« 鉄舟県知事就任・・・その六 | メイン | 明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の二 »

2013年01月25日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・その一

明治天皇侍従としての鉄舟・・・その一

鉄舟は、西郷隆盛の推薦により、明治五年六月十五日から、明治十五年六月二十五日までの満十年間、侍従として明治天皇に仕えた。天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時であった。

日本の天皇は今上天皇で百二十五代続いている。天皇制度は理屈や権力抗争で成り立ったものでなく、日本という国家構造体質と共に生まれた日本の核としての存在であり、日本が歴史的危機に陥った際に、いくたびも天皇のよって救われているように、天皇は日本の象徴である。

鉄舟が明治天皇の侍従に選任された経緯について、江藤淳氏が次のように解説している。

「天皇というのは元来、お公家さんの総帥ですね。明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです。・・・中略・・・
京都の朝廷のほうはどうかというと、古典的な教養はもちろんあります。有識故実とか、敷島の道、その他いろいろあるでしょう。しかし、武張ったことの下地はぜんぜんない。平安朝以来そういうことは北面の武士にやらせて、自分ではやらないたてまえですから。

そこで明治になってから、明治新政府をになった薩長中心の下級武士たちがはたと気がついたことは、天皇をこのままにしておいちゃいかん、天皇がみやびやかな、なよやかなものであってはならない。天皇にはもっと武士的になっていただかなければいけないということだったにちがいない。そこで山岡鉄舟が扶育係になります」(勝海舟全集11巻 講談社)

江藤淳氏は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤氏が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べている。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると、鉄舟が明治天皇を育成したことになる。

明治天皇は、その存在の非凡さ、それは威厳と慈愛に満ちたイメージを持ちつつ、数多くの国内外の問題と危機に対処した行為を意味し、そのような治世によって日本国民に納得感を与えられた天皇であられたと認識しているが、これに異論を唱える国民は少ないであろう。

また、明治政府で天皇と共に数々の改革を成し遂げた功臣たちにとっても、明治天皇は常に心の拠り所であったことは疑うべくもない事実であった。

仮に、明治天皇が改革時に逡巡し、ふらつき、浮き上がった軽薄な判断基準を持っていたならば、鎖国から目を覚ましたばかりでありながら、逸早く世界史の中に新たに位置づけられた明治時代の日本という、歴史の一ページは無かったはずである。

その偉大な治世者としての明治天皇の扶育に、鉄舟が重要な貢献を成したこと、これは鉄舟の生涯業績として賞賛すべきものである。

だがしかし、天皇に鉄舟のような武士階級出身の一般民間人が侍従として仕えること、それが明治初年当時、簡単にできたのであろうかという疑問が湧く。何かの大きな改革が断行されなければあり得なかったはずで、今上天皇と明治初年までの天皇では、その位置づけと、取り巻く人々の環境が大きく異なっていたのは事実で、まず、そのあたりを理解しないといけない。

元来、天皇は京都の御所奥深くに座しておられる立場であられ、明治天皇の父であった孝明天皇までの歴代は、古来から伝えられる仕来りを受け継いだ堂上華族によって、もっぱら先例や格式を墨守するだけが公の行事であった。

また、天皇が私生活を営む大奥も同様で、公家出身の女官がすべて取り仕切っていて、これらの女官は融通の利かない保守主義のかたまりで、天皇に対する影響力を駆使し、あらゆる変革の機先を制していた。

その一例であるが、明治天皇が即位された慶応四年(1868)の二月十四日、外国事務総督・伊達宗城はアメリカ・イギリス・フランス・オランダなど6カ国代表者と大坂の西本願寺で会見し、外国事務局を置き外交諸事に対応すると共に、近日中に天皇が各国公使を謁見すると伝え、二月三十日にフランスのレオン・ロッシュ公使、オランダのファン・ポルスブルック総領事が参朝し、紫宸殿で明治天皇との謁見を終えた。

