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2010年01月15日

新将軍誕生

山岡鉄舟 新将軍誕生
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

武士など支配特殊階級を除く江戸時代の人口は、幕府が調査を始めた享保六年(1721)で2606万人、最も少ない時で寛政四年(1792)の2489万人、最も多い時で天保五年(1834)の2706万人で(新編日本史図表)、きわめて安定的に推移していた。

武士を含む総人口は、江戸時代後期(1720 年頃)から明治元年(1868 年)までの150 年で、3,100 万人から3,400 万人強へと1.1 倍になった(第一生命経済研レポート 2005.6)と言われているので、この両者人数差の四・五百万人程度が武士など支配特殊階級と推察される。

この階級の中で、幕末期にどの程度の人間が日本の行く先を考え、それに向かって行動したのであろうか。

殆どの武士達は大勢順応主義であって、波のまにまに漂う生き方を送ったのではないかと思う。ただただ、わが身わが家大事に、なるべく傷がつかなきことを祈って、あとは成り行きに任せようとする生き方で、多分、これが90%を占めていたであろう。

残りの10%が真剣に考えていたと思うが、この中でも多くの人間は大勢を批判し、打開策を講じようとしたものの、封建制度の中でどっぷり浸かっていたのであるから、過去からの道徳基盤規準の範囲内で行動せざるを得なく、これが10%の九割方あったと推測する。

残りの10%の一割方、人数でいえば四・五万人程度の人間が、新時代構築に向け、居面打開を図るため、生死を賭してそれぞれの路線上で行動したと思う。

その路線の違いによるぶつかり合いが、幕末時の京都を舞台に政治対決を闘ったのであり、
それは、
①正常期の幕府優位体制への復帰を志向する将軍譜代結合、
②幕府を排除し朝廷と有力外様大名集団、
③孝明天皇と結合した一会桑グループ
であった。

では、清河八郎はどの路線に属していたのだろうか。

清河はどの路線にも入らず、別物で破格のものであったと述べるのは司馬遼太郎である。

清河が浪士組を京都新徳寺に集め、尊王攘夷の志を直接天皇に上書する内容を読み上げたことは前号で述べたが、その上書の最後に以下の文言が付されていた。

「万一皇命をさまたげ、私意を企て候輩、これ有るにおいては、たとい有司(注 役人)の人たりとも、いささか容赦なく譴責(けんせき)仕りたく、一統の決心御座候間、この段威厳を顧みず言上仕り候」

この文言の意味は、皇命に反すれば、幕府の高官役人、つまり、京都守護職であろうが、京都所司代であろうが容赦せずとがめるという意味であり、この上書に朝廷から「上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきこと」と関白鷹司(たかつかさ)輔(すけ)煕(ひろ)から勅諚を賜ったのであるから、見方を変えれば幕府より上位機関を樹立させたのであり、

このことを持って司馬遼太郎は

「ついに清河の野望が達せられた。清河はこの瞬間、事実上の新将軍になった。あとは浪士組の名において天皇を擁しさえすればよく、その手は、むかし木曾義仲をはじめ織田信長、豊臣秀吉などの歴代の覇王がやってきたところである」と記している。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)

出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男である清河が、野望としていた「回天の一番乗り」、つまり、天下の情勢を変えるための手段を持ち得、司馬遼太郎が言う新将軍となったわけであるから、一大事件であり、時代を覆すほどの意味ある清河の策であった。

しかし、この成果の見返りは大きい代償となって清河を襲ってきた。それは、組織力を持つ権力側から見れば、不遜で頭が高い体制無視の行動であり、加えて、清河が採った方策は、体制と権力は利用するが、その見返りは自分の益にするものであって、結果として清河の存在自体が憎しみをもたれ、それが清河の身に翳してくるのは当然であった。

つまり、暗殺命令が体制側から出されることになったのである。

だが、徒手空拳の清河には策を講じるしかなかった。上書を再び提出したのである。それは、その時、外交大問題になっていた生麦事件に関する建白であった。

生麦事件とは、島津久光が幕政改革を目指し、勅使大原重徳とともに江戸に向かい、その目的をほぼ達し帰国の途中、東海道生麦村を通りかかった際に発生したイギリス人殺傷事件である。

