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2008年02月06日

玄武館道場に入門

玄武館道場に入門
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
前々号で、鉄舟は「人間の出来がもともと違う」と思わざるを得ない事例として、二十三歳で「心胆錬磨之事」から「武士道」まで一連の思惟基盤をまとめ得たことを述べ、前号では、義兄高橋泥舟の鉄舟に対する目利き力が、江戸無血開城の偉業につながり、歴史に鉄舟を登場させたことをお伝えした。

また、今までの連載で、飛騨高山の少年時代から、両親の死によって十七歳で江戸に戻り、異母兄の小野鶴次郎屋敷に転がり込み、二歳の乳飲み子を含む五人の弟達を、鶴次郎から冷たい待遇を受けながら必死に面倒を見て、その生活を見かねた剣道師範の井上清虎からの勧めもあり、両親から受け継いだお金を持参金として、弟達を他家に養子に出し、自らは百両のみ手許に置き、残りは鶴次郎に贈って身辺整理を終えたまでをお伝えしてきた。この時、鉄太郎(鉄舟)は十八歳であった。

今号からは、鉄太郎の江戸での生活について、各方面から述べていきたい。

弟達の養育から解放された鉄太郎は、飛騨高山時代からの剣術の師・井上清虎の紹介で嘉永六年(一八五三)千葉周作の玄武館道場に十八歳で入門した。

ただし、入門した年齢は二十歳という説もある。だが、これには疑問が残る。鉄太郎は二十一歳の安政三年(一八五六)に、幕府が武芸訓練機関として設置した講武所に、世話役として入所している。つまり、二十一歳の時点で鉄太郎は既に剣の使い手として、幕府内で認められていたことになる。とすると、世話役就任一年前の二十歳入門では早すぎる感がある。その前に剣を鍛えていた期間が必要と思われるので、身辺整理を終えた直後の十八歳で玄武館道場入門、というのが妥当な見解と考える。

さて、当時の江戸には剣術道場が軒を並べていた。これは幕末の時代背景が生れさせた現象であった。嘉永六年(一八五三)にペリーが浦賀にやって来る前から、中国・清がアヘン戦争(一八四〇~四二)でイギリスに負け、国土を割譲されたことに、日本の支配層である大名・武士・知識人たちは危機感を募らせていた。そのときペリーが四隻の黒船を率いて日本に開国を求めてきたのである。

これは戦慄すべき事態であった。日本が大国と認識していた中国・清と、同じ運命になるかもしれない。その強烈な危機感は、現代の我々にとって想像を超えるものであった。

この危機を凌ぐためにはどうすべきか。対策は現状の日本を西欧諸国に対抗できる国家に造り変えるしかなく、そこに向うあるべき姿の模索と、その方法論をめぐって、国中に凄まじい戦いが始まり、その中で精神を、肉体を燃焼させるためには、まず、もう一度自ら自身が強くならねばならない。その想いが全国に六百流派とも言われる剣術道場を派生させた背景であった。

これは日本刀つくりにも顕れた。戦国時代が終わり、泰平の世が続き、武士の魂であった刀も、本来の戦うための武器から、威厳を示すもの、外装を重視する装飾的な拵え物となっていたが、幕末時には実戦本位の刀に変化してきた。自己を守るため、敵を斬るための強靭な武器として、幕末刀の登場である。

さらに、剣術道場が流行った理由として稽古の変化もあった。それまで武家諸法度で武芸者同士の真剣勝負は禁じられ、元禄文化のなかで実用を離れ華やかな技法への風潮によって、打ち合い勝負で稽古することを避けていたものが、宝暦年間(一七五一~六四)に一刀流中西派の中西忠蔵が、現代の竹刀と防具にほぼ近い形の自由打ち突き突稽古を完成させ、これを多くの流派が採用するようになったことも、多くの人達を剣術道場に向わせた理由であった。

