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2010年01月05日

山岡鉄舟研究・・・新撰組誕生その三

山岡鉄舟研究  新撰組誕生その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

浪士組一行は、文久三年(1863)二月二十三日京都に入った。ちょうど等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生したタイミングで、京都がテロ続発する無政府的状態であり、幕府の権威が地に落ちている実態を改めて知ることになった。

浪士組の本部を壬生村の新徳寺におき、ここで鵜殿浪士取扱いの訓示を受けた後、その日はそれぞれ定められた宿舎、鵜殿や鉄舟以下幕府側は郷士前川壯司宅に入り、他の浪士たちはそれぞれ分散して指定された宿舎に入ったが、落ち着く間もなく、浪士たちには再度本部に集まるよう呼び出しがあり、その日の夜、再び新徳寺に集められた。

何事かと本堂に集まった浪士たちの前には無人の円座があり、それを大蝋燭が煌々と照らしていた。誰によって自分たちは集められたのか、あの円座には誰が座るのか、それを訝しげに見つめていると、やがて清河が入ってきて、円座にぴたりと座ると一瞬ざわめきが広がったが、静まるひと時を待っていたかのように、清河が語りだした。

「お疲れのところ集まっていただいた趣旨について説明したい。そもそも今回の上洛目的は何であったのか。将軍を警備するためという理由であったが、よく考えていただきたい。将軍が上洛するのは何ゆえか。それは尊皇の誠意を示し、朝廷に攘夷を宣するためである。われわれ浪士組も尽忠報国の志ある者は来たれという、募集に応じて集まった草莽の英才であるが、その行動目的は尊皇の誠意を示し、攘夷を実行することである。ならば、将軍と同じ目的であり、そうならばわれらの尽忠報国の志を、出来得べくば上聴に達することが叡慮に奉じることではないだろうか」

将軍と自分達浪士組を対等の地位におく、強引極まる論理である。だが、清河の弁舌には鬼気迫るものがあった。今まで多くの修羅場をくぐり抜けてきた清河のすべてが、この一瞬に凄まじい激流エネルギーとなって、本堂内を漲り通り過ぎ、その迫力に誰も口を聞けず、次の清河の姿を見入った。

「ここに、今申したわれわれの志をしたためた上書がござる。お読みいたそう。よろしいか」と、鋭い視線で一同を眺め渡し、読み上げ始めた。

「謹んで上言奉り候。今般私ども儀上京仕り候儀は、大樹公においてご上洛の上、皇命を尊戴し、夷賊を攘払するの大義、ご雄断遊ばされ候御事につき・・・私どもも同じくただ尊攘の大義のみ相期し奉り候・・・これは幕府のお世話にて上京仕り候えども、禄位等は相受け申さず候。ただただ尊攘の大義のみ相期し候、これ我ら一統の決心にて御座候、この段威厳を顧みず言上仕り候」

つまり、将軍警護ということで上京はしたが、まだ具体的に幕府に命で行動に服していなく、我らの本来使命は尊王攘夷であるから、直接に天皇に上書を奉ることを許可願いたい、という要旨であるが、これが長文となって朗々と読み上げられるので、その文中に尊王攘夷の趣旨とともに、倒幕に転じられる字句が慎重に加えられていることを聞き取れるはずもなく、ただただ圧倒され、反論する余地もなく、清河が読み終わっても、浪士たちは茫然とし、粛然としたままであった。

だがしかし、しばらくすると一人だけ清河に対して野太い声での発言があった。それは芹沢鴨であった。

「奉書はともかくとして、そうするといったいわれわれの身分はどうなるのか」と。この無遠慮な声ではっと気づき同調する者が、芹沢の周囲から上がり、近藤勇の一派もうなずき、微妙な雰囲気になりかけたが、

「ただいまの意見は上書を奉ることに反対ではないと理解する」と、あくまでも強腰で進める清河によって、朝廷に上書を奉ることについてこの場は終わった。

翌日、清河が選んだ六名が、受け付けられなければ腹を切る覚悟で上書を学習院の国事参政取次役に提出、予想通り壁は厚かったが何とか受理され、その結果は二十九日に知らされたが、その際、何とこの年に関白となった鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から

「上書の言、叡聞に達し、主上は叡感斜めならず、なお言上したき場合は、学習院に参上せよ」との言葉とともに、勅諚を賜ったのである。

勅諚には「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と記した簡単な文言だったが、清河にとっては望外の首尾であった。

