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2010年11月10日

大悟へのきっかけ

山岡鉄舟研究 大悟へのきっかけ
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟は禅修行において何人かの師匠についている。
安政二年(1855)二十歳の時から慶応二年(1866)頃までの十年間は、芝村・長徳寺の願翁和尚に師事した。

しかし、同和尚が鎌倉・建長寺、続いて慶応三年に京都・南禅寺の住職として転じたため、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治二年(1869)頃に京都・天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことから、同和尚に一時師事した。

宮内庁に出仕するようになった明治五年(1872)からの三年間は、三島の龍択寺星定和尚に師事し、その後、明治十一年(1878)頃から大悟する明治十三年(1880)までは、再び滴水和尚に師事したが、この他に相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)*和尚にも教えを受けてきた。

この禅修行の経緯を振り返ってみてひとつの疑問が浮かぶ。それは師事する禅師を結構代えていることである。記録に残っているだけで五人、その他にもっといたであろう。

一般的に考えれば禅という自らの内部修行であるのだから、それまでのこちらの経緯を把握している同一人物に師事する方が、互いの心境について継続して分析でき、理解し合え、さらに心の奥深く確認できると思われるので、あまり師匠を代えない方がよいのでないかと、かねてより不思議に思っていた。

この疑念について、「春風を斬る」(神渡良平著 PHP出版)で次のように鉄舟に語らせている場面に出合った。

 「人間は生まれ育つ過程では大変両親のお世話になる。しかし、ものごころ付いて、人生の意味を問い始め、私はこの人生で何をしたらいいのかと思い悩むようになったとき、もはや両親では満足できなくなる。“肉体の親”を超えて、“魂の親”を渇仰(かつぎょう)し始めたといえる。その時、人間は自分の疑問に答えてくれる人を訪ねて、何千里でも旅をする。
 また、魂の師は一人ではない。参禅しているうちに、ああ、わしはこの老師から学ぶことは終わったなということを感じ、自然に卒業の時がやってくる。そして次に老師として仰ぐべき人は誰かと捜し求めていると、ピーンと閃くものがある。わしにとって、二番目の星定老師との出会いがそれだった。そして卒業のときがやって来て、次の師匠が現れる。それが滴水老師だった。
 あの人ほど、厳しい人はなかった。鉄拳で殴られたことも何度もあった。老師が人間の甘さに対して厳しかったお陰で、わしは大悟することができたのだ」

 この解説、これは鉄舟の剣修行と同じだと思う。鉄舟は剣修行において、自らを超える師を求め続け、出会えば弟子入りしている。それは井上清虎であり、山岡静山であり、浅利又七郎である。鉄舟の修行というものは、剣でも禅でも同じスタイルを貫いていたのだ。

だが、その修業において、浅利又七郎には苦しんだ。剣で立ち合い完敗し、以後、どうしても勝てない。義兄の泥舟から剣の技ではなく、心の問題だと指摘され、その通りと気づいたのであるが、日々の夜、自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま又七郎がのしかかって来て、圧迫され、心が乱れてどうしょうもない。

今までの剣の相手とは異なり、心の中まで又七郎が斬り込み、気持を切り刻む。神渡良平氏が指摘する“魂の親”を渇仰するといえる段階になっていたのであろう。

そのような毎日から、鉄舟は禅修行に向かい、老師を求め続けて、最終的に滴水和尚に師事し、浅利又七郎の幻影から抜け出すことができ、ようやく大悟できたのであるが、その過程は自分の内部との凄まじい葛藤とであった。

だが、その激しい戦いから抜け出し、大悟へきっかけをつかんだのは、滴水和尚から受けた公案による修行からではあったが、直接的にはたまたま訪れてきた一人のビジネスマンが述べた会話からであった。

