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2007年11月08日

無私の精神

無私の精神
   山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡鉄舟が明治天皇の侍従に選任された経緯について、江藤淳氏が次のように解説している。

「天皇というのは元来、お公家さんの総帥ですね。明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです。・・・中略・・・

京都の朝廷のほうはどうかというと、古典的な教養はもちろんあります。有識故実とか、敷島の道、その他いろいろあるでしょう。しかし、武張ったことの下地はぜんぜんない。平安朝以来そういうことは北面の武士にやらせて、自分ではやらないたてまえですから。
そこで明治になってから、明治新政府をになった薩長中心の下級武士たちがはたと気がついたことは、天皇をこのままにしておいちゃいかん、天皇がみやびやかな、なよやかなものであってはならない。天皇にはもっと武士的になっていただかなければいけないということだったにちがいない。そこで山岡鉄舟が扶育係になります」(勝海舟全集11巻 講談社)

江藤淳氏は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤氏が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べている。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると鉄舟が明治天皇を育成したことになる。

慶応四年(千八百六十八)一月十五日に、明治天皇は元服の儀を執り行われた。十五歳であられた。この十五歳という年齢から勘案すれば、維新ならびにそれら続く多くの重大な改革・変革時に、天皇自らの御発意で治世上重要な貢献をなしたとは考えにくい。

しかし、明治天皇はその治世時から後世に至るまで、その御存在が改革・変革期における日本人の心の拠り所であった、ということは疑うべくもない事実である。

つまり、明治天皇は自らの研鑽努力により、その類稀なる資質を見事に開花させたのである。しかし、その開花の初期揺籃期に、鉄舟が御傍近くで日常深く接していたということが大きく、そのことについて江藤氏が「扶育係」と述べた理由と解釈したい。

しかしながら、扶育係の目的を「もっと武士的になっていただかなければいけない」と述べていることには異論がある。

明治天皇の日常生活と行動を記録している宮内庁編「明治天皇紀」(吉川弘文館刊)、これを基にしてロナルド・キーン氏が明治時代史「明治天皇」上下二巻(新潮社)を出版している。つまり、明治天皇の伝記を著しているのであるが、この中で鉄舟が登場するのはただ一ヶ所だが、その部分は重要な意味合いを持っている。

「天皇の酒の強さについては、近臣たちの数々の思い出話が残っている。例えば、侍従高島鞆之助は次のように語っている。『御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた。而も聖上の当時用ゐさせ給ひし玉盃は普通の小さいのではなくて下々の水飲茶碗を見るが如き大きなる玉盃に、並みゝと受けさせられては満を引かせ給ふが常であった』」

このように鉄舟は明治天皇が御酒宴を開くときの格好の相手であり、その御酒宴では「勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ね」とあるように、話に花が咲いて明治天皇にとってもっとも楽しいひと時であったことが容易に推察できる。

鉄舟の酒量は並でなく、晩年は胃を悪くして酒量を制限したが、それでも晩酌は一升ずつであったと、鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹が(『おれの師匠』島津書房)で述べているほどの酒豪であったから、若い頃から酒の上での逸話は事欠かない。いずれ詳しく述べたいが、酒豪の鉄舟は明治天皇の御酒宴を開くときの常連メンバーであった。

酒飲みならばお分かりと思うが、気の合わない人と酒を飲んでもつまらない。酒は気心許した人と飲むのが一番である。ということは明治天皇の御酒宴に付き合う人は、明治天皇が気を許した人物ということになり、その人物、つまり、御気に入りの侍臣等を相手に多くのお話をすることになって、そこでは当然ながら明治天皇からの御発問と、それに対する侍臣等からの御応えが会話となって、時によっては談論風発、明治天皇の心身に大きな影響を与えたことは容易に予測がつく。

さらに、明治天皇が京都の朝廷育ちであるから、世情、民情、下情、つまり世相に対しても詳しくない上に、御酒宴に付き合う鉄舟は極端な貧乏暮らしを嘗め、その上江戸無血開城から始まる多くの修羅場を踏んで来ているのであるから、明治天皇にとっては世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったろう。

