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2010年10月12日

大悟への道

大悟への道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟の偉大な業績は、駿府における西郷隆盛との会談を成功させ、江戸無血開城を事実上成し遂げたことであるが、このことは幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。

 鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久三年(1863)の年末、それから慶応四年(1868)三月の駿府行きまでの約四年間、鉄舟の政治的行動は明確になっていないというより、歴史の表舞台に現れていない。

 だが、この期間は鉄舟にとって自らを鍛える素晴らしい時間であったはずだ。

剣の修行は九歳から始め、禅修行は長徳寺の願翁和尚に二十歳で参じ、「本来無一物」という公案を授けられ、以後、約十年にわたって参禅修業を続けた。しかし、この間、清河八郎との攘夷運動への関わりもあり、十分なる修業はできなかった。

だが、謹慎蟄居が解かれた後に、浅利又七郎との出会いから「昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す」(剣法と禅理)という毎日であったから、鉄舟の人間力は格段に向上したと思われる。
その証明ともなる資料を紹介したい。

それは仙台藩士であった小野清が、大正十五年に出版した「徳川制度史料」である。この中で、将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、敗軍の将として江戸に戻った際、鉄舟が警固として重要な職務を担っていたと書き示している。(出典 徳川300年ホントの内幕話 徳川宗英著 だいわ文庫)

「正月十二日巳の刻頃(午前十時)、八代洲河岸林大学頭の楊溝塾を出て、芝口仙台藩邸(注 上屋敷・汐留辺り)に行く。幸橋門(注 新橋第一ホテル辺り)に至れば、武家六騎門内に入り来る。

近寄りて見れば、その先駆者は知り合いの山岡鉄太郎なり。これに継ぐところの五騎は、いずれも裏金(うらきん)陣笠(じんがさ)、錦の筒袖、小袴の服装なり。とりわけ、その第二騎の金(きん)梨子地(なしじ)鞘(ざや)、金紋拵(こしらえ)の太刀を佩きたる風貌、すこぶる注目せらる。六騎徐々馬を駆りて西丸を指して行く。予、路傍に立ち、目送これを久しうす。

後に知る。これ、徳川慶喜公。六日夜大坂天保山沖にて開陽艦に乗じて東帰し、遠州灘にて台風にあい、黒潮付近まで航して今暁浜館(注 浜離宮)に上陸し、今、鉄太郎に迎えられ江戸城に還入するものなることを。

しかしてその六騎なる者、曰く、先駆・出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝(かつ)静(きよ)。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行(ながみち)なり。勝安房守義邦は、鉄太郎浜館に先発せしのち、西丸大手門外下乗橋に出て、ここに公一行を迎うという」

続けて同書に「武家治世の終焉に遭遇し、東帰して江戸城に入る前将軍と幕僚をこの目で見たことは、じつに千載一遇のことで、一人無限の感に打たれた」とある。

「徳川300年ホントの内幕話」の著者徳川宗(むね)英(ふさ)氏は、徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の田安徳川家十一代当主にあたる。慶喜の後を継いだ徳川宗家十六代は田安家の家(いえ)達(さと)であり、その現一門当主である宗英氏は徳川家の内情に詳しい。

その徳川宗英氏が、鉄舟が慶喜護衛の第一駆者として記された、小野清なる仙台藩士の「徳川制度史料」を引用していることを事実と認識し、この前提に考えれば、幕末時において鉄舟は幕府内で相当知られた人物になっていたと判断できる上に、従来から言われている、上野・寛永寺に謹慎蟄居した慶喜公から、鉄舟が駿府行きを命じられた際、初めて慶喜公と接点が生じたという通説、これを覆すことになる非常に興味深いものである。

寛永寺の前すでに、浜離宮で慶喜公と対面していたことになる。

さて、禅修行に戻るが、願翁和尚は長徳寺から鎌倉建長寺、続いて慶応三年に京都南禅寺の住職として転じていたので、西郷との駿府会談時には特定の禅師を持たなかったが、明治に入って、三島の龍択寺星定和尚に参じる前、鉄舟は京都天竜寺の滴水和尚による、東京での座禅会に出席したことがあった。

