« 明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七 | メイン | 2013年7月開催結果 »

2013年08月26日

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

このところ明治天皇に関して固い内容でお伝えしてきたので、今回は少し毛色の変わった刺青についてふれてみたい。
大阪市では2012年2月、児童福祉施設の男性職員が、子どもたちに腕の入れ墨を見せて威嚇していたことが発覚した。

橋下徹市長が問題視し、職員約3万4千人を対象に調査を実施した結果、113人が「入れ墨をしている」と申告し、そのうち98人が頭部や手足など「見えやすい部位に入れ墨がある」と回答した。 局別では環境局が75人で最多で、業種別にみると現業部門が107人だった。どうして、現業部門にはこれほど入れ墨職員が多いのか。

大阪在住の財界人はこう話す。「今回、問題となっている現業部門ですが、その根っこの部分には共通の原因が潜んでいます。それは反社会的勢力との密接なつながりです」と。
つまり、ヤクザなどの反社会的勢力と、つながりのある市職員がいるということを示唆している。

大阪で入れ墨(刺青)が多いということについては、時代は遡る131年前の明治14年(1881)12月27日の東京日々新聞で、既に以下の報道がなされている。(異史・明治天皇伝 飯沢匡著)
「英国両皇孫が刺青遊ばされ、大阪では刺青大流行で彫師多忙」
と見出しがあり、本文記事は
「さきに英国両皇孫殿下の花繍(ほりもの)(入れ墨)せられし事を聞き及び、文明国の王族さまがなさることだ、身体髪膚を毀傷せぬなどの、近い国の唐人の寝言は聞くにはおよばぬ抔(など)と、国に禁令のあるをもかまはず、大坂の下等(かとう)勇み連は同府下西町の彫徳、宗右衛門町の彫市、難波新地の彫安、天満川崎の彫政などといふ昔時名を得し花繍師の方へ押しかけ、仮令(たとえ)、御法度でも開明の真似ならわるくはあるまいと、無法を云いて頼みに来る者多しと、よしや文明国のする事なりとも、是らは真似ずもあれかし、殊に法のゆるさざるものをや 」

この新聞記事に書かれた「下等勇み連」の「下等」について、飯沢匡氏が「私の幼童のころは二言目にはこの『下等な』がお叱言となって私の耳に届いたものであった。『下等な言葉』『下等な行い』『下等なふるまい』等々。してはならないことの上には必ずこの『下等』がついたのであった」と解説している。

この飯沢匡氏見解を受け入れ、前述の大阪在住の財界人の発言と併せて考えれば、大阪に入れ墨が多いのは頷け、大阪市職員も同じ類と想定でき、明治以来の背景が今日まで伝わっているのではないかと推測している次第である。

さて、東京日々新聞の記事は、明治14年来日した英国皇太子(のちの英国国王エドワード七世)の第一王子アルバート・ヴィクター親王と、第二王子ジョージ親王(のちのジョージ五世=映画「英国王のスピーチ」のジョージ六世の父)のことである。

両王子来日前にロンドンの駐英日本大使から「最高の刺青師を用意されたし」と打電あり、何かの間違いではないかと再度返電し、やっと真意が判って大騒ぎしたという話が残っているが、「彫物師は約三時間かけ、腕一杯に身をくねらせる赤と青で描かれた一匹の大きな竜を彫った」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、二人の王子が刺青をしたのは事実である。

ここで大阪市の職員がしている「入れ墨」と、英国両皇孫がした「刺青」という二つの用語を使い分けていることを説明したい。

「入れ墨」とは江戸時代に前科者の意味で身体に針を使って刺し、そこに墨を入れ、痕跡を残すことから使われている。一方の「刺青」とは、人類学的にいうと「身体変工」の部類に入るのであって、これは全く自らの肉体に墨を入れ装飾するものであって、「墨」を皮膚の下に入れると青く見えることから「刺青」と称している。

明治三年(1870)には太政官令によって入れ墨刑は廃止となり、明治五年(1872)には同じく太政官令によって入れ墨自体が禁止され、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。だが、禁止令は無きに等しかった。


明治初年に来日した欧米人は、刺青を一種のジャポニズム・日本趣味の美として認め、馬丁に見事な刺青をさせるようになったので、横浜では刺青業が盛況となって、その背景には欧米では刺青は恥ずべきものでないという実態があって、それは今日まで伝わっている。その現象をベアトが写真に撮って残している。(1870年頃のベアト写真)

