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2010年05月21日

清河暗殺その四

山岡鉄舟研究 清河暗殺その四
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

清河八郎が暗殺されたのは、横浜を襲撃し攘夷決行と倒幕への狼煙をあげようとした、文久三年(1863)四月十五日の二日前の十三日、年僅かに34歳であった。

場所は麻布の出羽三万石上山藩上屋敷で金子与三郎と会い、退去し、屋敷前の一の橋を渡りきったところ、大和郡山藩十五万石下屋敷の前であった。

当時は、その屋敷や家の前の道路などで変死人があると、一番近い家のものが、役人が出役するまで、これを監視する義務があったので、大和郡山藩が見張っていた。

上山藩士の増戸武兵衛が、明治になって史談会で次のように述べている。
「七ッ頃すなわち今の午後四時頃に表門の方で人殺しがあるというから出てみた。一の橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が倒れて首が右に落ちかかって転がって居りました。その様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一、二寸ほどかけて右の方首筋の半ば過ぎまで見事に斬られております。その上に顎の下までに更に一刀痕があります。多分倒れた後で一刀添えられたものと見えます」(「山岡鉄舟」小島英煕)

この史談会発言内容、当時の大事件であったのであろう、鮮明に清河暗殺場面を想像させるリアルさがある。
「刀、脇差は立派なものでした。羽織は黒で甲斐絹の裏付きで右手に鉄扇を持って居りましたとみえ、右手をのべてその側に棄ててありました。髪は総髪でした。そこに大勢よって誰だろうと言うている中に、中村平助という者は、これは清河八郎のようであると申しました。私もなるほどと感じました。その訳は後で申します。・・・・

私は必ず金子が関係していると思いました。その訳は、その少し前に、ある夕、金子を訪ねたら、これから丸の内の小笠原閣老に行くと申しました。その頃金子は刺客に狙われているという噂でしたから、一人の夜行を援護するつもりでついて行きました。着いたのは夜の五つ頃(午後八時)です。

閣老はまだ殿中より帰らず、小笠原の重役の多賀隼人という人を訪ねました。金子の用向は小笠原の娘を当藩主の奥方に貰うという打ち合わせでした。・・・中略・・・・金子が言うに、実は清河八郎を暗殺しようという者もあるが、どういうものかと問うた。多賀は一寸考えて、至極よかろうと答えた。金子は暗殺といえば西国か水戸のものでもなければ出来ないことのように思っているが、今度のは幕府の御家人だそうですと、幕臣にも弱い者ばかりでないという意味を含ませ、多賀を喜ばしむるような語気にとれました。私は側に聞いていて、近日中、浪士組に何か騒動があるだろうと思っていたが、そのうちに清河が金子にきて帰りに右の事が起こったのだから、金子の話の結果があらわれた事だと思いました」

この暗殺は大変な騒ぎとなって、同志の一人石坂周造にもたらされ、その後の経緯を「石坂周造翁遺談」で次のように語っている。(「新撰組始末記」子母澤寛)

「直ちに四ッ手駕籠の大早というものを雇って赤羽に馳せつけました。見ると有馬(注筑後久留米藩有馬中務大輔頼咸(よりしげ))の足軽と松平山城守(注 出羽上山藩)の足軽とが警護してなかなか側へ近付けませぬ。遠くすかして見ると、八郎が朝別れる時の檜木で編んだ陣笠を被って、羽織の紋も八郎の紋でありましたから、それへ進もうとした所が、なかなか警吏が寄せつけませぬ。そこで自分は一策を考えて、其警吏に向い、彼処に倒れて居る者は清河八郎というものと承って居る。彼れは拙者の為めに仇で、君父の仇は倶に天を戴かず、拙者が害すべきものを何者が害したか、実に遺憾の至り、屍と雖も一刀恨みをせにゃならぬ。妨げをすれば汝らも倶に斬るぞ。と自分が長剣を抜きました。

さて、その時分の人物は弱いもので此勢い恐れて先ず左右へ開きました。そこで、ずっと進んで、八郎の首を引立てて見ると、未だ討手は上手な者でないと見えて、首が一寸程も喰付いて居ります。酒臭かった。
自分の目のつけるのは、決して先方の首ではない。五百名の連名帳が官吏の手に落ちれば、即ち、自分はじめ五百名の者の勤王者が連鎖される。是はどうしても、自分の命を捨てるまでにも取って来にゃならぬというのが私の望みでござります。