ここで滴水和尚と称する逸話を紹介したい。

まだ宜(ぎ)牧(ぼく)という名であった岡山の曹源寺で修行していた雲水の頃、儀山(ぎざん)老師が風呂に入ったが熱すぎるので、宜牧にうめてくれるよう頼んだ。宜牧は手桶で水を入れ、手桶に余った水を何気なく地面に撒いた。その途端、儀山老師の叱責が飛んだ。

「その水を手桶に入れろ」

これに宜牧は参った。地面に滲みこんでしまった水は地上にない。以後、宜牧はこれを公案として受けとめ日夜考え続けた。ある日儀山老師が諭された。

「水一滴といえども、宇宙の命を宿している。水を使う用がすんだとしたら、何故に草木の根もとに撒かなかったのか。草木を思いやる心が欠けていたから叱ったのだ。頭で考えるな。頭でっかちになるのではない」

公案を頭で、知識から解こうとしていた宜牧に対する指導であった。この諭しを宜牧は真剣に受けとめ、以来、滴水と名を改め、一滴の水にも命を感じられるようになろうと修行した結果、天竜寺を任されるほどの名僧になった。

そのような逸話を聞いていたので、鉄舟は滴水和尚に一度会いたいと思い、座禅会に参加したのであった。滴水和尚は文政五年(1822)生まれであり、鉄舟より十四歳上である。

座禅会が終わって、鉄舟が長年引っかかっていることを訊ねた。それを「剣法と禅理」で次のように書いている。

「余、嘗て滴水に参じ禅理を聞く。先ず吾れ、剣法と禅理とを合せ、その揆一(きいち)(同じ)なる所を細論す」、つまり、剣法と禅理は一つのものでないかという考えを詳しく述べ、滴水和尚の見解を質した。

これに対し滴水和尚は次のように諭したと「剣法と禅理」にあるが、表現が堅苦しいので、読み砕いたもので紹介したい。

「貴公の言うことは正しい。しかし、自分の考えから遠慮なく批評すれば、現在の貴公は眼鏡を通して物を見ているようなものだ。たしかにレンズは透き通っているから、さほど視力を弱めることはない。しかし、もともと肉眼に何の欠点もない人は、どんなよいレンズであろうとも、普通物を見る時に使う必要がないばかりか、使うことが変則で、使わないのが自然だ。

現在の貴公は、このことを問題とするところまで進んできているので、もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極致に到達できるに違いない。

まして貴公は、剣と禅との二つの道、ともに心境著しい人物である。眼鏡を無用と捨て去れば、いったん豁然(かつぜん)として大悟することができ、活殺自在神通(じんつう)無碍(むげ)という境地にいたるであろう。要するにただ無という一字につきる」

こうして滴水和尚は鉄舟を励まし、無の字に徹するよう求めた。

再び、鉄舟の求道が始まり、寝ても覚めても、滴水和尚の公案を解こうとした。

この滴水和尚、その指導が厳しいことで有名であった。鉄舟も見解を呈する時、答えようが悪いと拳骨で殴ることもしばしばであり、「おれの師匠」によると鉄舟も

「おれは滴水和尚の嗔(しん)拳(けん)で、厳師の有り難いことが、身に沁みた」

と語り、滴水和尚も

「鉄舟のような者は復(また)といない。わしが鉄舟に接した時は、一回一回命がけであった。わしは鉄舟のために反って磨かれた」

と称賛していたほどであった。

滴水和尚の厳しさを伝えるものとして、面白い事例が「おれの師匠」に書かれているので紹介したい。
鉄舟と同じく禅に熱心なのが、鳥尾小弥太である。

鳥尾小弥太(1847~1905)は長州出身、戊辰戦争では鳥尾隊を編成して各地を転戦し、数々の戦功をあげた。明治三年兵部省に出仕、陸軍少将兵学頭、軍務局長、大阪鎮台司令長官を経て中将、その後政治家となり枢密顧問官を務め、子爵に叙せられた人物である。

鳥尾は禅の修行をして、人に褒めそやされたので、いささか増上慢(ぞうじょうまん)になっていた。坐禅とは内省の学問であるから、人に褒められても自惚れてはいけないが、鳥尾はいい気になってしまい、一世の大居士のつもりで、師家を試そうとした。