何故ならば、これによって浪士組は勅命を受けた真の尊王攘夷党に変身し、勅諚という錦の御旗を持ったゆえ、幕府が簡単に手を出せない存在となってしまい、清河はこの二百名余を実質的に自らの配下として握ることになったからであった。

ところで、ここまでの間、清河は鉄舟に対しても、一連の行動を相談せず報告もしなかったが、決死の六名が学習院に向かった後、前夜の顛末を含めて伝えた。

さすがに鉄舟は驚き、強引なやり方に一瞬沈痛な顔つきとなったが、結末を鵜殿に報告、鵜殿は老中の板倉勝静に伝えたのである。

板倉は驚き、怒り、清河に対する不信感をさらに増したが、勅諚を握られていては何とも致し方ない。
「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と独り言のように述べ、

「清河を江戸へ追いやるが、二百名をすべて与えることはない。党というものは、必ずその中に不平の者がいるはずだ」
「確か、芹沢鴨や近藤勇などが異論を持っているようで」
「それだ。京都に残ってあくまでも将軍警護に励みたいという者を切り崩すのだ」
「弱音を吐くようでございますが、こうなりますとそれがし一人では荷が重く、しかるべき人物を頭株にお加えいただきとうございます」

この申し出に板倉は苦笑しつつ、すでに頭の中にはある人物を思い浮かべていた。

それは将軍に伴って上洛した奥詰槍術師範の高橋謙三郎(泥舟)であった。早速、泥舟を諸太夫に任じ、伊勢守とし、新たに浪士取り扱いとしたのである。

一方、鵜殿は内々京都残留者を募り、予測どおりそれに応募してきたのが芹沢、近藤等十三名であった。

二月二十九日、浪士組は全員新徳寺に集められ、席上、江戸への帰還が伝えられたが、異議を申し出たのが芹沢であり、近藤であった。

この経緯については、新撰組幹部生き残りである永倉新八が口述した記録「新撰組顛末記」(新人物往来社)に以下のように記されている。

「芹沢鴨以下十三名の同志に江戸帰還を反対された清河八郎はいかり心頭に発し、『お勝手に召されい』とばかり、畳をけって席を立った。十三名はその足で鵜殿鳩翁をたずね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見にしごく同意し『そのしだいは拙者から会津候へ伝達するであろう』ということとなり、会津候すなわち松平肥後守は『この十三名は当藩であずかる』と芹沢らをあずかることになった。そこで八木の邸宅の前へ『壬生村浪士屯所』と大きな看板をかかげ十三名はここに独立した。同時に清川八郎暗殺の内命は会津候から芹沢以下に伝えられたのである」

ここに京都守護職である会津藩のお預かりとして、新撰組が誕生し、幕末史を血で染めるテロ集団がスタートしたのであった。

このように近藤勇や芹沢鴨のグループが、会津藩を頼って浪士組を離脱したわけであるが、ここで検討しなければならないのは、何故に会津藩が京都に在勤しており、会津藩が新選組をお抱えにしたかである。

それは、会津藩が「京都守護職」に任命されたからであるが、この新たに設置された京都守護職という機関は、文久二年(1862)六月、島津久光とともに幕政改革の勅使として大原重徳が派遣された結果、七月に一橋慶喜が「将軍後見職」に、松平慶永が「政治総裁職」となり、この二人の決定により八月に「京都守護職」が設置されたのである。

その経緯を渋沢栄一編の『昔夢会筆記/徳川慶喜公回想談』(平凡社)、これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いてまとめたものであるが、その中で慶喜は次のように語っている。

「京都の方は昔から所司代で間に合うのだ。けれども所司代は兵力が足らない。ところで浪人だの藩士だのが大勢京都へ集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押さえることはできかねる。そこで守護職というものができたんだ。その守護職のできた最初の起こりというものは、所司代の力が足らぬから兵力を増そう、そこで兵力のある者をあすこに置こうというのが一番最初の起こりだ。それで肥後守が守護職になった」

しかし、この慶喜の発言と異なる別の背景があったことが、徳富蘇峰著『近世国民史/文久大勢一變』(民友社)によって述べられている。

「元来井伊家は、其の封を江州彦根に享けて以来、京都の保護を、其の任務の一としてゐた。然るに外交問題の発生以来、水戸斉昭が、頻りに京畿の防備の不完全なるを痛論し、・・・(途中略)・・・主上にも井伊家の防備にては御安心あらせられず。殊に萬延元年三月三日井伊直弼の横死以後は、猶更らのことにて、京師の防備は、刻下の急須なる問題となって来た。加之(しかのみならず)京都には諸浪士入り込み、随分血醒(ちなまぐさ)き仕業も出で来り、愈々其の安寧秩序を維持するに、武装的實力を必要とする場合となって来たから、守護職の制定は、一日も忽(ゆるがせ)にす可からざる事となった。

