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2007年08月06日
父の死と遺された三千五百両
父の死と遺された三千五百両
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄太郎(鉄舟)に両親の死が突然、訪れた。16歳の時、母磯の死、その五ヵ月後に父小野朝右衛門の死、相次ぐ両親の死は鉄太郎のもとに五人の弟の養育という任務を残した。その時、末弟の務は二歳であった。まだ乳飲み子である。
ここで特筆すべきことは、父である小野朝右衛門が亡くなった年齢、それが七十九歳であったということである。飛騨高山代官所の郡代である人物の年齢が七十九歳という事実、そのことに驚きを禁じえない。七十九歳まで現役の代官であったということは、江戸時代の人材登用には定年制度というものが無かった、ということを示している。
小野朝右衛門は蔵前で御蔵奉行として六百石取りの旗本から、飛騨高山代官として赴任したのであるが、そのときすでに七十二歳であった。
この七十二歳という小野朝右衛門の事例は特別であったのであろうか。一例をもってすべてを判断することは危険である。
そこで、江戸時代の代官について研究した資料から見てみたい。資料は法政大学講師の西沢敦男氏による「徳川幕府のサラリーマン」(日経新聞2002年3月5日)である。これは「江戸の転勤族、代官の悲劇」と題して、代官の実態を分析したものであるが、まずは代官の実態についていろいろ説明しているのでご紹介したい。
これによると江戸自体に代官は1183人。代官を配置したところは政治的に重要な都市、軍事や交通の要衝、鉱山に天領を置き、四十七カ国に配置し、総石高は約四百万国。代官が執務する陣屋は、江戸中期には東北の尾花沢から九州の冨高まで六十三カ所あった。代官の一カ所の平均在任期間は六年、異動は二から三回。
現在の財務省にあたる勘定所に所属し派遣された。派遣先の地元では「殿様」と呼ばれる身分であったが、一般的に代官の幕府内での地位は低かった。だが、無事勤め上げれば江戸での出世が待っていた。
派遣元の勘定奉行まで上り詰めたのは、江戸後期天明年間の久保田十左衛門政邦ら四人いた。長崎、境、函館などの遠国奉行に昇進した者も八人いる。幕末の竹垣三右衛門直道は代官から皇女和宮の用人になって明治維新を迎えた事例もある。
勿論、このような昇進組は三分の一以下で、病気や老齢で依願免職となった者が二十二%、自分や部下の失態で罷免、遠島、追放になったのは十二%おり、三十八%は在任中に死亡した。鉄太郎の父小野朝右衛門も在任中に亡くなっているが、一般的になかなか厳しい仕事であったことが伺われる。
さらに、代官と聞くとテレビの影響で、悪徳商人と結託した悪代官をイメージする人も多いが、実際には代官を恩人として顕彰した碑が残っているところが少なくない。例えば長野県須坂町で慶応二年(1866)まで代官だった甘利八衛門為徳を「甘利社」として祀っている。
さて、小野朝右衛門が亡くなった七十九歳の年齢、この年齢まで代官として現職であった事例は特別なのかということであるが、勿論、七十九歳は当時では相当の高高齢であったので、通常でないことは容易に推測つく。しかし、江戸中期の平岡彦兵衛良寛は元文元年(1736)の美作代官を皮切りに、駿河代官まで九カ所を勤め上げ、最後に退任したのは寛政元年(1789)で、この時の年齢は喜寿の七十七歳であった。この平岡彦兵衛良寛が西沢敦男氏調査で、最高転勤回数人物として記録に残っているが、喜寿で退任した事実から、小野朝右衛門に近い高齢者代官が存在したことを証明している。