ある日、鳥尾は滴水和尚を目白台の自邸に招待し、得意然として

「私に公案があるのですが、あなたひとつやってみませんか」

と和尚に問いかけた。滴水は鳥尾が自惚れているのを知っているから、こいつの鼻を折ってやれと思いつつ、鳥尾にあわせて、

「それはおもしろかろう。出してみなさい」

と言った。そこで鳥尾が口を開こうとすると、滴水は立ち上がって蹴飛ばした。

「何をする」

と怒って身を起こそうとすると、また蹴飛ばした。こうして蹴飛ばしを数回続けたので、鳥尾はとうとう縁側から転げ落ちてしまった。その状況を見ていた植木職人がびっくりし、

「や! 坊主が御前様を殺すぞ」

と、手に手に植木道具を持って駆けつけ、まず、鳥尾を助け起こし、次に滴水に打ってかかろうとした。

鳥尾はさすがに職人どもを抑え、座敷に上がり、滴水を座らせ、自分も威儀を正した。そこで滴水は懇々と諭した。

「お前なぞ、まだ禅の何たることもよく分かっていないのに、いっぱしの大家気取りになって、手製の公案なぞを振り回すなんて、とんだ心得違いだ。以後、慎め」

鳥尾は表面上これに服したが、腹の中では今の仕打ちが無念でたまらない。諭しを納得していない。
滴水と食事してから、一緒に庭に出て自慢の庭園を案内した。滴水は数寄を凝らした庭園に興味を持ち、いろいろ鳥尾と庭の話を交わしていると、コトンコトンと音がするので、滴水が鳥尾に

「ありゃ、何の音ですか」

と聞いた。この問いに鳥尾は喜んだ。自慢の庭園をさらに自画自賛すべく、

「あれは水車です。絶えず回っていますから、風流でよいのですが、あの音が座禅の邪魔をしていけません」

と我褒めするようにこぼした。滴水は鳥尾に対してすかさず言った。

「衆生 顚倒(てんとう)、己に迷って、物を逐う(おう)」

外物を追ったら、人間が卑しくなるという指摘である。さすがに鳥尾は禅を修行している。意味をすぐに理解した。黙って頭を下げるしかなかった。

重ね重ねの失敗に、鳥尾は以後、滴水に真剣に師事するようになった。

鉄舟でさえ引きずりまわし、ギュッと締め付ける滴水和尚だから、鳥尾程度では鯱(しゃちほこ)立ちしたって、足もとへも寄れたものでない、と「おれの師匠」にある。

もうひとつ禅師家について紹介したいものがある。

司馬遼太郎の「播磨灘物語」は黒田官兵衛を語ったものだが、その中で秀吉が備中高松城水攻めの最中、織田信長が本能寺の変によって倒れ、それを秘め伏せ毛利家と和睦を結ぶのであるが、毛利家を代表する交渉者は安国寺恵瓊(えけい)であった。

恵瓊は当代の高僧である。まだ四十の半ばの身ながら、京都の臨済宗本山東福寺の退耕庵の庵主であった。退耕庵の庵主といえばやがて東福寺の総帥となる地位であり、日本中の禅僧のなかでの序列は数人のうちの一人といっていい。その恵瓊について次のように司馬遼太郎が「播磨灘物語」で書き示している。

「安国寺恵瓊は、官兵衛と小六が出てくるのを待ちつつ、杯をかさねた。時も時だし、場所である。酒を出されても飲まないのが普通だが、恵瓊にはちょっと物事のけじめの厳格でないところがあり、なに酔わなければいいだろうとたかをくくってしまう。なまじいの禅をやった男のわるい癖である。

禅であるかぎり、悟りを開かねば田舎の一ヶ寺のあるじさえなれない。恵瓊もまた恵心のもとできびしく修行してやがて印可を得た。悟道に達したということになるが、一般に悟りというのはあるいは得ることができても、それを維持することが困難なように思える。生涯、それを維持するために精神を充実させつづける必要があるが、ふつうは、俗世間のおもしろおかしさのために、ただの人間以下にもどってしまうことが多い」