また、これら道場の門をたたいたのは、武士の子弟だけでなく農民や町民の子弟も多かった。加えて、江戸には全国から大志を抱く若者が集まった。坂本龍馬が江戸に出てきたように、地方の下級武士の子弟たちにとって江戸はもともと憧れの地であり、地元の窮屈な身分制度を抜け出して、江戸の道場に遊学することがブームとなった。

江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。

これら有名道場では、従来の型稽古を中心とした古流とは異なる、当時の時代風潮であった「手っ取り早く習えて、上達が早い」という、いわば顧客志向の稽古方法や剣術理論を採り入れていった。中でも鉄太郎が入門した北辰一刀流は、古流剣法が権威を誇り守るため、難解な言葉と剣術を哲学や宗教と結びつける傾向が強かったのに対し、簡易な言葉を使い、合理的な練習法を編み出し、それまで八段階に定められていた一刀流の修行段階を初目録、中目録、大目録の三段階に簡略化するなどの工夫をした。そのため「他流では目録を取るまで三年かかるところを、北辰一刀流では一年でもらえる」と評判になり、多くの門弟を獲得し、当時、門人三千余人といわれた。
 
また背後に有力な庇護者を持てた事も、大道場として隆盛する要因といえる。玄武館は水戸藩、士学館は土佐藩、練兵館は水戸藩・長州藩、練武館は亀山藩と強い絆を持っていた。なお、後の新撰組組長近藤勇も当時、牛込に天然理心流・試衛館道場を構えていた。

このような背景の中で鉄太郎が北辰一刀流・千葉周作の玄武館に入門したのであった。

余談になるが、千葉周作の弟である千葉定吉は千葉道場、この道場は現在の中央区八重洲二丁目にあたる桶町にあったので「桶町千葉」、また、兄の周作と区別するために「小千葉」とも呼ばれたが、ここに坂本竜馬が入門している。

竜馬は勝海舟の門下になることによって、時代の新しい国家感覚に目覚め、後の活躍につながったのであるが、竜馬が海舟の門下になった経緯には、この千葉定吉の長男である千葉重太郎が絡んでいる。
重太郎と龍馬の二人は、勝海舟が唱えていた開国論に反発し、海舟の暗殺をすべく赤坂元氷川下の勝屋敷を訪ねた。だが、龍馬が海舟の識見に感激し、その場で師と仰ぎ門下入りしたのであった。このところを司馬遼太郎は「竜馬がゆく」(三巻)で臨場感溢れる表現力を持って展開しているが、それをまとめると次のようになる。

海舟は訪れた竜馬に向って、地球儀を回し、日本と同じ小さなイギリスが何故に世界一の大国になったのかを解説し、日本国百年の興国大構想を滔滔と論じているうちに、その内容に引き込まれた竜馬は、海舟の論弁が終わった途端「勝先生、わしを弟子にして任ァされ」と弟子入りする情景、竜馬が時代感覚に鋭敏であることも理解させる、見事な文体で表現し、秀逸である。


余談のついでにもう一つ余談であるが、歴史作家の加来耕三氏が主張する「竜馬は剣客でなかった」という説が、朝日新聞(2000.3.12)に大きく掲載された。従来、竜馬が剣客とされる根拠は安政五年(一八五八)に、千葉定吉から与えられた「北辰一刀流長刀兵法目録」とされているが、これは「短期講習会の修了書」みたいなものだと「免許皆伝」説を否定している。また、インターネットでフリー百科事典「ウィキペディア」を検索すると、竜馬が授けられた「北辰一刀流長刀兵法目録」は、北辰一刀流に含まれていた長刀術(薙刀術)の目録とあり「剣術の皆伝を示すものでない」とある。