島津久光の行列と行きあったイギリス人は四人共騎馬であった。騎乗のまま向かってくる四人に、薩摩藩士が手振り身振りで、下馬し道を譲るよう指示したが、これを「わきを通れ」といわれたと思いこみ、わきに寄ろうとしたが四間(7.2メートル)幅の道は狭く、さらに、道に面して民家の生垣があるので、それ以上は寄れず、一瞬馬の足が乱れ、四人の一人リチャードソンの馬が、久光の駕籠が位置する小姓組の列の中に踏み込んでしまった。

その時、供頭の奈良原喜左衛門が走ってきて、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。野太刀自顕流の「抜」と称する得意技である。リチャードソンは騎乗のまま逃げたが、少し離れたところで落馬し、薩摩藩供目付海江田武次によって「楽にしてやる」ととどめを刺された。

もう二人、マーシャルとクラークにも、小姓組の者たちがそれぞれ抜刀し、斬りかかり、深手を負わせたが、アメリカ領事館に逃げ駆け込み、ヘボン博士の手術で命は助かり、もう一人の女性マーガレットは、帽子を飛ばされたが逃げ切ることができた。

これが生麦事件の概要であるが、イギリス本国は激怒し、文久三年(1863)の年明け早々イギリス外務大臣ラッセルから以下の三カ条が申し入れされた。

それは、生麦事件についてイギリス国女王をはじめ政府の最高首脳部が激怒していることが、長々とつづられた後に、以下の三カ条の要求であった。

① 十分に誠意のこめられた謝罪書を、イギリス女王に提出し、賠償金十万ポンドを支払うこと。この二項目の回答は本日より二十日間猶予をあたえるが、これを拒否する場合は横浜港の艦隊が武力行動に出る。

② 薩摩藩に対しては、艦隊を薩摩に派遣し、リチャードソンを殺害し他の者に重傷を負わせた薩摩藩士を捕え、吟味の後、イギリス海軍士官の眼前で首を刎ね、殺傷されたイギリス人の親族に賠償金として二万五千ポンドを支払うこと。

③ これを薩摩藩主が拒否した場合は、提督が全艦隊に対し「相応と思う強劇なる措置」を指令する。

さらに、末尾には殺人を容認した者として、久光処刑を要求すると書き添えられていた。

幕府閣僚たちは、イギリス側の要求について、ある程度覚悟はしていたが、予想以上の厳しいものであることから混乱、落着きを失い、善後策を講じはしたが、雄藩薩摩藩に対して指示できず、また、指示しても無視され、通告された期限が近づくに従い、イギリス艦隊の攻撃に対し、勝算はないものの応戦することになるであろうから、諸藩に合戦準備を命じ、家族たちを国許や知行地に避難させ始め、その動きに江戸市中は大混乱に陥った。

ところで、生麦事件発生当時の日本側の感覚はどうであったのであろうか。

まず、幕府は怒り狂う各国外交官たちに、ひたすら恐縮するばかりで窮地に立ちいたったが、当事者である島津久光は、幕府を無視し、仮名の足軽「岡野新助」なるものが殺傷し、同人は行方不明であるとの届を老中板倉勝静に提出し、行列をそのまま進めて行った。

また、江戸の薩摩藩屋敷では、今回の藩士の処置を当然とし、賞賛する声が高く、さらに、東海道筋の庶民も「さすがに薩州さま」と歓呼し、京都の薩摩藩邸に久光が到着した際には、久光の行列を見ようとして多くの男女がむらがり、薩摩藩を賞賛する声がしきりであり、朝廷も「生麦事件に関するイギリスからの要求は一切拒否する」という朝議をしたほどであった。

このようなタイミングに、またしても清河は以下の上書を奉ったのである。

「私ども儀、微賤ながら尽忠報告のため罷り出で候えば、かく外国御拒絶の期なり候上は、関東において何時戦争相はじまり候もはかりがたく候間、すみやかに東下、攘夷の御固めにお差しむけ下さるべく・・・」

