« 4月例会記録(1) | メイン | 5月例会の感想 »
2008年05月17日
山岡静山との出会い・・・その三
山岡静山との出会い・・・その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄太郎は槍との立合いは始めてであったが、「なに、剣も槍も同じだ」と相手に対した。しばらく睨み合いが続き、相手が「トウーー」の掛け声とともに繰り出してきた槍を左に払い、相手がバランスを崩したところに、鉄太郎得意の突きで相手の喉を強烈に刺した。
後ろによろめき倒れた相手が「参った」という声とともに、勝負は一瞬に終わった。鉄太郎の完勝で、瞬間であったが肩を聳やかしたのを静山も井上清虎も見逃さなかった。
「お見事」という静山の声が道場にこだまし、静山は井上清虎を振り返る。清虎は「あの態度を懲らしめ鍛えてやってくれ」という眼差しを静山に送る。
頷いた静山、「では、拙者がお相手いたす。遠慮なく」と、鉄太郎の前に立った。
「ありがとうございます」鉄太郎の期待は深まり、玄武館で鍛えてきた腕が試せると、深々と静山に一礼する。
静山に向って竹刀を構えてみて、鉄太郎は唸った。足が一歩も前に出ない。間合いが詰められない。身動きができない。逆に、たんぽ槍の穂先が真槍の鋭さをもって、にじりじりと迫り、とうとう道場の羽目板に背中がつくところまで圧された。
五尺六寸(170センチ)あまりの静山の体が、六尺(180センチ)を超す鉄太郎にのしかかってくる。静山が巨岩になっている。圧迫で息が苦しい。何とかしたい。だが、体が動かない。何かに縛られている感じだ。背中を汗が伝わり流れる。
その時、静山が穂先をわずか下げた。相手を誘う動きだ。誘い水だと分かっていたが、金縛りの状態を打開するには、このチャンスしかない。相打ちでいこう。鉄太郎は「エイー」と諸手突きを、静山の喉元めがけ打ち込んだ。
その瞬間、鉄太郎の息が止まった。体が反転した。自分の体がどうなったか分からない。気がつくと道場の床に這いつくばっていた。
しかし、鉄太郎は必死の形相で立ち上がりながら、低い姿勢から一気に静山に向って体当たりしようとした瞬間、再び、穂先が鉄太郎の喉元に突き刺さった。どうしようもできない速さの突き。鉄太郎の巨体がのぞけり、どうと倒れ、道場内に大きく響き渡った。
「参りました」意識が朦朧で、喉を突かれ声にならない声で、両膝を折った。完膚無き負け。敗北感が全身をおおった。
鉄太郎はそれまでこのような徹底的な敗北感、その感覚を味わったことはなかった。九歳のときに真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから井上清虎に師事し、江戸に戻って玄武館道場に入門し、すぐに鬼鉄と称される腕前になっている。
書にしても、師岩佐一定に提出した十五歳の時に書いた誓約書「書法入門之式一札」が現在に残っているように、見事な筆跡であり、これを提出してからわずか半年後、一定が鉄舟に弘法流の免状を与えたことが示すように、優れた才能を示してきた。
もともと剣と書について天性の素質を持っていた。特に、剣は小野家の祖先高寛が、伊藤一刀斎の直弟子小野次郎右衛門と小太刀半七の両士の門に入り、剣法に達し、禅道の薀蓄を極めたと、鉄舟居士自叙伝にあるように代々武術に興味がある家系であった。
それを証明するかのように、鉄太郎の父朝右衛門は、高山代官であった時に盛んに武道を奨勵し、幾度か陣立を行った爲に、幕府にうたがはれ、遂に違法として咎を受け、自刃したと言う説があるほど武術に興味があった。
また、母磯の生家である塚原家は、塚原卜伝を輩出したように武術家の血筋である。このような両家の遺伝を受けた鉄太郎の剣はもともと優れた天分があった。
だから、今までの剣の修行は厳しく激しいものであったが、自らを磨くという意味で、その厳しさも、激しさも、次への段階への鍛えとしての充実感が漲り、残るものであった。だから、今回味わった徹底的な敗北感という感覚、それとは今まで無縁であった。