明治天皇が元首として国際的に認識確立されるためには、この謁見行事は必要不可欠な重要なもので国際外交常識であるが、この時の宮廷内は狂ったような一大騒動であった。

即ち、明治天皇の生母である中山慶子(よしこ)を始めとする大奥の女官たちは、明治天皇が外国人と会うなどもってのほかと泣き叫び、且つ激しく抗議した。この当時伊達と同じく外国事務総督であった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は、主だった女官を呼び出して説得に努めたのであるが、中山慶子は父親である中山忠(ただ)能(やす)を使って、侍医が天皇の発熱を訴えているということを理由に謁見を延期するよう頼ませた。嘘の診断を主張するほどの激しい抵抗であった。

だが、岩倉具視は別の医者に診断させて、その結果体調に問題なしと結論し、ようやく謁見が予定通り行われたのである。(参照「明治天皇」ドナルド・キーン著)

勿論、このような宮廷内の実態を歎き改革しようと、明治初年に三条実美や岩倉具視のような強力な公家が動いたが、数百年来の慣習を一朝にして改革することはできず、過去の慣習のままで、孝明天皇ご逝去後の明治天皇になっても、宮廷は以前の通りであったから、とうてい公家以外の一般人が侍従という立場にはなれることなどありえなかった。

したがって、この天皇を取り囲む古き慣習の塊、これを破壊しなければ鉄舟の登場もなかったわけで、それを実行するには強烈な改革推進者が必要不可欠であり、その役割を西郷隆盛が成し遂げた経緯は後ほど述べたいが、その前に改革推進には必ず賛成と反対があって、それは両者の外国との接した体験差から発するものだということについて検討解説してみたい。

慶応四年二月三十日の明治天皇による外国公使謁見時の朝廷内で発生した反対運動は、実は外国人に会ったことも、顔を見たこともない、当然に口を交わしたこともない公家集団、まして孝明天皇が徹底した外国嫌いであった経緯もあって、強烈な反対運動が発生したのである。

しかし、当時、外国事務総督という役目を担っていた東久世通禧は、一般の公家集団とは違い外国人と接する体験を持っていた数少ない人物で、東久世がいたことで謁見がなされたのである。

東久世通禧という人物は、文久3年(1863)年)、薩摩と会津の公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派公家の一人であって、長州に逃れ筑前に滞在している間に、薩摩人としてこっそり開港場の長崎に行き、蘭人医師・ボードウィン、米人宣教師・フルベッキ、英人商人・グラバーなどと会った交流経験を通じ、外国人に対する態度を変化させ、気後れもなく外国人と対応ができるようになっていた。

また加えて、それなりに気骨ある革新公家だったようで、この東久世通禧によって、ようやく外交関係の第一歩としての、新たな体制である明治天皇御親政の外国公使謁見が可能となったわけであった。

因みに、フルベッキVerbeckとは、岩倉具視を正史とした「欧米視察団」の発案者でありまとめ役の人物で、また、巷間、偽物であるが流布されている「幕末維新の志士達集合写真」の中心に座っていることでも知られている。

いずれにしても外国人と会ったことがある、という実体験差が、当時の人々の外国人への行動結果を決めているという証左にもなる明治天皇謁見行事事件であった。

つまり、外国嫌いという実態になっているのは、外国と接し得ない環境下におかれている人がなりやすいという意味をお伝えしたのである。

今、日本はTPP環太平洋経済連携協定に関与するかどうかで激しい議論が続いている。既に野田首相は関係各国に加盟交渉参加意向を伝えているが、反対論者から意見が多々出されている状況は幕末時の開国是非の当時を思い起こされる。

日本の開国は、安政五年(1858)六月の井伊大老による日米修好通商条約調印から始まったが、薩長勢力は開国を非とし「尊王攘夷」を旗印に倒幕運動に走り、倒幕が成功すると一転立ち所に「開国」が当然であったがごとく変身し、その後の明治時代を文明開化路線として突っ走ったのである。

現状のTPP反対派議論をみていると、薩長勢力の「攘夷」運動を彷彿させる。日本が人口減というどうしようもない現象下で、これからの経済成長を望み、国家の成長を図ろうとするならば、世界の七十億人口を相手に経済活動するところに活路を見出すのは自明の理であり、これは反対論者も十分に分かっているはずだが否定の論理を展開している。