つまり、明治天皇の一般社会に対する理解の基本を、鉄舟が御酒宴を付き合うことによって御奏上したことになったはずである。全く生きた世界が違う同士であったが故に、鉄舟の御奏上が明治天皇の心身に入っていったと思う。このことを江藤淳氏が「扶育係」と表現した真の意義と考えたい。単に「武士的になっていただかなければいけない」という意味ではないと考える。

だがしかし、いくら鉄舟が明治天皇にとって、世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったとしても、それだけでは偉大で賢明であられた明治天皇は納得しなかったであろう。京都の朝廷内で古典的な教養、有識故実とか、敷島の道、その他いろいろと学んでおられたのであるから、単なる下世話的な会話のみでは好まない。そこには天皇として、為政者として、何かあるべき姿への参考となり、得るべきものが存在していなければ、いくら酒豪であっても御酒宴のお相手は続かなかったであろう。

その明治天皇がお持ちになれず、鉄舟が持ち得ていたもの。それは何か・・・。

前号でお伝えしたように、鉄舟が二十三歳のときに一人で創りあげた「宇宙と人間」、それは「民主主義ともいえる概念」であって、今の時代に生きている人間には当たり前で何ら不思議はない。

だが、ただの一度も外国に行っておらず、勝海舟が咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコに向かった万延元年(1860)より二年前の安政五年(1858)五月、これは安政の大獄は九月であるからその四ヶ月前に、独りで「宇宙と人間」図を創りあげていること、それは、鉄舟という人間が只者でないこと証明している。

その只者でない鉄舟が持ち得ていた「民主主義ともいえる概念」を基盤に発する鉄舟との御酒宴内容は、明治天皇にとってはこれからの時代を見通す新しい思想を感じられる場であり、驚きであり、新鮮な感覚であったと推察される。それらが重なって鉄舟が明治天皇に評価され、受け入れられたのではないかと考えたい。

さらに、鉄舟が「宇宙と人間」として図表化できたのは、物事を整理する力量があることを示している。しかし、注意したいのは、ここで言う整理する力とは、一般的な意味での整理力ではない。社会から発する物事の基礎的な分野から、組み立てていけるという意味での整理力である。

社会は矛盾だらけである。矛盾を呑み込まなければ生きていけない。だから、多くの人は矛盾を呑み込むことをよしとする世界に行く。

ところが、鉄舟という人間は違った。社会の矛盾をとことんまで突き詰めること、矛盾を乗り越えるというよりは、矛盾の中へ忍び込み、矛盾の向こうに突き抜けてしまうということを鉄舟はしたに違いない。

黙って矛盾という大海原の中に身を投げ出し、その海底から這いずり上がる過程で、「宇宙と人間」という思想体系を創りだし、加えて、鉄舟が持つ本来の稚気とも独特の義勇ともいえる人間的魅力をも引き出したこと、それを整理力と表現したいのであるが、その結果として、明治天皇からもっとも親しい人物として受け入れられたのだと考えたい。

さて今回は、どうしてそのような只者でない思想を明瞭に体系化でき、どうしてそのような独特とも考えられる魅力的な人間力になれたのか。その解明をしたいと思って検討しているのであるが、その解明にはもう少し鉄舟の子ども時代を検討しないと難しい。

鉄舟が十五歳の正月、次のように修身二十則を認めた。

(修身二十則)
1. うそはいふ可からず候
2. 君の御恩は忘る可からず候
3. 父母の御恩は忘る可からず候
4. 師の御恩は忘る可からず候
5. 人の御恩は忘る可からず候
6. 神仏並に長者を粗末にす可からず候
7. 幼者をあなどる可からず候
8. 己れに心よかざることは、他人に求む可からず候
9. 腹を立つるは、道にあらず候
10. 何事も不幸を喜ぶ可からず候
11. 力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候
12. 他をかへりみずして、自分の好き事ばかりす可からず候
13. 食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し、すべて草木土石にても、粗末にす可からず候
14. 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得可く候
15. 礼儀を乱る可からず候
16. 何時何人に接するも、客人に接する様に心得可く候
17. 己の知らざる事は、何人にてもならふ可く候
18. 名利の為に、学問技芸す可からず候
19. 人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、或はわらふ可からず候
20. 己の善行をほこりがほに人に知らしむ可からず、すべて我が心に恥ぢざるに務む可く候

