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2010年02月04日

清河暗殺その一

山岡鉄舟研究 清河暗殺その一
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

「村摂記」なるものがある。一橋家の家臣で、慶喜の小姓であった村井鎮、後に久五郎と言い摂津守ともなったが、これが明治になって、その体験を回想し記述した書である。

もともとこの書には名前がついていなかったが、三田村鳶魚が「村摂記」と名付けたものであって、この中に清河暗殺について次のように記述されている。(未刊随筆百種第三巻 編者三田村鳶魚 中央公論社)
 
「時の御老中もなんとも手のつけかたがないから、頭のうちに清川にも恐れず、可なり議論もある者一人に秘密に命じて、清川を打果たせしむることになった、其頭の門人に剣術体術ともにすぐれた人を五人選抜して」とあり、特記事項として「左の人名は本文に掲ぐべからず」とした上で、「御老中は小笠原壱岐守、当時図書頭と云ふ、頭は、松平上野介、前主税之助と云ふ、高橋伊予守、精一郎と云ふ、山岡鉄太郎、内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門、刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後に弥吉)高久左次馬等にてあと二人は記憶せず」と記述されている。

「村摂記」で明らかになったのは、浪士組の頭として泥舟と鉄舟などに加えて、窪田冶部右衛門という人物がいて、この窪田が清河暗殺の命を受け動いたということであるが、この窪田は今まで浪士組に関わる諸資料に、ほとんど登場しなかった人物である。

一体、窪田冶部右衛門とはどのような人物であったのか。

その前に、清河暗殺に関して、誤解を与えかねないような記述があるので少し触れてみたい。まず、最初にこの「村摂記」を引用した野口武彦著の「幕末パノラマ館」(新人物往来社)を見てみたい。

 「この回想には『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記した上で、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったと当時の機密が漏らされている」とあるが、ここで「村摂記」の引用が切られている。つまり、「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」という部分が抜け落ちているのである。

 また、この野口氏の見解を引用したものに小島英煕著の「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)があり、そこでは次のように記されている。

 「野口武彦神戸大学教授によれば、慶喜の小姓役だった村井久五郎が『村摂記』にこういうことを書いている。・・・途中略・・・『左の人名は本文に掲ぐべからず』と特記して、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一郎(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったという。にわかには信じられない話で、真実は闇の中だが、もし関与したとすれば、高橋だろうか。政治の暗闇を思わせる話だが」

 ここで重要なことは、清河暗殺に高橋(泥舟)が関わっているのではないかという推測を小島英煕著が述べている点である。もしかしたら鉄舟をも疑ったかもしれないような書き方である。

 しかし、実際の「村摂記」による記述は、明確に「内命を受けたる頭は、窪田冶部右衛門」と記述しているのであるから、全く泥舟と鉄舟は関わっていない。

 それを証明するのは清河暗殺後の処分である。暗殺事件後勘定奉行から取り調べを受けたが、泥舟・鉄舟と松岡万は勘定奉行所で行われた。つまり、現代でいえば警察署に出頭して事情聴取されたのである。

 だが、窪田は中条金之助の邸で事情聴取されたのであって、現代の政財界人が任意で「某所にて」というものに似ている。

 さらに明確なのは処罰結果である。

 高橋伊勢守(泥舟)・・・御役御免の上蟄居
 山岡鉄太郎・・・・・・   同じ
 松岡 万・・・・・・・   同じ
 窪田冶部右衛門・・・・御役御免の上差控・・・後に小普請入り

まず、この御役御免であるが、浪士組は新徴組に改編しようとしていたことでもあり当然の処罰であるが、問題は蟄居と差控の内容である。

蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」が、差控は「自宅に謹慎ではあるが、行動はあまり制限されない、外出も可能」というもので、蟄居よりは処罰が軽いのであり、加えて、小普請入とは御役御免なのであるから当然で、どうもこの窪田に対する処罰は実質無罪と同じと思われるのである。

この処罰後、しばらく泥舟と鉄舟は幕府から干され、時代の歴史から隠れるが、窪田は二カ月後函館奉行に再登用され、その後すぐに神奈川代官となり、続いて西国郡代に就任しているのである。

このような窪田の動向から推測できるのは、やはり「村摂記」にあるように、清河暗殺には窪田冶部右衛門が絡んでいて、浪士組幹部処罰の手前、表面上一時的に処罰めいた処分をしたが、実際は論功行賞としての人事が行われたと考えるのが妥当と思われる。

 では、窪田冶部右衛門とはどのような経歴か。それを佐倉藩家老で、明治二三年貴族院議員になった西村茂樹が次のように述べている。 

「窪田冶部右衛門といへるは元肥後熊本の藩士なりしが、故ありて藩を出で幕府の士となれり。其居宅は、江戸巣鴨にあり、其邸地の広さ数萬坪ありて周囲に杉を植付け(杉数四萬本ありと云う)其外、梅、柿、桃を多く植え、梅は千本、柿は其実十三駄(注 駄とは牛馬一頭が積む荷物)を得という。其他は尽く麦畑と為し、一家皆耕作を事とし土着武士の風を行う。

 窪田、武芸に長じ、慷慨勇壮の士なり。邸内に七十間の馬場ありて日々乗馬を為し、孫娘の十三四才なるがありしが其娘にも乗馬を学ばしむという。常に幕府初め諸藩の士気の衰敗し士風の惰弱になれるを慨し、やく腕して時勢を談ず。又軍具足を制作することに長ず、(中略)窪田の子は西洋銃陣の法を学び、幕府の歩兵奉行となり、備前守と称す。明治元年鳥羽の戦に戦士す。」(窪田冶部右衛門の賦 西沢隆治著)