竜馬が免許皆伝剣客でなかったとすると、司馬遼太郎がつくりあげた「日本人に最も人気の高い偉人」という竜馬イメージ、これは果たしてどうなるのであろうか。

だがしかし、本題の主人公である鉄太郎は、正真正銘の本物剣豪である。

鉄太郎は、弟たちの身の振り方をつけ、生活に不自由がなくなり、ようやく自らの修行に突き進むことができる環境となった。ここでいう修行とは、剣のみでなく、禅でもあり、もうひとつは色道修行であり、いずれの修行も猛烈であった。それらについて今後順次お伝えしていくが、まずは剣の修行について見ていきたい。

鉄太郎はもともと身辺を飾るタイプではない。今でいうフアッション感覚には関係ない方である。その上に両親を早く亡くして、身近で親身に服装の世話をしてくれる人はいなかったので、身繕いはいつもかまわなかった。

一方、玄武館は江戸随一の人気道場であり、隣には老中首座の阿部正弘に諸般の助言をした、儒学者東条一堂の学問塾もあった上に、千葉と東条は親しかったので、塾生の多くは両方に通って文武両道の修行をするものが多く、必然的に良家の子弟が多く入門していた。

また、優れた剣客も多く、例えば、水戸藩に高禄で抱えられた高弟海保帆平、新撰組の藤堂平助や山南敬助、東条一堂学問塾の秀才の誉れ高かった清河八郎等がいて、鉄太郎の修行には好都合であったが、何せ身繕いをかまわないので、いつもボロ姿であり「ボロ鉄」と綽名される一方、剣道はめっぽう強く、修行態度も純粋真剣であったので、畏敬の念を持って「鬼鉄」とも言われていた。

この「鬼鉄」と称される逸話が残っている。講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨した鉄舟は、あるとき木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ「えいっ」と、得意の諸手突きを入れた。すると、木剣は一寸欅板を突き抜けるというすごい話が伝えられている。正に「鬼鉄」と言われる手並みを示す逸話である。

鉄舟は剣の道に関して、明治十三年四月に認めた「剣法と禅理」、これは同年三月三十日払暁に、剣の極意を大悟して無刀流を創始したのちに書かれたものであるが、その中で次のように書いている。

「余、少壮の頃より武芸を学び、心を禅理に潜むること久矣(ひさし)。感ずる所は必らず形に試み、以て今日に至る。年九歳の頃、初めて剣法を久須美閑適斎に学び、続ゐて井上清虎、千葉周作、或は斉藤、桃井等に受け、其他諸流の壮士と共に試合する事、其数幾千万なるを知らず」
 
其数幾千万という表現、余りにも過大な表現でないかとも思われるかもしれないが、狂気ともいえる剣の修業について述べたものと理解したい。

それは、厠の中でも、寝床の中でも、相手との剣術稽古気勢を持つと、飛び出し、飛び起き、木剣を持ち工夫をする。道を歩いていても、竹刀の音がすると、飛び込んでいき稽古を受けることが常だった、という姿を表しているのである。

そのような鉄舟の性格を証明するのが、鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」である。鉄舟の性格について次のように書かれている。

「師匠は子供の時からひどく負け嫌ひで、どんなことでもやり出したら吃とやり徹してしまはぬと気が済まなかった。この気象が『鬼鉄』の綽名を受けた原因で、事の大小に拘わず、面と向かつたが最後、死んでもあとへは退かぬことときめて居た。『悪いと気がついても、乗りかゝつたらぐつと目をつむつて辛抱するんだ。その中にひとりでに片づいて来る』といふのが山岡の筆法だ。けれども普通の人はこの辛抱が出来ないから、中途で逃げ出したり、泣言いつたりするようになる。こんなことを今時の人が聞いたら、馬鹿だと一笑に附してしまふが、それだけ今の人は腰がないからいざといふ時、間に合ふ力が乏しい。何も修業だ」

これを単なる勇猛心と捉えてはいけないと思う。後に修行により到達した鉄舟の人間力にオーバーラップさせて考えれば、現在、我々が失った、反省させられるべき、気づき多き人間の底流・原点を述べているものである。


投稿者 Master : 2008年02月06日 10:43

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