折しも島津久光が、大兵を率ゐて上京したから、朝廷にては薩藩をして、此の任に當らしめんとの思召(おぼしめし)が無いでも無かったが、それには薩藩と相對の地位を占むる長藩では固(もと)より懌(よろこ)ばず、さりとて幕府に於ても、之を薩の一手に任ずるは、尤も危険としたる所にして、斯(か)くて幕府とは切っても切れない関係ある會津が、其撰に中りたるは、當然過ぎる程當然であった」

また加えて、蘇峰は同じ『近世国民史/尊皇攘夷篇』で次のように補足している。

「惟(おも)ふに幕府が會津藩主を、京都守護職に任じたるは、當時の政策としては、尤も機宜に適したるものであった。會津藩は薩長二藩に對抗する程の實力を有しなかったが、それでも各一藩に對しては、互角の勝負をなす可き位置を占めた。第一其の資望は、所謂(いわゆる)る幕府御家門の一であれば、固より申分は無かった。藩祖正之以来尊皇奉幕を、唯一の目標としたれば、公武合體(がったい)は、傳家の政綱と云ふも可なりだ。加之従来文武を奨励し、特に北方の強として聞こえたれば、誰も其の武を侮るものは無かった」続けて

「松平容保は明けて文久三年正月二日始めて参代し、小御所に於て龍顔を拝し、天盃を賜った。且つ傳奏を以て、前年幕府に建白し、勅使待遇の禮を改め、君臣の名分を明らかにしたる功を叡感あらせられ、特に緋の御衣を下賜せられ、戦袍(せんぼう)(注:陣羽織)若しくは直垂(ひたたれ)(注:武家の礼服)に製す可しとの御沙汰を被った」さらに

「松平容保は、始めて天顔を拝したが、爾来彼は孝明天皇より少からざる御信頼を忝くし、専ら輦轂(れんこく)(注:天皇の乗り物)の下にありて、安寧秩序の維持に任じ、誠心誠意その對揚につとめた」

このような蘇峰の記述は何を意味しているのだろうか。

それは、京都守護職という幕府によって新設された機関が、一方で幕府の命を受けつつも、同時に朝廷の命令・指示も不断に直接受領する存在になっていたという事実実態であった。つまり、朝廷と幕府の結合と融合を第一目的とするために、幕末期における特有の新しい政治機関が誕生していたという実態認識と、孝明天皇が松平容保へ強い信頼をおいていたという事実であり、さらに、これは会津藩が京都守護職という立場を通じ、朝臣化への動きにつながっていったと思われるのである。

このことが一般的にあまり理解されていないが、これを鋭く指摘しているのは前国立歴史民俗博物館館長である宮地正人著『歴史の中の新選組』(岩波書店)である。

「将軍後見職の一橋慶喜も、一八六四(元治元年)年三月、“禁裏守衛総督摂海防禦指揮”に、朝廷から直接に任命されたように、幕府の指揮圏から離れ、朝臣化の途をたどることとなる。さらにその直後の四月11日京都所司代に、京都守護職会津藩主松平容保の実弟で桑名藩主の松平定(さだ)敬(あき)が就任するに至り、ここにおいて、時の世に『一会桑』と称せられる、京都の朝廷と江戸の幕府を政治的に媒介する“京都朝幕政権”とでも表現しうるものが成立してくるのである。

従って、幕末期の政治過程は、
① 正常期の幕府優位体制への復帰を繰り返し執拗に志向する、私の用語でいえば『将軍譜代結合』といいうる政治集団、
② 幕府を排除しつつ朝廷と諸大名(特に有力な外様諸大名)との直接結合を狙う、長州や薩摩などの外様諸藩の政治集団、そして
③ 孝明天皇とのしっかりとした結合の中のみ、幕府の唯一の活路が見いだせるとした一会桑グループという、三つの政治集団の複雑で錯綜した政治闘争の過程にほかならない」と。

このあたりの理解がないと、慶喜の江戸無血開城におけるすっきりしない行動心理背景と、官軍が会津藩攻撃を徹底目的とした背景がつかめないと思う。

いずれにしても、新撰組の誕生の背景には、このような新しい政治動向関係が複雑に絡み合っていたことを理解したい。次回は清河が江戸に戻り非業の最後をとげ、それに鉄舟がどう関わっていたかについてふれたい。

投稿者 Master : 2010年01月05日 11:52

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