なれども警吏が見ておりますから、先ず斬り残してある首を撥(はじ)きまして、そうして其羽織に包んで居る中に、自分の附属の者(浪士組)が、ぞろぞろ後ろ鉢巻で押込んできて来ました。両藩の足軽どもは、其勢に恐れて皆逃げて終った。
それから当人の懐中を探すと、感心な男でござりまして、平生は頓(とん)と金子(かね)などを持って居った風もござりませぬが、胴巻を調べて見ますと、百両以上の用意金もござりまする。それからまあ連名帳も無事でござりまするから、それで自分は誠に安堵をして、是さえ手に入れば、外に望む物はない。なれども、八郎の首を、どうも此大道に棄置くは如何にも遺憾でありますから、羽織を脱がして、其羽織へ包んで、附属の者に持たして、山岡鉄太郎へそれを送りました」(石坂周造翁遺談)

「山岡はこの首をすぐに砂糖漬にして押入れへかくしたが、どうも臭くていけない。毎日毎夜、家のまわりを、町方の目明しが、うろうろしていて離れない。旗本の山岡へは、うっかり踏み込めないが、充分睨んでいる事は明瞭だから、山岡も、故意(わざ)と今度はゴミ箱へ埋めた。やはり臭い。

道場の板を上げて、その真下へ埋めたがこれもいけない。最後には遂々(とうとう)裏の大きなグミの木の下へ五尺も掘り下げて埋めておいた。ゴミ箱から首を引き出そうとして髪をつかんだら、ずぶりずぶりと抜けて来て、どうにも手のつけようがなかった。(山岡松子刀自談)」

「鉄舟は、この首を、伝通院の子院処(しょ)静院(せいいん)の住職に頼んで、窃(ひそ)かに同寺内へ埋葬し、墓も建ててやった。今、伝通院内に、妾阿(めかけお)蓮(れん)の墓と共にあるのが、それである。明治二年、更に郷里荘内清川村に改葬した。

屍は、柳沢候(注 大和郡山藩)の手により、その頃、大名の勤番武士及び引取人のない無縁者を葬る事になっていた麻布宮村町正念寺に葬ったが、この寺は、明治二十年廃寺となったので、今は訪ぬる由もない」(「新撰組始末記」子母澤寛)

このように清河は暗殺された。だが、暗殺された当日を辿っていくと、日頃の清河らしからぬいくつかの行動があり、疑問が生じる。

これまで清河の行動を分析してきたが、その内容を一言で述べれば「清河らしい」ということ、つまり、頭よく事前の思考力は優れているものの、行動は強引極まりないものであった。藤沢周平が「回天の門」で、清河の性格を「ど不敵」述べているがその通りである。

「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」

このような強腰性格の男であったが、暗殺された四月十三日当日は、いつもの清河でなく、強気の言動を発するものの、それが何かに囚われおり、どこかに固執していて、そのこだわりは死出の山を越えるためのものであった、そのような気がしてならないのである。

その一つは、何故に金子与三郎のところに一人で出かけたかである。清河は浪士組の頭として何かと目立ち、その行動も疑問を持って見られている。したがって、清河を狙う者がいても当然であるから、いつも身辺警備については配慮しており、鉄舟の家や隣家の高橋泥舟宅に泊まり込んでいたのもその理由からであり、清河が外出する時は、大抵何人かの者をつけて出すように気をつかっていた。

その清河が、この日鉄舟宅を出る際、ちょうどやって来た石坂周造と出会った。当然に石坂は一人で出かけることを危惧した。鉄舟は昨夜から戻っていなかった。
「一人で出掛けるのですか」
「うむ、上山藩上屋敷まで金子与三郎を訪ねて」
「大事決行の日も迫っている。他出はやめられないですか」
「もう約束してしまっている」
「では、私がついていきます」
「君は金子を知らんだろう。ついてきてはおかしい」
「おかしくてもいい」
と石坂は執拗に迫ったが、清河は受けつけなかった。これが第一の疑問である。
 
第二の疑問点は、何故に朝風呂に入ったかである。清河は十一日横浜視察から戻った時に風邪をひき、そのまま寝込んでいたが、十三日の朝、清河は朝早く起きると近所の風呂屋に行った。
 朝風呂は、この頃の江戸ッ子が最も好んでおり、どの風呂屋も早朝から営業していたが、風邪ひきには風呂がよくないことは誰でも知っている。
 そのいけない風呂に入って、身を清めたことが第二の疑問である。
 