という事実は何を意味しているのか。当時でも周りには若い旗本が大勢いたはずであるが、その中で高齢者に重要拠点である代官所の行政責任を任せるということ、それは年齢によって人を差別せず、人物本位の人事が行われていたということを証明している。江戸時代には定年制度が存在していなかったのである。能力があっても年齢で統一的に第一線を退去させるという現代の定年制度を、改めて疑問視させる。
さらに、鉄太郎の父小野朝右衛門について驚くことがある。それは鉄太郎が誕生した時の小野朝右衛門の年齢である。六十三歳である。母磯が三番目の妻であって、二十六歳という若さで鉄太郎を産み、それから五人も男子を産んでいる。母磯がいくら若いといっても、父小野朝右衛門が七十七歳の時に末弟の務が生まれているのであるから、そのエネルギーには驚かされる。
またさらに驚くのは、母磯と結婚した時の父小野朝右衛門の年齢が、現代の定年年齢である六十歳を過ぎていたということである。現代の通常の感覚で考えれば、六十歳以後は第二の人生ということで、生活設計を見直すことが行われるが、改めて定年を機会に結婚する人は殆ど見当たらない。
しかし、父小野朝右衛門は、小野家所領地の管理を塚原石見に依頼していた関係で、塚原家の娘である磯を見初め、結婚を申し入れしたのである。六百石取の旗本であっても、六十歳過ぎの男と三十歳以上離れた若い娘の磯との結婚は難しく、結婚するに当たって「生涯不自由はさせない。倅の代になっても粗略にすることはないことを申し渡す」という念書が交わされたという。それだけ魅了した磯であったのであろう。
しかし、それだけエネルギッシュな父小野朝右衛門にも死は訪れる。亡くなったのは黄疸とも、脳溢血とも言われ、その唐突な死に自刃説も流れた。
だが、七十七歳で鉄太郎の末弟の務をもうけるほどの小野朝右衛門が、簡単に病気で亡くなるはずがないと思う。死因は病気であってもそこにいく着くプロセスに何らかの理由があったはずである。そうでなければ六人もの子ども、それも乳飲み子まで残している状況では、この子が育つまでは何とか元気で生きよう、と思うのが通常の父親の感覚だろう。
しかし、父小野朝右衛門は母磯の死後五ヶ月で急死してしまった。七十歳を過ぎてから重要拠点である飛騨高山代官所を任せられるほどの人物であるのに、あまりにもあっけない。何かの事情があるはずで、このところから自刃説が言われているのであるが、鉄舟は後年「父は脳溢血で死んだのだ」(『おれの師匠』小倉鉄樹 島津書房)と語っているのであるから、やはり病気で亡くなったのだろう。
とすると元気であった人が突然亡くなるには、何らかの心的な要因があるはずである。それは妻磯の死であったと思う。前号で分析したように磯は「家刀自」であった。家刀自とは久しく聞かない言葉であるが、代官としての夫小野朝右衛門の行政内容には口は挟まないが、肝心なところは家刀自として配慮し支援し、子供の教育にも熱心に情熱を傾ける。家庭内の雰囲気醸成と責任行動分配権限が、実は母であり主婦である磯にあり、実体的な家庭運営者は磯だった。つまり、人が日々の暮らしを生きるというその生活の中枢に、女性が位置しているという、伝統世界の女性の力を代表することを「家刀自」と言うのであるが、これが飛騨高山代官の小野家の実態だった。
その家庭運営の統率者であって統率者であって責任者であった母磯の突然の死、その打撃は鉄太郎以下の兄弟よりも、父小野朝右衛門に大きな影響を与えたのである。今まで心の支えであり、相談相手であり、実質的な家庭運営者であった磯を失ったことは、高齢である朝右衛門の精神状態に厳しく圧し掛かってきた。飛騨高山代官所の行政にも情熱が湧かなくなったのであろう。それが磯に続く小野朝右衛門の突然の死の真因ではないかと思う。
精神力の衰えは身体に影響する。死期が訪れたことを知った朝右衛門は、枕元に鉄太郎以下兄弟を呼び「わしは間もなく逝く。まだ幼い弟たちをそちの任せるしかなくなったが、鉄太郎ならば立派に育ててくれるだろう」と、鉄太郎の手を握って後事を託し、大きな息を吸うと、そのまま息を引き取ったのであった。
