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2009年01月21日

貧乏生活・・・その五

貧乏生活・・・その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 日本経済も世界経済も、金融危機の影響で経済停滞に追い込まれた。これほど低迷するとは、「まさか」の実態で、これを例外問題状況として捉えるか、それとも米国経済が世界を引っ張ってきたトレンドの終焉と捉えるか、その判断が問われる事態となっている。

 だが、誰が見ても、明らかに例外状況の時代であったと判断できるのは、幕末時であろう。嘉永六年(1853)のペリー来航から15年間で、徳川幕藩体制という封建制度を壊し、明治という近代国家に変身させたのであるから、日本歴史の中でも特別の激動期間であったと思う。

 また、この15年間という時間軸を、ついこの間のバブル崩壊後の対応時間と比較するとよく分かる。現代の日本人は、バブル崩壊の処理に15年間を要した上に、銀行の不良債権を処理することが、バブル崩壊後の最適処方箋と理解するまでに、巨額の公共投資をし続けるという愚かな政策で、世界に冠たる赤字国債発行残高を抱えるという不始末をしてしまった。

 ところが、幕末時の日本人達は、たったの15年間で、明治維新という世界中から高く評価される、近代国家への無血大改革を行ったのである。

 それも開国と攘夷という激しい政治体制の闘いに加えて、嘉永から慶応までの期間は様々な災害・被害が発生した中での改革であった。

 安政元年(1854)11月は、4日間という僅かな間にマグニチュード8.4の安政東海大地震と安政南海地震、加えてM7.4の豊予海峡を震源地とする巨大地震が三つ、安政二年(1855)のM6.9の江戸大地震、安政三年(1856)の大嵐と海嘯(潮津波)、安政五年(1858)の江戸コレラ流行、文久二年(1862)の江戸麻疹流行、文久三年(1863)の江戸と大坂の大火、加えて、凶悪犯罪の多発と、諸国の凶作や物価高騰も激しく、全国的に大変な時代環境であった。

 特に、米相場は激しかった。ペリー来航の嘉永六年に米百俵の平均が49両であったものが、15年後の慶応四年(1868)には350両と7倍以上になった。この間、相場は騰がったり下がったりしたが、最も高騰したのは慶応三年(1867)の420両である。これでは庶民の生活は大変だったろうと思う。(参考「江戸の夕栄」鹿島萬兵衛著 中公文庫)

 このように、幕末15年間は、社会病理が連鎖する中で、徳川幕府体制が崩壊へ向かって、誰が次の政権担当能力を持つかということを問い続けた時代であった。つまり、それまでの鎖国体制下の太平の世とは、大きく違った非日常状態・例外状況の連続であった。

 その入り乱れた混迷例外時勢の中で、新たなる時代の主権者を定める舞台に、突如として無名の鉄舟が登場し、明治維新への一大活路を切り開いたのであるが、その役者としての鉄舟は酷い貧乏であった。

 既に貧乏話を長いこと続けたので、今回で終わりとしたいが、最後は攘夷との関係で検討してみたい。

 鉄舟の弟子小倉鉄樹が次のように語っている。(『おれの師匠』島津書房)
「武田耕雲斎が常陸に事を起して、山岡へ訣別に来た。帰りしなに耕雲斎が奥さんに、『お英さん、これで一生の別れだ。かたみに何か置いて行かう。』と、自分の體を見廻したが、締めていた兵子帯を解いて奥さんに置いて行った。それは新調のみづみづしい濱縮緬であった。貧乏で絹ものなど、手にしたことがなかった時、この餞別は奥さんには非常に嬉しいものであった。早速仕立てて腰巻にこしらへ上げた。
 ちやうどそれが仕立てあがった時、どうしても金のいることが起って、まだ一度も身に着けない腰巻を、質に入れなくちゃならぬことになってしまった。其後質から出したい出したいと思ってゐたが、とうとう出せずに流してしまった。
 それを考へると今でも惜しいと思ふと奥さんはよく語られた」
 
 貧乏するとオシャレもままならない。英子は女性としてとても残念だったろう。

 しかし、ここでおやっと思うことは武田耕雲斎の登場である。

 武田耕雲斎とは水戸藩士で、戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称され、徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、参政に任じられ斉昭の尊王攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた人物である。
 
 しかし、万延元年(1860)に斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、元治元年(1864)には藤田小四郎(藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、逆に小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に、天狗党の首領になってくれるように要請し、耕雲斎は初めは拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。