現在では、昭和二十三年(1948)の新軽犯罪法の公布とともに解かれたので禁止ではない。

ここまでは単に大阪市職員と英国両皇孫の因果関係を推測したまでだが、刺青によって明治天皇が巻き込まれた外交大問題が、十年後の明治二十四年(1891)五月に発生した。

大津事件であって、巡査津田三蔵が、来日していたロシア・ニコライ皇太子(のちの皇帝ニコライ二世)に突如斬り付け怪我をさせた事件である。

明治天皇は直ぐに京都に出向き、ホテルで加療中のニコライ皇太子を見舞いしようとしたが夜間のため断られたので、翌朝、再度、お見舞いと謝罪をホテルに出向き表し、ロシア艦艇で治療するとのことなので、港まで同行して誠意を示し、帰国時には船内で食事を共にして見送った。しかし、この際の日本側は、天皇がそのまま船で拉致されるのではないかという危惧を持ったが、明治天皇は最大の誠意を示すべく船に入られたのである。

この十三年後に日露戦争となるのだが、当時のロシアは世界の大国であり、小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたのである。些細なことで言いがかりをつけ、戦争を仕掛け、植民地支配するということは、当時の列強大国の常套手段であったので、日本国内は、一般庶民の間でも「ロシアが攻めてくるぞ」と大激震が走った。

 学校は謹慎の意を表して休校。神社、寺院、教会は皇太子平癒のための祈祷。吉原はじめ盛り場での鳴り物の禁止。ニコライの元に届けられたお見舞い電報、一万通超。

山形県金山村(現・金山町)では、「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を可決した。すべてはロシアの気持ちを静めるためである。当時、二十六歳の女性「畠山勇子」が日本の恥辱として喉を突いて自害したほどであった。

では、何故にロシア皇太子ニコライが来日したのか。ニコライはサンクトペテルブルグ→トリエステ→ボンベイ→セイロン→シンガポール→ジャワ→サイゴン→バンコック→香港→広東→上海という六カ月に渡る船旅を経て長崎に上陸したのだが、それが刺青目的であったというのである。

「ニコライは右腕に竜の刺青をした。彫りあげるのに夜九時から翌朝四時まで七時間かかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあり、「長崎市摂津町、野村幸三郎・又三郎の両名は連日、皇太子殿下御乗船に御召入られ両腕に龍の刺文を施されギリシャ親王殿下及士官数名も各右両人に托し刺文せられ皇太子殿下よりは弐拾五円、ギリシャ親王よりは壱円を下賜せられ其他士官二名よりは八円を与えたる由」(長崎県立図書館資料・異史・明治天皇伝 飯沢匡著)とあって、ニコライがギリシャ親王と一緒に刺青をしたのは事実である。

ところで、明治時代における日本の刺青は世界的に評価が高く、明治十四年の英国王子に刺青したのは彫師の彫千代であるが、当時、欧米人の間では彫千代が有名で、当時NYの新聞が「刺青界におけるシェイクスピア」と称賛したという。

この彫千代らが触媒となり、日本の刺青の技は英国に伝えられ、英国社交界では19世紀後半刺青が流行した。中でも明治三十九年(1906)に明治天皇にガーター勲章奉呈のため、英国国王名代で来日したアーサー・コンノート殿下も日本で刺青しているほどである。

刺青目的で来日したニコライ皇太子に斬りつけた大津事件で、明治天皇が大変ご苦労されたことを、大阪市職員の入れ墨問題と絡めてお伝えした次第である。

本題に戻るが、少年天皇として即位した明治天皇は、その存在の非凡さ、それは威厳と慈愛に満ちたイメージを持ちつつ、数多くの国内外の問題と危機に対処した治世によって、当時の日本国民に納得感を与えられ存在になられたわけであるが、しかし、そこまでの過程では「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの背景要因が存在していた。

これについて前号で
1.王政復古の実現、
2.父孝明天皇の思想を受け継いでいない、
の二項目を検討したが、今号でも続けたい。

3.誕生する皇子・皇女の相次ぐ死亡と明宮(大正天皇)の虚弱

 先般、三笠宮寛仁(ともひと)様が薨去(こうきょ)された。また、その際に皇室の構成が左のように新聞紙上に掲載された。   

これを見ると寛仁様の皇位継承順位は第六位とあり、悠(ひさ)仁(ひと)様は第三位となっているが、ここでふと疑問を持った。

明治天皇がお生まれになった時は祐宮(さちのみや)であり、九歳になられた時に親王宣下され睦(むつ)仁(ひと)親王となられている。つまり、誕生時点では親王でなかったのである。親王とは皇位継承権を持つ人物のことである。