だが、静山の槍は、今までの修行レベルを超えていた。充実感なぞという感覚は吹っ飛ぶレベルだった。「完敗」という感覚が体の奥底から巻き上がってきた。
「このくらいでよろしいですかな」と、井上清虎に語りかける静山の乱れのない静かな声が、まだ朦朧としている鉄太郎の頭上に聞えた。
「鉄太郎、身繕い終わったら静山先生のお宅に参れ」という井上清虎の呼び掛けに、「承知いたしました」という声も出せず、崩れた姿勢の中から、ようやく頭を下げるのが精一杯であった。
道場の裏側にある井戸端で、鉄太郎は赤く腫れた喉元を冷やし、汗を拭こうと見事な筋肉で締まっている上半身裸となった。桜の大木から花吹雪が飛んできて、花びらが上半身にまといつくのも気がつかず、鉄太郎の中にある想いが決意となって凝結する。
静山の「すごさ」が畏敬の念となり、それが塊となって「師として仕える」決心を固めさせたのである。鍛えぬいた上半身を拭い、改めて静山の屋敷を見つめる鉄太郎の目が、期待感で輝き弾んだ。
鉄太郎の肉体は当時でも際立っていた。身長は六尺(180センチ)を超え、体重は二十八貫(105キロ)という巨躯、相撲取り並である上に、剣の修行で鍛え抜いていたので筋肉隆々とした偉丈夫であった。
この時代、武士の体はどうであったのだろうか。武術で鍛えているから鉄太郎を含め一般的に立派な体であったのだろうか。
しかし、意外な事実であったことを「『逝きし世の面影』渡辺京二著 平凡社」が伝えている。支配者層であった武士は一般的に体格が貧弱だった反面、下層階級の人々の体は肉体美にあふれていたという。
そこで、ちょっと寄り道になるが、鉄太郎が過ごした幕末から明治初期の日本人の体格について、外国人が賞讃する下層階級に所属する人たちの肉体美について同書からみてみたい。
「エミール・ギメは人力と車夫という典型的な肉体労働者の体格を次のように描写する。『ほっそりと丈が高く、すらりとしていて、少ししまった上半身は、筋骨たくましく格好のよい脚に支えられている』。荷車を曳く車力は『非常にたくましく、肉付きがよく、強壮で、肩は比較的広く、いつもむき出しの脚は、運動する度に筋肉の波を浮き出させている』
ヒューブナーも日本人船頭の『たくましい男性美』を賞揚し、『黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する必要がある』という」
また、ギメの乗った船が明治九年、横浜港に着いた時、同乗していた主人を迎えに来た若い日本人たちを
「『彼らの主人の荷物の上に、浅浮彫にみられる風情で、どっかり腰を下した。優美な襞、きまった輪郭、むき出しの腕のポーズ、組んだ足、下げた頭、衣服と組み合わされて調和のとれた体の線、すべてが古代の彫刻の荘重な美を思い出させる』。そしてギメは問う。『なぜ主人があんなに醜く、召使がこれほど美しいのか』」と。続けて「上層と下層とで、日本人の間にいちじるしい肉体上の相違があることは多くの観察者が気づくところだった。チェンバレンは端的にいう。『下層階級は概して強壮で、腕や脚や胸部がよく発達している。上流階級はしばしば病弱である』。メーチニコフも『日本の肉体労働者は衣服と体つきの美しさという点で、中流、上流の人々をはるかにしのいでいる』という事実に気づいた。スエンソンは『下層の労働者階級はがっしり逞しい体格をしているが、力仕事をして筋肉を発達させることのない上層階級の男はやせていて、往々にして貧弱である』。ヴェルナーは『下流の者の間では、まるで体操選手を思わせるような、背が高く異常に筋肉の発達したタイプにめぐりあう』」
同書はさらに続けて「注意しておきたいのは、日本労働大衆についてのこういう意外な記述がみられるのは、幕末から明治初期の記録に限られることだ」としている。また、「後年、日本を訪うた欧米人は、日本の男の容貌や肉体についてしばしば゛醜い゛と記述している」とも書いている。