浪士組を、攘夷の固めとして江戸に帰すよう、命令を頂きたいと願ったのである。これに対し、関白鷹司輔煕から達文(たっしふみ)が下された。

「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」

確かに、関東ではイギリス艦隊の攻撃によって戦争になるという騒動で、またしても清河の策は時宜にかなっていたが、実は、清河の腹の中には別の謀略が潜んでいた。

それは「虎(こ)尾(び)の会」の盟約書に記していた横浜の外国人居留地の焼き討ちであり、その先に攘夷挙兵という壮大な企みであった。

今まで最終目的をここにおき、手の込んだ細工を弄して、浪士組を編成し、京都まできて、勅諚を賜ったのであるから、それを御旗に目的を果たすためには、江戸に帰らないといけない。そのための上書であり、その回答が達文であった。

この達文は浪士組責任者の鵜殿浪士取扱から、将軍家茂に付き従い上京した老中板倉勝静に報告され、板倉はこれら清河の策を見通せなかったことに怒りと憎悪を持ち、

「それにしても、清河をこのままに捨ておけんな。いずれは始末せねばならぬ男だ。京都におくと危険だろう。江戸に返すことにしたい」と、達文を逆に利用して、京都から清河を追い払い、心中に清河を屠る決心を固めたのである。

それ以後の経緯と、新撰組誕生、及び同時に清河八郎暗殺の内命が芹沢以下に伝えられたことは前号で述べた。(永倉新八口述記録「新撰組顛末記」新人物往来社)

さて、その清河暗殺について、同じく「新撰組顛末記」に記されているので紹介したい。

「ある日八郎(清河)が山岡鉄太郎とただふたり、当時土州候の旅館にあてられた大仏寺へでかけることが芹沢の耳にはいった。そこで好機逸すべからずというので十三名は二手にわかれ、芹沢は新見、山南、平山、藤堂、野口、平間の六人とともに四条通り堀川に、近藤は土方、沖田、永倉、井上、原田の五人を同行して仏光寺通りの堀川にいずれも帰途を擁して目的をはたそうと待ち伏せる。永倉の組ではもし待ち伏せしているところへ清川らが通りかかったら永倉がまず飛びだして山岡を後方へ引き倒し『お手向かいはいたさぬ暫時御容赦!』というを合図に、近藤ら五名は清川を斬ってすてるという手順であった。

夜はふけて人通りもまれに水を打ったような京の巷、清川、山岡の両人はなに心なく四条の堀川を通りかかった。とみた芹沢は刀の柄の目貫をしめし足音をしのばせて清川のうしろから抜打ちしようと鯉口まで切ったがふと山岡の懐中に御朱印のあることに気がついてハッと身をしりぞいた。

御朱印というのは将軍家から山岡と松岡万にあたえられた『道中どこにても兵を募ること苦しからず』とあるもので、山岡は江戸発足の当時から天鵞絨(ビロード)の嚢(ふくろ)にいれ肌身離さず持っている。御朱印に剣をかざすは将軍家に敵対するとおなじ意味に当時の武士は考えていたものだ。これがため芹沢はついに剣を抜かずにしまったので清川はあぶない命をまっとうした。また近藤や永倉らがいまかいまかと待っていた仏光寺通りへは清川が通りかからなかったのでこれも無事にすむ。会津候はますます清川を暗殺せよと焦慮するのであった」

ここで言う会津候とは幕府側からの指示と読みかえた方がよいが、いずれにせよ京都では清河暗殺が失敗したのである。

ところで、浪士組が江戸に戻るべく出立しようとした矢先、江戸から幕命によって新たに浪士組取締として六人の旗本が着任した。佐々木只三郎他であって、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手である。

勿論、これは幕府による清河暗殺の実行部隊である。次回は清河暗殺とそれに鉄舟がかかわる動きについてふれたい。

投稿者 Master : 2010年01月15日 11:28

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