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2012年07月15日

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七

痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の七
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

東日本大震災時に示された被災地の日本人行動が、世界から賞賛された。という事は他国では、このような行動がなされ難いという事実を示し、日本人が持つ独自の特色・徳目だという事になる。

ところで、その賞賛された行動はどこから発現されたのか。日本人の中に流れている原点的な存在から生じているに違いないが、それが何であるか。そのところの分析を、鉄舟研究をしている者として、いずれ解明したいと考えているが、武士道精神が絡んでいる事は間違いないだろう。

武士道とは、江戸時代265年の歴史によって、鍛え上げ創造した美的精神像でありながら、それが体系化されず、成文法として存在しなく、せいぜい口伝によるか、著名な武士や家臣の筆になるいくつかの格言によって成り立っているところに特性がある。

さらに、江戸時代の武士の人数、これは明確化されていないのであるが、多分、人口比5%に満たないと思われる武士階級の中で培われてきた思想的精神が、江戸時代を終えて143年も過ぎた東日本大震災時という突発時に、被災地の一般大衆国民の中で突如一斉に顕れたとすると、これまたその要因背景を解明しなければならない。

その解明は今後になるが、ひとつ考えられるのは「自己犠牲」という武士道の本質にあたる重要徳目「個人よりも公を重んじる」精神が影響している事である。

米欧世界では基本的に個人主義が特長で、父と子、夫と妻であっても、それぞれに個別の利害を認めている。したがって、人が他に対して負う義務は、日本に比較し明らかに軽減されている。

それに対し、武士道では一族の利害と、その個々の成員の利害は一体不可分である。即ち「私(わたくし)」に奉じず「公(おおやけ)」に奉じるのである。これは「滅私奉公」というような言葉として受けとめられやすく、今の時代では封建時代の不合理なものであると勘違いしやすいが、本来の意味は「私心」を捨てて「公」につくすという「高い(ノブ)身分(レス)に伴う(オブ)義務(リージュ)」精神を意味するものだ。

このあたりの解説を三島由紀夫が次のように述べている。(「最後の独白」前田宏一著)

 「サムライの条件は三つある。第一は『セルフ・リスペクト=自尊心』、第二は『セルフ・リスポンシビリティ=自己責任』、第三は『セルフ・サクリファイス=自己犠牲』。

よく外国人の作家や映画評論家、音楽家に聞かれるのだが、『サムライ精神は危険だ、ミリタリズム、ナチズムになりかねないんじゃないか』という。わかってないんだ彼らには、サムライというものが、ね。アウシュヴィッツの所長にもドイツ人としての誇り=セルフ・リスペクトはあったろうし、体制の中で自分が行わなければならんという、命令に対する自己責任感=セルフ・リスポンシビリティもあっただろう。しかし自己犠牲=セルフ・サクリファイスがなかった。 自分の命を懸けてでもそれを止めようという精神はなかった。これのないものは”サムライ精神“とは大きく違うのだと説明してやるのだが、わからん。だいたい”ミリタリズム“ってのは、ヨーロッパから入ってきたものじゃないか。日本にはなかったものだといってやるが、理解できん。武士道とミリタリズムはまったく違うものだ。サムライはそんなものじゃない。一人ひとりが、”自己犠牲の精神で生きる“ ”一個の完璧な連環を形成“していた、それが武士なんだ、といっても西洋人にはわからん」

 この発言は、昭和45年(1970)11月25日の三島由紀夫自決の一週間前に、著者の前田宏一氏、当時週刊ポストの記者で三島由紀夫にインタビューした時のもの。

 さすがに三島は的をえていると思う。自己犠牲が武士道の重要徳目と理解している。

 日本の武士道が、世界に知れ渡る事になった契機は、新渡戸稲造が1899年(明治三十二年)にアメリカで英文による「BUSHIDO,The Soul of Japan」を発刊した時からである。

日本語版は、翌年の明治三十三年(1900)に「武士道」として出版されたが、この出版タイミングに伴う妙な関係が浮かび上がってくる。

それは、今まで検討してきた福沢諭吉の「痩せ我慢の説」が、新渡戸稲造「武士道」日本語版の翌年になる明治三十四年(1901)になって、時事新報に掲載され出した事である。福沢は既に十年前の明治二十四年(1891)に書き終えていたのに、どうして新渡戸稲造の「武士道」の翌年に持ちこされたのだろうか。

その理由として一般的に言われているのは、福沢が二、三の親友に極秘として見せたが、その一人の栗本鋤雲が知人にも見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治34年一月一日から時事新報に掲載を始めたというものである。

だが、もう一つ妙な事に「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」、つまり「鉄舟武士道」が「痩せ我慢の説」の翌年、明治三十五年(1902)一月に出版された事である。明治二十年(1887)に、四谷仲町の自邸で門人等に講義を行ったものであって、出版までに十五年間要している。

整理してみると、明治三十三年に新渡戸稲造、三十四年に福沢諭吉、三十五年に鉄舟と、三年続けて武士道関連が出版されているのであるが、これは偶然な事なのだろうか。それと何かの意図があったのであろうか。