かつては、天皇の子女の称号として皇子及び皇女が使われていたが、律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王(女性形「内親王」は令の条文にはない)と改称され、平安時代以降は親王宣下をもって親王とする慣習となり、たとえ天皇の子供であっても親王宣下を受けない限り親王にはなれなかった。

逆に世襲親王家の当主などの皇孫以下の世代に相当する皇族であっても、天皇・上皇の養子・猶子となることで親王宣下を受けて親王となることもあった。

例えば、孝明天皇の祖父に当たる百十九代光格天皇は、下図の系図のように百十八代の後桃園天皇が二十二歳で崩御されたので、六代さかのぼる百十三代東山天皇の弟筋の曾孫(ひまご)で、典(のり)仁(ひと)親王(慶光院)の六男であるにもかかわらず、本家に戻って即位している。

 このような継承が何故になされたのか。それは天皇に皇子が誕生しない、というよりお生まれになっても亡くなられる比率が高く、孝明天皇の父である百二十代仁孝天皇は四十七歳で崩御されるまでに十五人の子供を産ませたが、十二人が三歳までに亡くなり、育ったのは孝明天皇と徳川十四将軍家茂に嫁いだ和宮とほか一人(桂宮を継いだ淑子(すみこ)内親王)にすぎない。

 実は明治天皇も同様であった。明治天皇は十七歳で明治元年(1868)十二月、一条美子・昭憲皇太后と結婚されたが、天皇より三歳年上であった皇后は、子供ができず、典(す)侍(け)から生まれた子供も明治六年の二人は即日死亡、八年生まれの第二皇女は翌年に、十年生まれの第二皇子も翌年に亡くなった。
 
明治十二年(1879)八月に誕生した第三皇子は、明宮(はるのみや)嘉(よし)仁(ひと)親王と命名されたが、虚弱で本当に育つのだろうかという深い心配があった。

 明宮親王については改めてふれたいが、ここで気づくのは誕生と共に親王宣下されていることである。悠仁様も明宮親王と同じく誕生と共に親王宣下されている。

 だが、明治天皇は誕生時点では祐宮であって、親王宣下は九歳のとき睦仁親王になられている。天皇の子供は、それまでは単に皇子・皇女にすぎず、正規に「親王」ないし「内親王」宣下を受けるまで、皇位継承権を主張できなかったのである。

大正天皇である明宮親王のあたりから、皇室の皇子・皇女に対する規定が全面的に改められたのであるが、これは、第一皇子・第二皇子が次々と亡くなり、次の第三皇子の健康に不安があって、新しい制度が導入されたのである。

即ち、皇子は生まれると同時に親王であり、親王としての名前を授かる。ということは育ちさえすれば、皇位継承権を持つということになったわけである。

長々と親王宣下について述べてきたが、ここに明治天皇の大きな悩み、というより国家としての大問題で、天皇から子供が多く誕生しても育たないということは、皇位継承が難しい環境下になることを意味することになる。

明宮親王の健康について「明治天皇紀」は以下のように記されている。誕生二十日余の条に「誕生の際より」として始まるものである。

「嘉仁親王誕生の際より全身に発疹あり、昨(九月)二十三日瘡痂(そうか)(かさ病)消散せるを以て腰湯を奉仕せるが爾後不快なり。(午後皇后が御産所に行啓したが)其の頃より親王腹部に痙攣の発するあり、漸次胸膈を衝逆す、八九時に至りて最も強盛なり、又痰喘のため一層の苦悶あり・・・(『紀』十二年九月二十四日条)」(明治大帝 飛鳥井雅道)

親王の病気の記述は、不思議にも天皇や皇后が皇子を見舞ったり、呼ぼうとしても面会出来なかった時に限って記述される。逆にいえば、身体の状態がよいと思って会う段取りになると、病気が悪化するために記述せざるをえなかったと読んでも、それほど深読みではないだろう。(明治大帝 飛鳥井雅道)

明治天皇の治世期間中、第一子から数えて合計十五人の皇子・皇女が誕生し、五人が成人となられたが、皇子が明宮親王一人であるということは、どう考えても明治天皇は不運すぎた。

          (明治天皇 笠原英彦著)

明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)*者」(統合して一手に掌握する)ことと規定され、政務をとり、陸海軍を統帥する立場としてされたが、果たして明宮親王が憲法に規定された権威に耐え得る身体であるのか、客観的に見て厳しい状況であったが、他に継承すべき皇子はいなかった。