滴水和尚に最初師事したのは明治二年頃、その際、眼鏡を例えに次の教えを受けていた。

「現在の貴公は、このことを問題とするところまで進んできているので、もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極致に到達できるに違いない。まして貴公は、剣と禅との二つの道、ともに心境著しい人物である。眼鏡を無用と捨て去れば、いったん豁然(かつぜん)として大悟することができ、活殺自在神通(じんつう)無碍(むげ)という境地にいたるであろう。要するにただ無という一字につきる」と。

しかし、「無」の字に徹するという諭しの意味について、以後十年間、一日たりとて忘れず、日夜精考したが、どうしても体得できず、奥歯に物が詰まったような感じで、臍(ほぞ)おちせず、自得できない。要するに釈然としないのである。

そこで明治十一年頃、再び滴水和尚のところへ伺い、「無」という公案が解けず、未だ浅利又七郎の幻影から抜け出せず、悩みぬいていることを正直に伝えた。

滴水和尚は鉄舟から悩みの内容を聞くと

「それは幽霊というものだ」

といい、五位兼中(けんちゅう)至(とう)の頌(じゅ)(偈(げ)・仏教教理)、つまり、

「両刃、鋒(きっさき)を交えて避くるを須(もち)いず、好手、還って火裏の蓮に同じ、宛然として自ら衝天の気あり」

を工夫してみるようにといわれた。

このような禅問答、専門家でないと意味が分からないが、鉄舟研究で著名な大森曹玄(山岡鉄舟 春秋社)は次のように解説している。

「兼中至というのは、正即ち平等の本体と、偏即ち差別の現実とが、一如に兼ね合わさっているところで、専門語で”明暗双々底“などという境地である。
(注 明暗双々とは、昼と夜、表と裏、差別と平等、現実と理想、創造と破壊、自と他、個と普遍、ことわりとはたらき、清と濁、色と空等々の二項が対立することなく一水に融合した宛然たる禅の一境地)

それはあたかも名人と名人とが太刀を交えているように、どちらが勝れ、どちらが劣るというものではない。正がそのまま偏、偏がそのまま正だというべきで、そこを体得したものは、火の中にあってもしぼまない蓮華のように天を衝くような格外の働きがある、といった意味のことである。

両刃交鋒云々という言葉の意味は、簡単にいえば相手と刃を交えたら、その刃を避ける必要はない。いやしくも“好手”即ち名人といわれるものならば、火に入ってもしぼまないような衝天の気迫が、自らになければならないといったようなことである」

大森曹玄の解説でも難しい。もっと砕くとこうなると思われる。

「剣の名人同士が太刀を交えると、どちらが勝れ、どちらが劣るということはないから、迂闊に動けない。そうした名人とは、火中にあってもしおれることがない蓮の花と同じで、天を衝くような勢いがある」

という意味となるが、これについても頭では何となく理解できるものの、体得までに至らない。体で覚えなければ五位兼中至の頌は身につかない。

鉄舟は再び、寝ても覚めても考え始めた。

食事中にふと動きが止まり、箸を両手に持って、両刃が鋒を交えるように形を工夫したり、煙草を吸いながらキセルとキセルを構えさせ工夫したり、あるときは夜中にガバっと突然起き、夫人の英子に木刀を持たせて立ち向かわせたりしたので、英子は鉄舟が気が狂ったのではないかと、滴水和尚に訴えたこともあったほどであった。

このような毎日が三年過ぎた頃、たまたま、豪商の某が訪ねてきたことが大悟へのきっかけになったと、

「剣法と禅理」(明治13年)で書き示している。

この豪商某とは、横浜の貿易商・銀行家の平沼専蔵といわれている。平沼専蔵は天保7年(1836)、埼玉県・飯能に生まれであるから鉄舟と同じ年。

子供の頃丁稚として江戸に出て来たが、どうしても剣を修行したく、千葉道場の武者窓から稽古を眺めていて、それが縁で入門し、そこで鉄舟と知り合い、気が合って親しくなった頃、鉄舟は専蔵が剣より商売が向いていると気づき、