司馬遼太郎の指摘する通りではないかと思う。

では、鉄舟はどうであったのだろうか。まだまだ大悟までは厳しい修行が続くが、その姿を次回も続けたい。

(田中達也氏収集資料)
東京日日新聞が、戊辰戦争から60年経った昭和3年に『戊申物語』と題した連載を掲載しました。これは明治維新の動乱を経験した高村光雲たちからの聞き書きをもとに、当時の庶民感情などを紹介したものです。
東京日日新聞編『戊申物語』から引用します。
「…海上遠州灘でひどい暴風に遭って苦しみつつ、十一日開陽丸は浦賀へ入った。翌日将軍は金子二百両を出して小舟を雇い、これで浜御殿へ入り、ここで一先ず休憩。その日は青空ではあったがひどく寒い。将軍家は直ちに馬上江戸城へ向かった。勝安房守が御殿まで、次いで山岡鉄太郎が馬を飛ばして出迎えた。丁度巳の刻頃、つまり今の午前十時、立派な武士が六騎肥馬をつらねて芝口近く幸橋門へかかった。劈頭(へきとう)、駒の轡をしめて眼光炯々四辺をにらめ廻しつつ来るのが山岡鉄太郎。ついで第二騎、少しおくれて第三騎、錦の筒袖に、たっつけの袴、裏金の陣笠をかむり金梨地鞘に金紋拵えの太刀をはき、風貌おだやかな武家、また少しおくれて第四騎、第五騎、六騎とも実に立派なる武士ばかりであった。
…いずれも京都を落ち、淋しく江戸入りの人々であった。勝安房守はこの時はじめて伏見鳥羽の戦報を聞いた。なお詳細の説明を願ったが、すべて顔色土の如く、ただわずかに板倉伊賀守のみが、ぽつりぽつりとそれを語り得るにすぎなかった(目撃者、旧仙台藩士小野清翁)」
出所は同じ仙台藩士・小野清ですが、新聞連載の記事だけに当時は割と有名な出来事であったのではないかと思われます。
『徳川制度史料』の中で、小野清は、鉄舟と知り合いであったと書かれています。
これについても、『戊申物語』に記述があります。
その部分を引用します。
「…あさり河岸の桃井(もものい)道場士学館の先生は、春蔵直一の長男で、家芸の鏡新明知流(きょうしんめいちりゅう)よりは小野派の一刀流をよく使った(小野翁談)。左右八郎直雄(そうはちろうただお)、三十そこそこで丈六尺二寸の壮漢、講武所にも師範して元気のはち切れそうな剣客だった。この門人の上田右馬之允(うえだうまのすけ)というものがこの松田(注:料理屋)へ、よその子供をつれてある時御飯をたべに行った。何しろ一ぱいのお客、子供がうっかりして四人づれの武士の刀をちょっと蹴りつけた。飯を食って戻ろうとした四人づれが右馬之允の羽織の襟をつかんで「真剣勝負をしろ」といってきかない。先ほどからわび抜いていたところなので、右馬之允は相手にもせず、子供の手を引いて笑いながら大きなはしご段を下りて一足かけると「ヤッ!」といって四人一斉に鋭く斬り下ろした。ところが、右馬之允はよほど出来ていたと見えて、「ウム!」といって足を段にかけたまま斜めに振り返ると真先の一人を居合で払った。その武士は深胴をやられて梯子段をころがり落ちて死に、上田は血しぶきで真紅になった。
 残る三人は、子供をかばいながらまたたく間に斬り伏せてしまったが、息一つはずませてはいなかったということで、この人の帰る時は、松田の前は山のような人だかりであった。この斬り合いの様子をきいて、山岡鉄太郎なども門人を集めて、からだを斜めにして不利な立場にあり、斬り下ろされる瞬間にこれを払う型を教えたりして感心した(鉄舟長女、山岡松子刀自談)。同じく左右八郎の門弟だった小野清翁はこの「上田」を「細川」と記憶しているといっている」
つまり、小野清は鉄舟と同じく、小野派一刀流の門人だったということです。同じ道場に通っていた剣の仲間だったということでしょう。
これらのことから、慶喜は鉄舟とすでに面識があり、西郷との談判に鉄舟が推薦されたとき、慶喜の頭の中に鉄舟が具体的に思い描かれたため、素直に受け容れたのではないでしょうか

投稿者 Master : 2010年10月12日 13:49

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