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2007年12月06日

人間の出来が違う

人間の出来が違う
    山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟は晩年「世間は吾が有、衆生は吾が児」、即ち「世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるものは、すべて自分の子供である」という境地に達した。宇宙界のすべての現象が我が身と直結しているという、空恐ろしいまでの心境である。

何故に鉄舟がこのように、計り知れない心境にまでなり得たのか。それを解明する糸口として、少年時代と青年時に認め記した「修身20則」と「宇宙と人間」について前号と前々号で検討した。

今回は、もう一つ鉄舟が若き時に書き残した「心胆練磨之事(しんたんれんまのこと)」について検討してみたいが、その前に鉄舟が扶育係として、二十歳から三十歳までの十年間携わった明治天皇への影響、それを明治天皇の「御真影」を基に考えてみたい。

江藤淳氏は明治天皇について次のように述べている。(『勝海舟全集11巻』講談社)

「ほんとうは明治天皇は和服がお好きだったそうです。自分一代は和服で通したいといっておられたそうです。ところがそうもいっておられなくなった。日清戦争のときには一日も軍服を脱がれなかったそうですが、あれ以後、公の場所では常に軍服でおいでになった。この逸話を拝見しても、明治天皇には非常に強い使命感があって、自己改造をなさったんだと思うのです。その自己改造の過程で、公家的なものに武士的なものが焼きつけられた」 
と述べ、その自己改造結果の論拠として、明治天皇の「軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真」を挙げている。

この「けいけいたる眼光」の写真、これは当時広く全国の学校に配布された「御真影」であった。この写真の前で幾世代もの子供たちが最敬礼したのであるが、実はこの写真は明治天皇の実物写真ではなかった。それは肖像画を写真に撮ったものであって、肖像画があまりにも真に迫っていたので、すべての人々は、それを写真と信じたのである。

明治天皇は終生の写真嫌いであったと言われている。明治天皇を撮影した最初の写真は、明治四年(1871)横須賀を訪れたときの記念写真で、このときは「小直衣(このうし)に切袴を着け、金巾子(きんこじ)の冠を被った」、まだ断髪されていない姿であった。この写真は記録として明治天皇紀にあるが公開されていない。天皇の断髪は明治六年(1873)三月であり、このときに始めて洋風に断髪され、同年十月、内田九一によって撮影されたものが、その後十五年間に渡って外国の君主に贈られた写真となった。二十一歳であった。

明治二十一年(1888)、三十六歳となられた明治天皇の肖像が、二十一歳のときのものでは相応しくないと考えたと推測するが、宮内大臣土方久元は外国皇族、貴賓に贈与するために、新しい最近の肖像写真が必要と判断し、印刷局雇のイタリア人画家エドアルド・キョッソーネに、天皇に相応しい肖像画を作成依頼した。最も手軽な方法は、天皇の写真を撮ることであった。

しかし、伊藤博文が宮内大臣時代、何度も肖像写真の撮影を奏請したが、その都度写真嫌いの天皇に断られていたので、土方はキョッソーネに密に天皇の顔を写生させることにし、その適切な機会を待った。

好機は一月十四日に訪れた。弥生社行幸で御陪食のときに、キョッソーネは襖の陰に隠れ、正面の位置から竜顔を仰ぎ、その姿勢、談笑の表情に到るまで細心の注意を払って写生した。このようにしてキョッソーネが描いた肖像画を気に入った土方は、それを丸木利陽に写真撮影させ、天皇に奉呈するにあたり、事前に許可を得なかったことをお詫びしたが、天皇はこの写真を見て、無言のまま良いとも悪いとも言わなかった。

このときちょうど、某国皇族から天皇の写真贈与の請願があり、土方は天皇にキョッソーネが描いた肖像画写真に署名を求めた。天皇は写真に親署した。これをもって天皇が気に入ったと判断し、それ以後はこの肖像画写真が使われるようになった。(参考 ドナルド・キーン著『明治天皇』新潮社)

この肖像画写真を江藤淳氏が「けいけいたる眼光を光らせておられる」と表現しているわけであるが、確かに鋭く光り輝く眼光が偉大なる明治天皇を現していると感じる。

明治天皇については様々な称賛の言葉が語られているが、身近で天皇を知る人々に共通しているのは「抜群の記憶力」である反面、明らかに「いわゆる知識人」ではなかったと言う。また、論語の「剛毅木訥仁に近し」、つまり、意志が強固で飾りけがなく、口数の少ない人物で、人として最高の徳である仁に近い人物であり、常に沈着冷静であったと言われている。

この人物評価から、これに近似した人物として誰を想起されるだろうか。それは、明らかに鉄舟である。鉄舟は悟りの境地へ辿りつくため、生涯、修行者だった。その鉄舟の生き様と明治天皇はイメージが重なり合う。

天皇が二十歳から三十歳までの最も重要な人間育成期に、鉄舟との御酒宴を「御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた」と語られた十年間、御傍近くに仕えたことで、天皇の治世精神に何らかの影響を与えたことは容易に考えられるし、その結果が「けいけいたる眼光」の「御真影」につながっているとも推測する。

なお、キョッソーネが日本滞在中に蒐集した美術品の数々は、現在、イタリア・ジェノヴァ「東洋美術館」で公開されている。それを実際にジェノヴァに行き見学してみたが、丁寧な展示と優れた保存状態であって、明治天皇の肖像画制作者としてのキョッソーネが持つ日本に対する気持ちが伝わってくる。皆さんも是非行かれると参考になると思う。因みに、キョッソーネは天皇から感謝のしるしと思われるが、晩餐に二度招待されている。