この検討には当時の状況を振り返ってみないといけない。当時の日本は明治二十八年(1895)に日清戦争勝利し、明治三十五年の日英同盟という世界の大国であるイギリスと同盟関係として結びあうことで、欧米列強の仲間入りをしようとしていた。

また、この日英同盟から二年後の明治三十七年(1904)に日露戦争を迎えるのであるが、対ロシア戦争準備を進めて行けばいくほど、科学的合理主義で国づくりしている欧米列強の力が分かってきて、ロシアに勝利するためには日本を西洋的価値観の国に変換して行かねばならぬ、という想いが強くなっていく。

一方、日本の伝統的価値観を無視し、軽視して行くことは、民族(エー)精神(トス)を失って、日本という国が変質してしまうという主張も強く指摘されてきた。

そのようなタイミングに新渡戸稲造が日本人の伝統的(アイデンテイ)精神(テイー)として「大和魂」を謳い、それが外国で日本が理解される重要なファクターとなった事が、明治維新からの「文明開化」で「日本人とは何か」を忘れかけていた明治の知識人にショックを与えた。

新渡戸「武士道」が外国人に受け入れられた背景としては、欧米との思想的比較文明論として武士道を体系化し紹介した事と、外国人の立場に立ち、外国人が分かりやすい論理展開によって述べた事が大きい。

さらに、英語版に続いて翻訳版がドイツ語、フランス語を始め様々な言語で、多くの国で出版される実態を見て、当時の日本人の方が、改めて武士道精神を見つめ直す必要性に気づいたのである。

その結果が、福沢が十年前に書いてお蔵入りとなっていた「痩せ我慢の説」を引っ張り出し、鉄舟が十五年前に講義した記録を「鉄舟武士道」として世に出したのだと推測する。

加えて、新渡戸稲造はキリスト教徒であって本来の武士ではない。サムライではない者が外国人向けに書いたもの。その文面に江戸期の精神を色濃く残す当時の日本人にとっては、新渡戸武士道は何か西洋的なものを感じる。要するにバタ臭いのである。

そういう立場で、今改めて読みなおしてみると、引用には多くの外国文献が使われているし、訳文の影響もあるだろうが、言い方も回りくどいように感じる。もっと直截・端的に武士道を語れないか。それも本物のサムライが述べ書いたものが欲しい。これが当時の明治人たちが持った素直な感覚であったであろう。

その要望に応えたのが鉄舟武士道であって、鉄舟は自分の生き方を真っ直ぐに披瀝している。剣禅書の三位一体の人物、明治中期に衆目一致した武士道的生き方実践者が、日本人に対して教訓として述べたのである。当時は新渡戸武士道より、鉄舟武士道の方が人気も出版部数も多かったのではないかと、これまた推測している。

だが、ひとつ新渡戸武士道について擁護したい事がある。

それは平成時代の人々が、新渡戸と鉄舟の武士道を読み比べると、新渡戸の方が理解しやすいという事実である。現代人は戦後の欧米感覚を取り入れた義務教育で育てられたので、新渡戸の展開する体系と論理の方が、明治期の人々よりは受け入れやすい。加えて、戦後の「国語改革」による漢字制限に始まる当用漢字の変遷もあり、鉄舟は読み難い部分が多々ある。さらに、新渡戸は原文が英語であるから、当然であるが訳文はその時代に使用されている表現文字言語になるので、現代人には読みやすく分かりやすいという事になる。

対する鉄舟については、勝部真長氏が次のように述べている。(山岡鉄舟の武士道)

「とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。
鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年に『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」

大悟という境地から発した武士道講義であるから、歴史認識に浅い現代人には新渡戸武士道よりは分かりにくいというところが多々あるが、しかしながら、さすがに鉄舟は違うという事をこれから展開したい。

鉄舟宅にて門人を前に語り出す。

「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか、あるいは同じようなことで、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とか、言いかえれば種々あって、これらの道を実践躬行(きゅうこう)*する人をすなわち、武士道を守る人というのである。私もそれには同意である」

ここで鉄舟らしい言葉をつなげる。

「しかし私にはなお、他に自信するところがある。その義も似たようなことであるが、物あれば則(のり)*ありというように、人のこの世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。ゆえにその道の淵源(えんげん)を理解しなければならない。これを学理的に理解しようとするならば、一朝一夕の業ではないが、私はわが国の前途がすこぶる思われてならない。それゆえに国民である以上は、上は大臣首相から下は片山里の乙女、童児に至るまで、だれでも心得ねばならぬと思っている。その一部分を物語るから、それらの話をとくと味われて日本人の武士道ということを理解してもらいたい」

次に、鉄舟が武士道を悟り体得した源を語る。

「ここに一言申しおくことは、日本の武士道ということは日本人の服膺践(ふくようせん)行(こう)すべき道というわけである。その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩(父母の恩、衆生の恩、国王の恩、仏法僧の三宝の恩)の鴻(こう)徳(とく)(大徳)を奉謝することに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。これすなわち武士道の発現地である」