第三は、風呂から戻った後のことである。風呂上りの、手拭いを下げたままで隣の高橋泥舟宅へ庭から入って行った。登城の支度をしていた泥舟が
「何だ。朝風呂とは、ご機嫌だな」
「ええ、今日は久しぶりに上山藩上屋敷まで金子与三郎を訪ねていきますので、病み上がりの格好ではまずいと思いまして」
「金子与三郎というと、あの儒者のことか」
「ご存知でしたか。金子とは安積塾の同窓でして、著述物も預かってもらっている仲です」
「いつか小笠原殿のところで会ったことがある。大分親しげに見えたが」
「金子が小笠原殿とは知り合いとは知りませんでした」
「気をつけた方が良い。小笠原殿と金子に何かの関係があるかもしれない」
「はぁ、十分気をつけます」
と清河が言いつつ、泥舟の妻女お澪(みお)に白扇を求めた。
「どうなさるのです」
「なに、風呂に入っている間に、二、三首浮かんだので・・・」
清河はすらすらと三首の和歌を書き流した。その一首が
「魁(さきが)けてまたさきがけん死出の山 迷いはせまじすめらぎの道」
また、もう一首は
「砕けてもまた砕けても寄る波は 岩角をしも打砕くらむ」
であった。
どちらも辞世ともよめるものであった。
「何だ・・・。これは・・・。不吉だ。今日は出かけないことだ」
と厳しく言い残し、泥舟は登城するため玄関を出て行ったが、そのすぐ後に清河はお澪が必死に止めるのも聞かず、約束だからやはり行くと出かけたのであった。

ここで清河の立場になって考えてみたい。

清河は、若き時から儒者をめざし故郷を出で、江戸で一流の学者となるべき勉学時に、桜田門外の変に出遭った。これを機縁に攘夷・勤王に走り、日本国中を遊説し、多くの人物と交り合ってきた。その後、江戸に戻ってきて、四月十一日に横浜を視察したのであるが、その衝撃は大きなものであった。

横浜では、日本人と欧米人がビジネスとしての交易を盛んに行っており、それは輸出入の実態としてすでに国の中に組み込まれていて、日本という国は世界と付き合っているという事実、その認識を現場で持った時、清河に大きな疑問がわきあがったのである。

今まで追求してきた国体としての攘夷、それは概念価値として立派であっても、その実現は世界と向かい合っている日本の実態にそぐわない方向に行くのではないか。

また、仮に横浜襲撃が成功したとしても、その結果は諸外国と全面的な戦争になり、日本の現状では負けることが必定であろう。

そうなってしまえば清国の二の舞になる。自分の攘夷という行動結果が、かえってこの国を焼く業火になるのではないか。
横浜で見聞きしたことが、清河の腸に深く刃を刺し込み、それが風邪という体調変化と化し、熱で冒された脳裡に、はじめて自分に対する疑問が浮かんできた。

どうすればよいのか。ここで横浜焼き討ちをやめてしまっては、浪士組を攘夷倒幕に持っていくことは消えるし、もう同志は走りはじめている。

横浜での実態から新たに目覚めた清河の心中に、生まれてはじめて矛盾・混乱・ジレンマのうめき声が発しだしたのである。

その時に金子与三郎から、会いたいと言ってきたのである。金子の思想は穏健な公武合体論であった。そのため、尊攘派、佐幕開国派の両方につき合いがあり、その金子から時勢のことで相談があるので、誰も連れずに一人で来られるかという誘いがあったのである。

清河はこの誘いに乗る決心を選択した。金子の罠かもしれない。しかし、その罠にのってみようと決めた。多分、金子が今の自分の矛盾・混乱・ジレンマに決着をつけてくるだろう。

焼き討ちをやめ、虎尾の会の志をのこすには・・・それには今の自分を投げ出すしかないだろう。清河は気持ちを整理して、金子に会うことを決めたのである。

清河八郎は希代の策士といわれてきた。だが、その策士は、最後に日本という国の未来を考えたのだと思う。
さすがに鉄舟が刎頸の交わりをした清河八郎だと思う。鉄舟ほどの人物が本心から付き合った清河である。
清河は、自らの処置を、自らで決着をつけたのである。

清河暗殺は、鉄舟と泥舟を歴史の舞台からいったん身を引かせることになった。

投稿者 Master : 2010年05月21日 11:25

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