両親を失った鉄太郎の手許には三千五百両というお金があった。父母が遺してくれた財産であった。
この三千五百両、現在の円に換算するとどのくらいになるか。それを検討してみたい。
江戸時代のお金を今の価格に当てはめるのは意外に難しい。それは、①江戸時代は金貨、銀貨、銭貨の三種類があって、それぞれが別相場となっていたからである。一つの国の中に円とドルとユーロが共存しているような関係であり、②江戸時代の前期と後期では改鋳によって品質が低下していき、貨幣価値が変動し、③飢饉の頻発があり、その都度物価が高騰し、場所や季節によって貨幣価値が変わり、④今とは経済財貨の内容が異なるので、一概に物の価格を持って換算できない等の理由であるが、それでもいろいろの方法で換算してみないと、鉄太郎が両親から受け継いだ三千五百両の価値が判明しないことになる。
そこで、いくつかの仮説前提ではあるが算出してみたい。
年代を比較的に物価が安定していた文政時代(1818~1829年)でみると、金一両=銀六十~六十五匁=銭六千五百~七千文であって、これで江戸の食べ物を基準に換算してみると一両=四~二十万円、平均をとると十二万円、労賃を基準にすると一両=二十~三十五万円、平均とると二十七万円となる。
遺産三千五百両は食べ物を基準で四億二千万円(三千五百×十二)、労賃を基準で九億四千五百万円(三千五百×二十七)となる。現在ではちょっと考えられない大金を父母が遺したことになる。
次に、貨幣の価値算定は大変難しいという前提付であるが、日銀貨幣博物館のデータを参考にしてみたい。一応の試算として江戸時代中期の米価基準で一両=約四万円、労賃基準で約三十~四十万円、そば代基準で十二~十三万円としている。ただし、米価基準による一両については、江戸時代初期で十万円、中後期で三~五万円、幕末時期で三~四千円と、時代によって大きく較差があると注記している。
この基準を基に三千五百両を計算してみると、米価基準で一億四千万円(三千五百×四)、労賃基準で十二億二千五百万円(三千五百×労賃基準の平均値三十五)、そば代基準で四億二千万円(三千五百×十二)となる。
そこで幕末時期の一両=三千円で計算してみると千五十万円となるが、これでは少なすぎると感じる。鉄太郎の父小野朝右衛門が亡くなった嘉永五年(1852)は明治維新の十六年前であり、ペリー来航(1853)の一年前であるから、幕末時期直前であるので、この千五十万円は除外して、計算した金額を高い順から整理してみると、十二億二千五百万円、九億四千五百万円、四億二千万円、一億四千万円となる。いずれにしても大金で、現代の普通のサラリーマンの退職金は足許にも及ばない金額だ。この試算結果が妥当かどうか、それは読者の判断にお任せしたい。
さて、鉄太郎には五人の弟が残され、まだ末弟は二歳の乳飲み子であったが、代官としての父の死は、飛騨高山代官所の住居を引き払う必要があった。父小野朝右衛門が亡くなったのは嘉永五年(1852)の二月で、「発喪されたのは死後四ヵ月後」(『おれの師匠』小倉鉄樹 島津書房)とあるように、鉄太郎は父小野朝右衛門の死後、何らかの理由で後片付けに時間を要し、江戸に戻ったのは七月となった。兄弟六人が身を寄せたのは、異母兄である小野鶴次郎(小野古風)の屋敷であった。
戻った江戸では、異母兄の小野鶴次郎夫婦から冷たく扱われ、二歳の末弟の乳探しと育児等、鉄太郎の奮闘・苦労が続くのであるが、鉄太郎に遺された三千五百両、今の価格で破格の金額と思われる大金は、両親がどうやって蓄財したのか、また、それを鉄太郎はどのように使ったのか。そこに鉄舟の生き様が顕れている。次回に続く
投稿者 Master : 2007年08月06日 03:49