 このような窪田について書かれていることから推測すると、窪田冶部右衛門はかなり特異な御家人であったと思われる。なお、窪田の子泉太郎は後日鉄舟と絡む人物であり、この経緯は次回でお伝えしたいが、もう少し同書を敷衍して窪田という人物をみてみたい。

まず第一は、御目見え以下の御家人として七十俵五人扶持という身分なのに、大名の下屋敷に匹敵する広大な土地に住み、耕作に従事し半農半士の生活であることである。

 次に、具足の製作に長じていたようで、この技術力をもって具足の修理から仕立てまでの内職を手広く行っていた。時代はペリーが来航してから、それまでは具足は正月用の飾りものであったのが、急に手入れを行い、新しく作る必要性が発生し、この突如訪れた具足整備ブームによって、窪田家は内職の域を脱する家内工業的な忙しさとなった。当時は皮等をいじるのは下賤の仕事として、卑しく思われていたが、全く気にしないで引き受けていたことも、窪田の特異性を示す。

 加えて、窪田は武芸に長じていた。剣術、槍術、柔術、馬術、水練、鉄砲という武士のたしなみはすべて練達していた。窪田の邸には、親交の深かった川路聖謨(かわじとしあきら)の孫たちや、坂本竜馬を斬ったとされている今井信郎も柔術の稽古に通っていたという。

その窪田の武芸はとうとう講武所にも認められ、すでに五十一歳になっていたが、教授方になり、御家人から御目見得以上の旗本となり、奥詰に出世したのである。

幕末時の奥詰とは、文久元年(1861)に創設された、将軍警護を預かる親衛隊で、総員六十名ともいわれ、講武所の教授方を務めた武芸名誉の旗本・御家人から選任したものである。時の将軍家茂から奥詰衆への信頼は厚く、設置以降必ず将軍の上洛に随行し、長州征伐でも、奥詰は小姓・小納戸といった将軍の身の回りの世話をする者と共に近侍しており、その信頼の厚さは数多い武官の中でも群を抜いていた。

この窪田の手引きによって、実際に清河暗殺が実行されたのは江戸に戻ってからであった。だが、浪士組が京都から江戸に戻るべく出立しようとした矢先、幕命によって新たに浪士組取締として着任したのが佐々木只三郎他であり、いずれも講武所教授方で、旗本の中では屈指の使い手という暗殺チームであったが、どうして江戸への道中で暗殺を実行しなかったのだろうか。道中であるから清河と接する機会は多かったと思われるのに・・。

これについていくつか紹介したい。

まずは司馬遼太郎著の「幕末」からである。

「途中、中山道馬篭の宿の本陣島崎吉左衛門方に入った時、佐々木は、山岡鉄太郎の部屋に余人がおらず山岡が独り坐禅を組んでいるのを見きわめてから、そばににじりよった。

『山岡さん話がある』
『なんだ』
『隣室を確かめてよいか』
『その必要はない。隣りは無人だ。相談というのは、清河を斬ることだろう』
『知っていたのか』
『いや、知らん。あんたが不意に浪士組取締になったのはそんな含みだろうと思った。差金は板倉(伊賀守・老中)さんだな』
『ご想像にまかせる。とにかく、八郎奇妙なり、とさる閣老が申される。あの清河がこのさき江戸に入れば、希代の策士だ。勅諚を笠になにをやりだすか。おそらく江戸、神奈川で攘夷騒ぎをまきおこして、あわよくば天下の一角に旗をあげようとするだろう』
『しかし』
山岡は口をつぐんでから、やがて、
『あんたに八郎が斬れるかね』
『斬れる』
『一人で?』
と、山岡はこわい顔をしてみせた。
『いや、兵略は答えるすじではなかろう。ただ相談役としてあんたに一言申しておくべきだと思って罷り越した。ただしこのこと、くれぐれも清河に明かしてくださるな』
『ご心配には及ばん。口のかたいことだけがわしの取り柄だ。ただし言っておくが、清河をわしはあくまでかばうよ。あれは百世に一人という英雄だ。ただ惜しいことに背景を持たぬ。われわれには大公儀という背景がある。薩長の縦横家たちにも藩の背景がある。そこへゆくとあの男はたった一人だ。一人で天下の大事をなそうとすれば、あちらをだまし、こちらをだまし、とにかく芸がこまかくなる。いますこし、あの男が英雄らしくなるまで生かしておいたらどうだろう』
『上意ですよ』
『あんたは板倉閣老の家来かね。われわれ直参で上意といえば将軍家がおわすだけだ』

 もう一つ紹介したい。子母澤寛著の「逃げ水」である。

 京都から江戸に中山道を十一里下って、第一夜を近江武佐の本陣丸屋一室で迎えたときの、泥舟と鉄舟の会話である。

「謙三郎(泥舟)は声を落して山岡へ耳を貸せというような格好をした。
『新任の出役六名、ちと穏かならん面つきだ。気をつけよ』
『は、わたしもあの時からそれは感じた。六人悉く眼光に殺気がある。隙あらば清河さんをやる気だろう。ね、兄上―――』
とこんどは山岡が謙三郎の耳元へ、
『周防守様から命じられて―――』
といったら、
『これっ』
と謙三郎は激しい声で、
『滅多なことは云うものではねえ』
『は』
『斬っても、斬られても、道中、事があっては、わたしの責が果たせぬ。充分に見張らなくてはならない。旅宿は、殊に眼をはなせんよ』
『承知した』
『江戸へ行って、総人数を確と引き渡した上では、何があろうと、わたしの関せんことだがね。尤も、清河も心得のある人間だ。もうその辺は感づいているだろうな』

いずれにしても、中山道では清河暗殺は未遂に終わったが、それにはもう一つ時代が持つ重要な理由が隠されていたのである。次回に続きたい。

投稿者 Master : 2010年02月04日 16:14

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