勿論、TPPに参加すれば国内に問題多く、苦境に陥る産業・企業も多数輩出すると思われるが、日本全体の成長という立場から考察し、明治維新時の歴史的前例から考えてみれば、TPP参加は必要だと判断する。だがしかし、今後もTPP議論は賛成・反対の議論が平行線をたどり、はてしない闘争の世界が続いていくであろう。

何故ならば、賛成派と反対派の背景には「外国との接触経験」の度合い、つまり、海外との触れ合いと肌合いの濃密さによって見解が分かれ、既にみた公家集団を思い起こす要因が存在するからである。

常日頃から外国企業と取引する中で、日本と異なる商慣習と国民性に戸惑い、苦労と工夫で業績を挙げてきている企業・団体とそこに所属する人々は、ある意味で外国人に慣れていて、外国との接触に違和感を持たない。

しかし、外国との接点が社交的か、観光旅行程度しか経験のない人々が経営する企業・団体に所属する人々は、日本人と異なる外国人の慣習や考え方に経験が薄いため、TPPのような課題に対するといろいろ心配の方が先に生じやすい。

その事例をもうひとつ、幕末時における薩長首脳陣の心理から検討してみたい。幕末時の当初、薩長首脳陣は本心から強く外国を排除する「攘夷」を旗印にしていた。ところが、ある体験を通じ「開国」の必要性へと変化していったのである。

それは何か。外国勢力との出会いが強烈だったからである。単なる社交的つき合いというレベルを超えた体験、それが攘夷から開国への変化をもたらしたのである。

まず薩摩であるが、文久三年(1863)七月の薩英戦争で、勝敗は互角であったがイギリス艦隊からの砲撃で市街地は甚大な被害を受け、西欧国の科学力を痛切に体験した。一方長州は、元治元年(1864)八月の四国艦隊による下関攻撃によって上陸され砲台を破壊され、大砲を持ち去られ、それが今でもパリのアンバリットの庭で雨ざらしの見世物展示になっているように、壊滅的な負け方をしたことによって、外国勢力の強さを肌で体験したのである。

この薩長の外国との体験は非常時の接触であって、いわば皮膚をひき剥かれるようなものであり、正常ではない触れ合いであったが、これによって藩意識から日本国というパブリックな公の立場に立つ必要があるという意識が指導層に芽生えたのである。

このパブリックな公の立場とは何か。それは本当に外国と戦うことのできる人間になる必要があるという意味であって、西欧諸国が得意とする「戦略方針」を理解し、それに対抗するためには自らも「戦略方針」を構築し、その達成のためには「方便」も必要だという人間に変わること、つまり、外交には複層的思考力が大事であり、それを幕末で見事に実行したのであるが、そのことを徳富蘇峰が次のように解説している。(近世日本国民史)

 「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪(すす)ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして、攘夷論は何処ともなく其影を戢(おさ)め去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。

 偶(たまた)ま真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔恨して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂(とうろう)の斧に止った」

蘇峰が述べるごとく、当時の志士・武士達は真剣に指導層が唱えた攘夷論を信じ、それの実現のために戦ったのであるが、外国と非常時的な接触を持ち、皮膚をひき剥かれるような体験をしたリーダー層達は、建て前と本音を使い分ける術を習得し、それを駆使することで明治維新を成し遂げ、開国へと変化し今日の近代国家日本の礎を創ったのであった。

これは、いわば純粋な志士の気持ちを踏みにじったのであるが、これが世界政治の実態事実であるから、我々は物事の背景からよく分析しないといけないという教訓であろう。

この明治維新の歴史的事実に基づけば、TPPの議論対決は、賛成派が勝利を得て日本国を成長に結び付けられたとしたら、反対派は明治維新の時と同じく時代遅れの蟷螂の斧に止まるのであろうか。