さらに、今の時代にも当てはまる苦言も述べる。

「今日の役人どもごときは、給わる月給をいただくというよりは、月給泥棒ではあるまいか。彼等が大臣の椅子をほしがるのは、その要路にあって国家のために身命を投げ捨てて、至誠奉公するというのではなく、名利情欲が目的ではあるまいか」

「はなだしい不徳不義の徒の放言には、今日は法律があるから、法律の範囲内において権利を主張するのは、いささかの支障はないという具合」

「いったい法律というものは、社会の制裁上、人為的の仮条文には相違ないけれども、衆人集まりて済世するうえにおいては、また止むをえないことである。しかしながら、法律なるものは、人類霊性の道義の観念にまで、手だしをするものではない。否、力の及ぶものではない。この及ばないところを霊(れい)活(かつ)な精神作用をもって補わねばならない。ここがすなわち武士道の活用所である。かえすがえすもここに注意をしてもらいたい」

鉄舟は明治維新も武士道が導いたと強調する。

「維新の大業はいかにして出来たかと尋ねれば、その起因がなかなか深い。一言にてこれを言えば、武士道で出来たといえばたるようだが、これでは渺茫(びょうぼう)として理解に苦しむであろうから、今少し説明しておく」

ここで朝廷の位置づけにふれる。

「思うに政権武門に帰し、そのために武士が信用を世界に博したから、ばか者の考えには、武門のあることだけ知って、高い皇室のあることは忘れている」

次に武士についてふれる。
「さて、もののふというものは、出所進退を明らかにし、確乎(かっこ)として自己の意志を決した以上は、至誠もって一貫するのが、真の武士でまた武士道でもある。サァ世界が妙になってきた。あるところには、尊皇論と声高く、攘夷論と馳せまわる。あるいはしきりに、開港論を唱えるものがあり、また、あるいは佐幕だとか、討幕だとか、出没窮まりなく、国内一円旗幟堂々、目を当てられぬありさまとなった」

「世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない」

鉄舟にかかると各主義は全部勤皇となり、ここで鉄舟はいよいよその本質を述べる。

「維新の鴻業(こうぎょう)をなさしめた親様は、薩長云々のことはだれでも言うことだが、拙者のいうことも聞いてもらいたい。その義は、産母を幕府だというのである」

「拙者が、幕府を開国進取の鴻業者と言えば、薩長各藩のごときは、一功もないではないかと質問せられるかもしれぬが、世人もあまり子どもばかりでも困る。話の真相をうかがってもらわねばならない。

さて幕府を維新の元由者というのは、かの外船渡来以来、海防の設備騒ぎのころ、彼らの事情を考究させるため蘭学の修業者は多く幕府において仕えて、それらの余波はついに外交政治の機関に活用して、暗々の間に開港の誘導者となり、かの渡邊崋山が、『鴃(げき)舌(ぜつ)小記』『慎機論(しんきろん)』等を著わしてロシアと交通するべしと論じ、勝安房が『外交余勢』を論じ、高野長英が『夢物語』を著わし、その他種々これら各書は、当時の士気を誘発せしめたことは非常なものである。あるいは造船航海術修業のため、榎本釜次郎をオランダに学ばしめ、勝麟太郎(安房)長崎に行きオランダ人について海軍術をきわめ、高橋泥舟や、拙者輩をして講武所を開いて武士道を奨励せしめ、その他海軍操練所とか、蕃書取調所とか、あるいは小栗上野、大久保一翁等に内外時勢の運を視察せしめたなど、開国進取にとっては、いかに貢献したかはひそかに思われるではないか。しかして当時このような業作は、四方大反対の気焔(きえん)をもって、打ち殺せだの、刺し殺せだのとて尋常一様の話ではない。それを勇断して大胆に決行した連中等を思えば、真にその苦労のほどが千万流涙にたえない。ああ、実に忠君愛国の士で、朝日ににおう山桜とは、誠にこのような武士で日本魂のある神州健児といわねばならぬ。あるいは妙にののしる者もあるかもしれぬが、とかく拙者は感謝の意を表して、ここに一言注意を加えておく」

この程度で鉄舟武士道の引用はやめるが、鉄舟にかかっては、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」はどこかに吹っ飛び、海舟への批判「あらかじめ必敗を期し」と、榎本への批判「二君に仕えた」という指摘などはごく細かい問題になってしまうのだ。

剣・禅の凄まじい修業を通じ、淵源に辿りつき、無我の境に入り、真理を理解し、大悟した鉄舟から見れば、つまり人間の生きる道での「上位目的」から検討すれば、福沢の指摘などは些細で大したことでない。海舟も榎本も日本国のために行動した武士道サムライであり、それを批判した福沢も、勿論武士道サムライとなる。鉄舟という人物はとてつもなく大きいのである。

次号は、鉄舟がいよいよ政治家として活躍する場面に入りたい。

投稿者 Master : 2012年07月15日 06:24

コメント

このころの日本人を見習いたいです。

投稿者 吉沢@幸運のススメ : 2012年07月28日 03:49

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