さて、鉄舟は二十三歳、安政五年(1858)三月に「心胆錬磨之事」、五月に「宇宙と人間」、七月に「修心要領」を、二年後の万延元年(1860)三月に「武士道」を認め記している。これらを併せ読み、考えてみると、この安政五年から万延元年までの二年間は、鉄舟の思惟基盤構築の年であったと感じる。
今回は「心胆錬磨之事」を紹介するが、長文であるので全文を紹介することは省きたい。ご興味のある方は「『山岡鉄舟・剣禅話』徳間書店」を参考にしていただきたい。

「心胆錬磨之事」の出だしを口語体に直し、紹介すると以下のとおりである。

「ひとたび思いをきめて事に当たれば、猛火の熱も厳氷の冷たさも、弾の雨も白刃も気にかからなくなってしまうものだ」とある。しかし、

「世間では、こういうような人間をさして気魂の豪気な者と思い、あれこれと称賛してやまない。だがわたしは、これをほんとうの豪気と思ったことは一度もない」と言い、

「ほんとうの豪気というものは、問題に当たるときに心を決め、それから大いに奮闘するというようなものではないのだ。『やるぞ!』と決意しないうちからすでに決意しているところがあるということ、

つまり、決意するとかどうとかをまったく考えていないのがほんとうの豪気なのである」と続けた後に、「ほんとうに胆が豪であるものは、時と事らに応じて縦横に変化することをいうのであり、人間にはその詳しい経過を知ることができないのである」と述べ、

「では、どのようにすれば胆を豪気なものにすることができるのか。まず第一に、思念を生と死のあいだに潜めてしまうことであり、生と死とは一つことに帰着するということを知覚するのである」と結論付けしている。だが、

最後に自省として
「わたしは小さいときから心胆錬磨のことをいろいろ工夫してきたのではあるが、いまになっても真理をつかむことができない。それは一つには、自分の熱意が足りないからであろう。これを書いたのは、自分で感じたところを楽書しておいたのである。修練の余暇には、ときどきこれを読んでみて自分を励まし、いっそう勤勉して心胆錬磨の源に到達しようとするものである」と終わっている。

上記の「思念を生と死のあいだに潜めてしまうこと」、この境地に達するために、生涯、鉄舟は禅修行に打ち込んだ。鉄舟の禅は実学であるから、禅の理は直ちに剣の道に試みられている。大森曹玄先生は、このことを「剣禅の道」と称するのが正しいと述べられている。(『山岡鉄舟』春秋社)

ところで、この「心胆錬磨之事」に対して勝海舟が評論しているのが「英傑 巨人を語る」(日本放送協会)である。これは昭和十七年の安部正人編で、初版の序は鉄舟長女の山岡松子が述べ、校閲は高橋泥舟という豪華さである。

この中で、海舟の評論が面白いので紹介したいが、この内容は江藤淳編「勝海舟全集」(講談社)には収められていないことを付言しておきたい。

まず、海舟は次のように述べている。

「全体、山岡という男は正直熱性なる方だから、何事でも子どもの頃より信じた事はむやみに熱中した形跡がみえる。こんな事は一方から見ると、馬鹿の骨頂だ。しかし馬鹿もあれくらいな馬鹿になると違う所があるよ。なに山岡だって、他人だって、別に異なることはないよ。このくらいなことは、少し考えのあるものは誰でも書けるよ。彼がその当時より、後日の山岡鉄舟に成るのだと予期していたわけでもあるまいよ。またそんな思いがあるようでは、とても本当にやれるものではない。何でもかでもやろうと決心したならば、名利に執着せず、吾我を忘れて、その事に忠実なるを要するのだ。しかる時はついにはその道の源に到着することが出来るものだ」

更に続けて

「何事に限らず、何業によらず、その一芸に長じたるものには、確かにある道筋を往来している人だ。ところがそこに精神上の極意が存在するのだ。それは外でもない。一芸に長じたとて、他芸は必ずしも出来るものではない。けれども各芸ともになすべき精神上の呼吸は同じだということが分からなければ駄目だ・・・(途中略)・・・真に一芸に長じ得たものならば、自ら他芸をなさずとも、他芸もまた必ず同一呼吸の存在するものだということは、承知せられるものだ。これは単に技芸の事ではないよ。人間処世の活道はここにあるのだ。おれが禅機は万機に応用出来るものだということは、ここいらの意味さ」

さすがに幕末維新を生き抜いた苦労人だけに、軽妙洒脱で言外に妙味がある。禅修業についても次のように述べている。

「山岡が禅学修行の為、江戸より箱根を越えて伊豆の竜沢寺まで往来し、また剣法修行のため、飲食を忘れて昼夜を徹したこともしばしばであったそうだ。おれらも、十七、八の頃より、馬鹿正直にも剣師島田虎之助の教えを守って、寒中に稽古着一枚で、王子権現の社に到って、徹夜木剣を素振りするやら、あるいは牛島の広徳寺に到って、坊主と共に禅堂に座ったり、このごとくして得たるところの精神上の利益は、なかなか大なるものである。しかしこれはただ一場の口演に述べつくさるものでない。決して口では言われないよ」

最後に次のように締めている。

「山岡でもこれを書いた当時は、五里霧中でありながら、一生懸命であったに違いない。和尚も小僧の成り上がりだからなあ。心身の養生法などは、理屈ばった法律ずくめや、憲法政治でゆくものではない」この最後のところ、これにホッとする。確かに「和尚も小僧の成り上がり」で、最初から大和尚はあり得ず、鉄舟も海舟も天性に加えて、命をかけた修行をしたから、あの偉大な功績を遺せたのだと思う。

しかしながら、鉄舟が二十三歳でこの「心胆錬磨之事」から「武士道」まで一連の思惟基盤をまとめ得たということは、やはり鉄舟は「人間の出来がもともと違う」と思わざるを得ない。

投稿者 Master : 2007年12月06日 10:26

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