 だが、水戸藩内部抗争の激化と、それに介在した幕府から追討を受けることになった天狗党は、上洛して斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜に会い、尊王攘夷の志を訴え、朝廷に取り次いでもらい、生死を朝命に任せようと、八百名の将兵を率いて中山道を進軍したが、前途を彦根、大垣藩に塞がれていることを知り、道を北へ転じ越前に向った。このころから激しい吹雪と寒気に悩まされ、とうとう敦賀(越前国新保)で幕府軍に降伏した。

 降伏したのは、頼みの慶喜が鎮撫の役を買って出て、追討軍の総指揮官として、諸藩の兵に攻撃を命じるという事態を知り、すっかり失望し進退に窮したからであった。降伏後、簡単な取調べを受けた後、耕雲斎は小四郎と共に斬首の刑となったが、この時福井藩は残酷な首切り役を拒否し、その役目は彦根藩に任された。彦根藩兵は相手が桜田門外で前藩主井伊直弼が討たれた復讐だと、勇躍して斬首の太刀をふるったという。

 この斬首は合計三百五十名にも及び、さらに、耕雲斎の首が水戸に着いた日に、妻・二人の子・三人の孫も打ち首になった。

 この天狗党の処置について、安政の大獄でも死罪処分は吉田松陰以下八名に過ぎなかったのに、残忍極まるとの非難、加えて、水戸藩出身の慶喜の冷たさを厳しく責める見解もあることを付言しておきたい。

以上が武田耕雲斎の簡単な略歴である。これで分かるように耕雲斎は、当時の尊王攘夷運動のリーダーの一人であった。その人物が天狗党の首領となるに当たって、鉄舟に挨拶に来たのである。ということは、耕雲斎が挨拶に来た元治元年時点で、鉄舟は29歳、攘夷運動では知られた人物になっていたことが分かる。

 鉄舟と攘夷運動については、次号以下で詳しく検討するが、ここで攘夷思想について簡単に触れておきたい。それが鉄舟の貧乏生活と結びつくからである。

 まず、当時の攘夷という内容がどのようなものであったか。それを渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」から拾ってみたい。

 これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いて、それをまとめたものが「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」(平凡社)である。

 座談会は、慶喜を招じて座談応答する催しと、編集員が慶喜の邸に赴いて稿本について批正を仰ぐ場合とがあった。前者が本式の昔夢会で、これは十七回催された。後者は、いわば準昔夢会というべく、これは八回催され合計25回であった。

 この中の第七回の会、開催日は明治四十二年十二月八日、渋沢の兜町事務所で開かれたが、そこで攘夷のことが話題になった。参加していた旧桑名藩士の江間政発が、三日前に東久世通禧に会って聞いたという話を披露している。東久世通禧とは、文久三年の八月十八日の政変「七鄕落ち」の一人、つまり、当時の朝廷内強行攘夷論者である。

 「あの当時攘夷ということが流行しましたが、攘夷は夷を攘うということで、何でも眼色の変わった奴は、片端から斬殺してしまうというのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷、長州の攘夷、それから天子様の御攘夷と、こう三つと見まして、水戸の攘夷などというものは、私ども(江間)考えると本当の攘夷ではない、ためにするところあっての攘夷、あなた(東久世)はどうお考えなさるかと申し試みましたところが、長州の攘夷もそうだよ、何も攘夷をしたいというわけでない・・・。してみると攘夷ということは、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、そう言ってもよろしい」


 この「反対党を叩き潰す看板」という表現、これをそのまま受け入れれば、あの歴史に残る文久三年の八月十八日の政変は何であったのか。これは朝彦親王、近衛忠房らと薩摩藩・会津藩らの公武合体派によって緻密に計画されたものであって、長州藩と尊王攘夷激派が京都から追放された事件であった。

 これについてここでは詳しく論じないが、この政変の中にあった主導者の東久世通禧が、自らの攘夷思想を「争うための唱道」であったといっているのである。明治維新の熱も冷めた明治42年の頃であるから、往時の反省を込めて語ったのかもしれないが、この第七回の会に出席していたのは旧幕府側に立つ人物たち、いわば「叩き潰された」側だから、その通りというような雰囲気で会が進んでいる。
肝心要の慶喜はどう反応したかであるが、話が一段落したあたりで「攘夷にもいくとおりもある」と一言挟んだだけであった。

 ここで乱暴なまとめ方であるが、簡単にいってしまえば、当時の攘夷思想というものの本質は、幕府のやり方を批判するために使われていたということである。

 しかし、このような乱暴な尊王攘夷思想では、あの明治維新の政局を動かすだけの力にはなれず、改革は成り立たなかっただろう。

 では、幕末時において、全国津々浦々から草莽の志士がうねり生じた、あの強烈な改革への情熱の塊はどこから生じたのだろうか。そのためには「攘夷論」ではなく「尊王論」を検討しなければ分からない。

