天狗党が絡んでいる。天狗党も横浜を襲撃するつもりで、軍資金を集めているらしいと聞きつけた清河が、文久元年(1861)一月に水戸行きを決行した。結局、天狗党とは会えずに江戸に戻ったのだが、この行動が幕吏に目をつけられることにつながり、清河塾には得体の知れない連中が、頻繁に出入りしているとにらまれ、監視されることになった。

塾の近くに信濃屋というそば屋があった。そこからそばを取り寄せて食べていたが、そのそば屋の亭主が奉行所と裏でつながっている岡っ引で、昼間は清河塾を見張り、夜になると土蔵の下に下っ引を忍びこませていたのである。このあたりが個人集団の弱さである。逐一奉行所に伝わって、首謀者の清河への対策が講じられつつあった。

書画会というものが当時盛んであった。料理屋が会場となって、客は祝儀の金を包んで行き、その場で揮毫される書や画を譲り受け帰るという催しであった。

文久元年五月、清河はひとつの書画会に出席した。水戸藩の関係者が出席すると聞いたからであった。だが、水戸藩士が居たにはいたが、政治談議は出来ず、もっぱら飲み食いに終始し、清河は少し悪酔いし、帰り道で異様な職人風の若者に絡まれることになった。

 書画会のあった両国から甚左衛門町(今の日本橋人形町あたり)に来たとき、手に棒を持ち、構え、清河の行く手を執拗に塞いだり、避けるとその方向に素早く寄ったりして、明らかに清河を狙って嗾(けしか)けてくる。

 何かの意図を含む挑発だと分かりつつも、棒が清河の体に直接向ってきたとき、無声の気合と共に腰をひねって刀が光り、すっと鞘の中に納まり、男の首が飛び、傍らの瀬戸物屋の店先に落ちた瞬間、その時を待っていたかのように、二三十人の捕り方が清河を囲んだ。明らかに仕掛けられたのだ。「虎尾の会」を潰し、頭領の清河を逮捕する口実をつくる罠だった。

 それ以後の清河は全国を逃亡することになる。水戸から越後奥州路へ、さらに木曽路から京都、中国、九州まで。この逃亡遍歴は、結果的に清河を一流の志士として全国的に認めさせる旅となった。

禍変じて福であり、その切っ掛けは「廃帝」の噂であった。幕府が「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」という噂を入手したとき、清河の内部に戦慄が走った。これは使える。使わなければならない。

それ以後の清河の動きに対し司馬遼太郎が、「幕末の風雲は、この清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」(幕末・奇妙なり八郎)と述べているほどであるが、その経緯については次回にお伝えしたい。

投稿者 Master : 2009年06月10日 10:18

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