武士階級は武術で鍛えていたはずだから、一般的に逞しい肉体を保持していたと思い込みやすいが、実は貧弱だったと言う外国人の指摘結果、その反面、江戸時代の労働大衆は素晴らしい肉体美を持っていたという事実に、思いがけない江戸という時代を認識する。
身繕いを整えた鉄太郎は、山岡家の玄関に立ち案内を乞った。
奥から現れたのは十五歳の英子である。近い将来、この大男が自分の伴侶となることなぞ露知らず「小野様、奥へ・・・」と案内してくれる。
奥の部屋には静山と井上清虎が対座している。二人の顔は和やかである。多分、鉄太郎の剣筋について話し合っていたのだろう。
鉄太郎は、敷居の手前でぴたりと座り、両手をつき井戸端で決意したことを述べた。
「山岡先生、私をご門弟の端にお加え賜りたく、伏してお願い申し上げます」
「鉄太郎、どうだ、分かったか。上には上があるだろう」と井上清虎、「ハハー」と鉄太郎は畏れ入り「今までの振る舞い、ただただ、忸怩たる思いでございます」
「それが分かったか。よろしい。山岡先生、拙者からもお願いしたい。鉄太郎をご門下に入れてやっていただけないか」
「鉄太郎氏の師である井上先生が、そのようなお気持ちでござれば、遠慮なく当道場へいつかからでも参られい」と静山は答え、「お城勤めの身、不在の時は、弟の高橋精一(泥舟)がお相手するときもあるでしょう」と加える。
「ありがたき幸せにございます」と敷居の手前の縁側で、大きな体を深々と頭を下げる。
そこへ英子がお茶を運んできて、鉄太郎の振る舞いを好意的な眼差しで見た。
「鉄太郎、この方は山岡静山先生のお嬢さんで、英子さんだ」と井上清虎、続けて「英子さん。この大男は小野鉄太郎、別名鬼鉄という暴れん坊です。今日から静山先生の弟子となりましたので、厳しく扱ってください」
「まぁ、厳しくなんて・・・。こちらこそよろしくお願い申し上げます。それにしてもそのような大きな体で敷居際におられますと、私が出入りできませんので、どうぞ中にお入りください」
「これは気がつかずに失礼いたしました」
四人の明るい笑いが座敷に満ちた。
これが鉄舟が真に傾倒した静山という人物との出会いであり、生涯を変えることになった英子との出会いであった。鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で静山に次のように語っている。
「鉄舟が真に心を傾倒した師匠が一人ある。それは槍術の師、山岡静山その人である。静山は当時日本で一か二かと推奨せられた槍術家であったが、鉄舟はその技倆に感服したのではなくて、その人格に心服したのである。このことは後に鉄舟が小野姓から山岡姓を名乗る因ともなったのである。そんなら静山といふ人はどんな人であったか。
静山は號で、通称は紀一郎、名は正視、字は子厳と云ひ、幕臣の極く軽い身分であったが、槍法では天下を鳴らしたもので、当時関西槍術の雄築後柳川の南里紀介と立ち合って、四時間も勝負がつかず、二人の槍先が砕けて一寸余りも短くなったといふ話がある。けれども静山の優れたところは、かかる技倆の問題よりも寧ろその人格にあった。親には大変孝行で、たった一人の母のいふことは、どんなことでも聴き、また母の用事はなんでも自分でやった。母の肩が凝るので、毎晩その肩を按摩してやったのだが、段々弟子も増えて身辺が忙しくなり、按摩して居る暇が無くなってきたので、一六の日は母の按摩と定め、どんな用事があっても屹とこの日は母の肩を揉むことにしてゐた」
静山と鉄太郎が師弟として交じり合ったのは、一年に満たない僅かだった。静山が二十七歳の若さで突然亡くなったからだが、その後の鉄舟に対して与えた影響は計り知れない。単なる武術としての槍術だけでなく、人格的な教えを多々受けた。また、静山の激しい猛稽古は、後年、鉄舟が春風道場を開いたときの「誓願」猛稽古、その意味は一死を誓って稽古をするということであるが、これも静山の猛稽古からヒントを得たと思う。
では、その激しい静山の稽古はどのようなものであったか。次回に述べたい。
投稿者 Master : 2008年05月17日 04:38