どうしてこのように多くの子供が宮廷で亡くなるのか。

その理由は幼児期の育て方に帰する、と考えられる。明宮親王の御用掛筆頭は、侍従長たる徳大寺実則だが、実質的には天皇の外祖父・中山忠能と嵯峨実愛(明治後に正親町三条から改姓)が実権を握っていて、一時期は中山邸で育てられた。

つまり、明治天皇は自らの後継者である息子の教育を、旧勤皇公家に任せてしまったのであり、医者は漢方医でコンデンス・ミルクを飲ませることも反対したほどだった。

この反省から明治天皇は、明宮親王が結婚し皇孫殿下、即ち昭和天皇であった裕仁親王が明治34年(1901年)に誕生された時は、育て方と教育を一新し、大正天皇をとばして昭和天皇に期待を寄せるというより、昭和天皇にかけたというべき行動が見受けられた。

それが乃木希典を学習院長に任命した背景であり、裕仁親王の教育を乃木に任せたのではないかと考えている。

乃木希典については、明治天皇と鉄舟との関係のまとめで詳しくふれたいが、精神家として西郷⇒鉄舟⇒乃木のラインが明治天皇のバックボーンに深く関与しているのである。

いずれにしても、明治天皇は子供に恵まれなかった。今の時代は不測の事態が起こらない限り、大体子供は両親より長生きするのが一般的であり、明治天皇の事例は現代感覚ではちょっと考えられない境遇であるが、実際に親より早く子供を亡くされた方の悲しみは激しいものがあり、明治天皇はその子供を十人も亡くされているのである。

この状況から、侍従の藤波言忠はついに次のように直言するほどであった。

「只今の向にては、来年頃は又々御葬式の御供つかまつるべし」(明治大帝 飛鳥井雅道)

この指摘を受けるまでもなく、相次ぐ皇子・皇女の誕生後すぐ亡くなるということは、明治天皇の気持ちを暗くさせる最大要因であったが、その一方「国家の中心」として多忙な国事を冷静に勘案し遂行せねばならぬ立場を考えれば、その心中はいかばかりであっただろうか。

天皇とは我々一般人とは別次元の存在である。

そのことを先般薨去された三笠宮寛仁殿下が、櫻井よし子氏との対談で、万世一系を取り上げ述べておられるので紹介したい。(文藝春秋 平成十八年二月号 )

「天皇様というご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、連綿として万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、また神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇様を通じて継承されてきたわけです。

 世界に類を見ない日本固有の伝統、それがまさに天皇の存在です。私は天皇制という言葉が好きではありませんから、仮に天子様を戴くシステムと言いますが、その最大の意味は、国にとっての振り子の原点のようなものではないかと考えています。国の形が右へ左へさまざまに揺れ動く、とくに大東亜戦争などでは一回転するほど大きく揺れましたが、

いつもその原点に天子様がいてくださるから国が崩壊しないで、ここまで続いてきたのではないか」
このように皇族が認識していると天皇は、万世一系という重い歴史を背負っている立場である。また、孝明天皇までは国民に「見えない」存在であったものが、明治天皇は新時代となって「見える天皇」となられた。

したがって、明治天皇の心中は、相次ぐ皇子・皇女の死亡という子を失う親としてとの悲しみと、唯一の継承者が持つ虚弱性に悩みつつ、国民には「強い国家元首」としての姿を見せ続けなければならないという乖離・相克に耐え忍ばねばならなかったわけで、その克服のために「心の修行」の必要性を痛感していた。

そこに明治天皇のおそば近くに、大悟を目指して命がけで禅修行中の鉄舟が存在していた意義があった。

因みに三笠宮寛仁殿下が、鉄舟と明治天皇に関しても述べられているので紹介する。(文藝春秋 平成十八年二月号 )

「私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。

 私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。

 山岡は賊軍である幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。

そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転がしてしまう。わざと負けてあげて『お強いですね』と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。

 さすが剣と禅の達人であった山岡です。山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた。お若き時のよき体験であっただろうと思います」

このエピソード、鉄舟が明治天皇の「心の修行」に与えた影響の重さを物語っていると考える。

次号では、明治天皇が直面した政治的大問題にふれ、そこでも「心の修行」面で鉄舟がかかわっていることをお伝えしたい。

投稿者 Master : 2013年08月26日 09:07

コメント

コメントしてください




保存しますか?