 天皇をもっとも価値ある存在とみなすという意味での尊王論は、江戸時代では通念となっていた思想であった。また、日本を中華とみなし、西洋を夷狄とする華夷思想も普通に論じられていた。尊王論は、国内の人間関係を君臣関係で位置づけようとし、華夷思想は、
国際関係を華夷関係という価値の姿として位置づけようとする。
 
 その意味で、この二つの思想は結合する関係を持っていた。したがって、外国勢力の圧力を強く意識せざるを得なくなって、「尊王論」と「華夷論」は結合し、ここに「尊王攘夷思想」が生れたのであった。
 
 こうした尊王攘夷思想を最初に唱えたのが水戸藩であった。その内容は天皇-幕府-藩主-藩士という封建的ヒエラルキーが設定され、武士は直接の君主に忠誠を尽くす、それが尊王思想であると意味された。この思想では、武士の尊王行為は幕藩体制を補強するものであっても、敵対化するものにはなり得ない。

 しかしながら、こうしたいわば佐幕的尊王思想を、体制破壊の尊王思想に変えた一人が、吉田松陰であった。

 吉田松陰の尊王思想特色は、天皇への個人的・主体的忠誠を重視するところにあった。松陰は、全国の日本人は、階級・身分にかかわらず、天皇に忠誠を尽くすものであるという「一君万民論」を説いたのである。

 このような尊王思想が、「国事」に深い関心を持ちながら、身分が低いゆえに活動を制限されていた下級武士に勇気を与えた。松陰の主催する「松下村塾」には、こうした下級武士が多く学んだが、それは松陰の思想が集めたのであった。

 このような尊王攘夷思想を求めた下級武士たちは、長州藩だけに限らなかい。彼ら草莽の志士は、天皇に忠誠を尽くすという一点に立ち、上下の身分を超え、藩の大小・区分を超え、横断的結合をもって幕末を動かしていったのである。


 ここで以前に紹介した「宇宙と人間」図について触れたい。鉄舟は二十三歳の若さで一つの思想体系を創りあげている。

 この「宇宙と人間」図を掲載するとページ数が増えるので省略するが、その内容を二〇〇六年十月号で次のように補足説明した。

 「安政の大獄(1858年9月)の四ヶ月前に『宇宙と人間』は書かれた。図では最初に『宇宙界』という言葉を持ってきている。当時の日本人で、まして封建社会の武士階級身分の人物が、『宇宙』という今でも新しい響きを持たせる言葉を使っていることに驚きを禁じえない。加えて、この図に徳川幕府という表現がないことにも、徳川家の旗本である立場からは奇異で斬新、とうてい考えられないことである。
日本国を天皇の下に、『公卿』『部門』『神官、僧侶、諸学者等』『農、工、商、民』と四区分しながらも、その区分間に身分差なく、公平に並べ扱っていることにも驚く。『上下尊卑の別あるに非ず』と、つまり、人間に本来貴賎の別はないことを明言している。民主主義という言葉と内容は、まだ日本には伝わっていなかった時代に、二十三歳の下級一旗本がこのように記しているのは驚くばかりである」


 ここで読者は何かに気づかれたと思う。それは吉田松陰の「尊王思想」との一致である。松陰は、全国の日本人は、階級・身分にかかわらず、天皇に忠誠を尽くすものであると説いたのである。鉄舟も天皇の下、身分差なく公平に並べ扱っている。同じである。

 鉄舟が松陰と出会った記録はない。小説「山岡鉄舟」(南條範夫)では、黒船見物時に鉄舟と松陰が会い、「草莽崛起論」を説かれたとあるが、真偽は分からない。

 しかし、松陰が唱道した思想が鉄舟に影響している可能性はある。当時の社会で松陰の名は響き渡っていたであろうし、その思想主張を漏れ聞く機会もあったであろう。

 そこで前号の疑問に戻りたい。西郷との駿府会談で示した鉄舟の「普遍的な公」とは、結局、幕府を潰すことにつながったのであり、これは、家族を犠牲にした貧乏とつながっているはずであるということである。

 結局、鉄舟は自らの生き様を「宇宙と人間」で書き示したように、天皇の臣民として生きる覚悟を定めていたのである。だから、鉄舟にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次となり、その延長から志向する思考体系は「臣民」であって、一個の自由な「人間」ではなかったということになる。いわば鉄舟は、いつも「臣民」としてのみ思考し行動していたのである。

 恐ろしいまでの徹した「尽忠」理念であって、これを貫く先には、当然に貧乏生活が存在したのである。

投稿者 Master : 2009年01月21日 12:50

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