「これからはもう武士の世の中でない。商売の時代が来るだろうし、もう来ていることをお前は仕事を通じて分かっているだろう。今の商売でお前の能力を発揮させた方がよい」

といい、横浜の石炭店を紹介した。

専蔵はメキメキ頭角を現し、番頭になって、その後独立し、糸商に転じ、明治20年(1887)、平沼銀行(現横浜銀行)を設立した人物である。

この平沼専蔵、ちょくちょく鉄舟のところに出入りしていた。貧乏な鉄舟は専蔵からお金も借りるという仲であったが、ビジネスで成功した専蔵に、そのコツをある日聞いてみた。専蔵は語った・

「私がまだ青二才だった頃、商売がうまくいって四、五百円ばかりのお金ができました。それを元手にもっと儲けようと商品を仕入れましたが、今度は相場が下がり気味になってしまい、何とか早く売り抜けようと気ばかり焦りました。

すると取引先は私の焦りにつけ込み、買いたたきます。その時、心臓がドキドキして落ち着かず、非常に迷いました。

しかし、どうでもなれと思って放り投げておくと、再び、相場が上がり始め、先の取引先が原価の一割増しで買いたいといってきました。

ところが、私は逆に強気になっていましたから、突っぱねると、さらにもう五分高く買うといいます。その辺りで妥協すればよかったのに、欲を出し、もう少し、もう少しと売り惜しんでいると、相場が下落してしまい、結局二割以上の損失を被りました」

鉄舟は、始めは何となく聞いていたが、途中から身を乗り出し始めた。これは滴水和尚から受けた公案につながっていると閃いたからである。

「損しましたが、そのおかげで商売のコツをつかみました。つまり、大事業をしようと思ったら、損得にビクビクしていてはダメなのです。儲けようと思ったら胸がドキドキするし、損してはならないと思ったら萎縮してしまい、とても大事業はできません。

そこで、それからというもの、私はまず、心の明らかな時、気持が整理できている時、そのようなタイミングに前後のことをよく考えておき、いったん仕事に入ったら最後、決してその是非に執着せず、やるべきことをやることにしたのです。損得にこだわったら、返ってうまくいかないという心の機微を実践の中から学びました。これを実践していると、どの事業も成功し、おかげさまで人から本当の商人といわれるようになりました」

鉄舟は頷き

「専蔵、お主は禅の極意を話している」と叫ぶと同時に「解けた」とも叫んだ。この時の心境を「剣法と禅理」で次のように述べている。

「この豪商との談話は前の滴水の両刃鋒を交えて避くるを須いず云々の語句と相対照し、余の剣道と交へ考ふる時は其妙味言ふ可からざるものあり。時に明治十三年三月二十五日なり」

文久三年、浅利又七郎に出会ってから十七年、日夜苦しみぬいてきたが、ようやく平沼専蔵の語りから、何か悟りへの契機が見えてきた。

それは「勝敗にこだわったら、その瞬間すでに負けている。柳の枝は風に任せて揺れ動いているから、折れることはない。相手が押せば引き、引けば出る・・・流れのままに動く。負けてもいい、勝ちを譲ろうとすると、いつまでも負けない。そのうち相手が焦り乱れてきて、つい隙ができる。そこを打ち込めば、勝負が決まる」ということでないか・・・。

そうか。そのように悟った瞬間、鉄舟は道場の中央に立ち、木刀を握って剣先に悟りをのせてみた。
剣先の先から何が見通せるか。剣先の向こうに道場の片隅の明かり見える。しばらくするとその明りが、剣先に乗り移ってきた。道場は大きな一つの世界となって、自分がその空間のすべてに融け込み、すべての存在が剣先に帰一して、次第に、剣前に敵なく、剣後に我なしが体中に広がってきた。

何かが自分の内部から湧き上がってくる。もう少しだ。宇宙に近づいている。

それから五日間、昼は道場で、夜は座禅三昧に集中した。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。

肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった。大悟への瞬間である。次号へ続く。

投稿者 Master : 2010年11月10日 10:46

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