果たしてどちらが勝利を得るのか。それぞれのリーダーの国際感覚、それは頻繁な「外国との接触経験」があるかどうかで分れるのだということを幕末時の事例からお伝えした次第で、天皇謁見も明治維新もTPP問題も、時代は異なるが同様の性質を持っているのである。

さて、鉄舟が侍従となった背景には宮廷内の旧弊打破が存在したが、その前に廃藩置県という一大政治改革があって、そこから宮廷改革に結びついているので、まず先に廃藩置県に触れてみたい。

廃藩置県の最終会議が、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で開かれ、長州から木戸、井上薫、山県有朋、薩摩からは西郷と大久保利通、西郷従道、大山巌が出席した。

会議は、新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについて、木戸と大久保の間で大論争が続き結論がつかなかった。

じっと黙って二人の論争を聞いていた西郷が
「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」
と発言したことで廃藩置県が決まったのである。

数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇はいろいろ御下問された。明治天皇は当時十九歳十カ月若さからご懸念つよくご心配されたが、西郷が
「恐れながら吉之助がおりますれば」
という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられているほど、この当時の西郷の威信は明治維新成立の中心人物として光り輝き、併せて、清廉潔白の人として一般人からも崇敬されていた。

その西郷の支持を得なければ廃藩置県のような、過去数百年間も継続してきた一国独立体制、それも藩主ならびに家臣たちの多くの特権を保証してきた体制を一挙に覆そうとする大改革は成し得なかったであろう。

普通に考えれば武士階級は今までの権利を維持しようと闘うであろうし、平民は藩主以上の権威というものを知らず、藩主が天皇の命に従わないということになれば、藩全体が廃藩置県に反対という結果となったであろう。

結果として、非難囂々(ごうごう)の反対が多く出されるとの予測は当たらず、明治天皇の勅命として出された廃藩置県に逆らう声は、島津久光の猛反対以外に起こらなかった。島津久光の反対については既に述べた(2010年7月号)

いずれにしても、西郷の支持を得たことと、加えて、当時の各藩が財政窮乏という理由から、藩存続に苦しんでいたというものもあって、多くの藩知事が反対に動かなかったのである。

この廃藩置県の実態について、W・E・グリフィスWilliam Elliot Griffis(アメリカ人、牧師・著述家で明治代初期に来日し福井と東京で教鞭をとった)は、越前・福井藩主の居城のある福井で、廃藩の勅命が出された時に、そこにいて以下の感想を書き述べている。

「私は封建制度下の福井に城の中に住んでいて、この布告の直接的な影響を十分に見ることができた。三つの光景が私に強い印象を与えた。

第一は、ミカドの布告をうけた一八七一年七月十八日(陽歴)の朝、その地方の官庁での光景である。驚愕、表にあらわすまいとしてもあらわれる憤怒、恐怖と不吉な予感が、忠義の感情とまじり合っていた。私は福井で、この市における皇帝政府の代表にして一八六八年の御誓文の起草者である由利公正を殺そうと、人々が話しているのを耳にした。

第二は、一八七一年十月一日(陽歴)、城の大広間での光景である。越前の藩主は何百人もの世襲の家臣を招集し、藩主への忠誠心を愛国心にかえることを命じ、崇高な演説をして、地方的関心を国家的関心にたかめるようにと説いた。

第三は、その翌朝の光景である。人口四万の全市民(と私には思われた)が道々に集まって、越前の藩主が先祖からの城を後にし、何の政治的権力もない一個の紳士として東京に住むため、福井を去っていくのを見送った」(「明治天皇」ドナルド・キーン著)

このようなW・E・グリフィスが見た光景は、他の二百七十藩でも見受けたれたであろう。今までの雲の上にいた殿様が、一斉にお城から消えて行くのであるから、日本国家が大変化するであろうという不安と恐怖、それと少しばかりの未来への期待を持ちつつ、藩領民から日本国民に変化する自らの立場を複雑な思いで見つめたに違いない。

この大改革は西郷の力で成し遂げたのであって、次の宮廷改革も西郷によって実現されたのであるが、これについては次号で触れたい。

投稿者 Master : 2013年01月25日 09:25

コメント

コメントしてください




保存しますか?