 嘉永三年庚戌正月 行年十五歳の春謹記
                        小野鉄太郎

この修身二十則を認めた嘉永三年(千八百五十)十五歳の年は、鉄舟にとっていろいろと記念すべき年であった。

まず、正月に今の成人式に当たる元服を迎え、この年に書の師匠である岩佐一定から弘法大使入木道五十二世を伝承され、さらに父の小野朝右衛門高幅の代理として伊勢神宮参拝し、この旅で二人のすぐれた人物、藤本鉄石からは林子平(1738-93)の「海国兵談」の写本を借り読み写し、当時の先端的国際情勢をつかみ、もう一人は伊勢神宮神主の子であって、歌学、律令、有職故実に通じ、特に古典の考証にすぐれ多数の著述を残している足代弘訓から、国学思想を学んだ。

このように十五歳という嘉永三年は、その後の鉄舟に大きな影響を与える特記的事項が続いた。しかし、弘法大使入木道五十二世を伝承しようとも、藤本鉄石や足代弘訓から学ぼうとも、それを受け入れる体制が鉄舟に備わっていなければ、焼け石に水であり、猫に小判である。いくら型が与えられても、また、教えられても、受け入れる側の対応力が不十分であれば糠に釘である。

だが、鉄舟は違った。この十五歳の正月に認めた修身二十則をじっくり読んでいただきたい。何ら奇抜なことはなく、平凡ともいえる内容であるが、平凡であるがゆえに全く異常ともいえる並外れたものである。

利得や享楽を求める現代人の多くの人たちにとっては、信じられない項目ばかりである。一つひとつを解説する必要はないと思う。一読すれば理解できる内容である。しかしながら、このような心得とも戒律ともいえるものを定める人はいると思うが、それを実行している人が存在しているかどうか。実行することはかなり難しい。しかし、鉄舟はこれを自ら認めると同時に実践したのである。

また、十五歳の少年が元服という記念の日に認めたということ、それはそれ以前から思想としてこのような精神と道徳感を持ち合わせていて、それを純粋に自らが行動する規範原則として整理できる能力を所有していたことを示している。

中でも、己の知らざるは何人からも学べと言い、名利のために学問技芸すべからずと諌め、人にはすべて能不能あるので差別するなと説き、わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろとあるが、これは既に立派な大人であって、賢者ともいえるレベルの精神状態に達していて、とても十五歳の少年が書き示したものとは思えない。

人間の出来がもともと違うのだ、といってしまえば終わりである。何ら鉄舟から学ぶことができない結果になる。鉄舟ほどにはなれないけれども、鉄舟がどうしてこのような精神の高貴さを持ちえたのか。その本質的なところを解明しなければならないと思う。

そのヒントに考えられるのは「無私」の精神ではないかと思う。鉄舟は「無私」を自己研鑽の最高の徳目にしていたのではないかと考えたい。

その「無私」の精神を支えるには条件があるだろう。

その一つの条件は「真実を判断する力」ではないだろうか。様々な情報が目の前を通っていくのであるが、知的に自由な曇りなき目を持った柔軟な精神でないと真実は見ることができないはずである。歪んだ立場からの判断は真実を見つけられないのである。

もう一つは「徹底的に強靭な思想」を持つことではないだろうか。いかなる困難に出会い、その困難がどれだけ長く続いても、絶対に絶望しないで戦い抜くという意志を思想として持つこと。この強靭な思想を持っていないと、問題が発生するとすぐに逃げる道に向っていくことになってしまう。

この「真実を判断する力」と「徹底的に強靭な思想」を両立させることは、相当に難しいことである。並みの人間にはできないことであろう。

逆に言えば、この二つの条件を達成させようとするためには、その人の根本に「無私」の精神が存在していないとできないはずだろう。

そのことを鉄舟は十五歳までの人生体験から整理したのである。

しかしながら、この検討で鉄舟の並外れた人間力を解明したことには到底なり得ない。

次回も鉄舟のすごさについて、さらに思想面から検討を深めていきたい。

投稿者 Master : 2007年11月08日 11:10

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