« 望嶽亭に伝わる真実 | メイン | 3月の例会のご案内 »

2007年02月22日

鉄舟誕生とその時代背景

鉄舟誕生とその時代背景
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

2005年九月十一日の衆議院総選挙で多くの新人議員が誕生した。その八十三人に対し昨年末、日経新聞の田勢康弘氏が「政治家の心構え」として、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」を手渡し、次のように語った。(日経新聞2005年12月5日)

この「南洲翁遺訓」に「国のリーダーとしての生き方がすべて書いてある。ぜひ読んでほしい」。また、要点は一つだと読み上げたのが「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり」であった。

西郷はこのくだり、誰をイメージして遺訓に書き残したのか。それは山岡鉄舟であった。駿府における江戸無血開城交渉・談判において「すべてを捨て去り迫ってくる鉄舟の人間力」に感動した西郷は、勝海舟との江戸薩摩屋敷における正式会談後、江戸市中を見渡せる愛宕山に登り、鉄舟を評して語った言葉が「南洲翁遺訓」に記され、これが本連載のタイトルにもなっているのである。

山岡鉄舟は小野鉄太郎として天保七年(千八百三十六)六月十日に、本所大川端四軒屋敷の御蔵奉行役宅、今の蔵前橋辺りの隅田川端に生まれた。時は明治維新前三十二年、日本が未曾有の大改革を目前にして、国全体が風雲急なる時代であった。

二十歳のとき山岡家に養子に入り、以後山岡姓となるが、小野鉄太郎として生まれた御蔵奉行役宅を、安政三年(千八百五十六)の切絵図と現代地図で確認してみると、台東区蔵前一丁目の都立蔵前工業高校から二丁目の東京都下水道局あたりで、蔵前橋通りに沿った蔵前橋に近いところに「浅草御蔵跡」の碑が立っている。

御蔵奉行は時期により定員が三名から九名に変わり、したがって役宅もいくつかあり、そのひとつで鉄舟が誕生したのである。御蔵奉行とは勘定奉行の管轄下で、全国各地の幕府領地から送られてくる年貢米の出納、保管、御蔵の営繕管理などを行う役目であり、札差の手を経て、市中に渡す手続きが行われたところである。札差とは旗本・御家人の蔵米取の代理人として、御蔵から支給される俸禄米を米問屋に売り払い、手数料を得ることを本業とする商人であったが、いつしか旗本・御家人に蔵米を担保として金貸しを行う、武士御用達の金融機関となった。

さて、その御蔵奉行としての父小野朝右衛門高幅は、六百石取の旗本であり、母は常陸の国鹿島神宮神官である塚原石見の二女磯であり、後妻であった。

鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」に、「鉄舟の同胞」と題して鉄舟の兄弟一覧が掲載されている。これによると鉄舟が生まれる前、すでに男四人、女三人の子供がいて、長男の幾三郎が早世とあるので六人の子供がいたことになる。ここに嫁いで来た磯は三番目の妻となるのであるが、結婚に当たって、最初は塚原石見に断られたようである。

当時小野朝右衛門は、塚原石見の家の近くにある小野家所領地の管理を塚原に依頼しており、その縁で磯を見初めたのであるが、六百石取の旗本であっても、五十半ば過ぎの男と、三十歳以上離れた若い娘の磯との結婚は難しかった。

そこで、結婚するに当たって念書が交わされたという。小野朝右衛門と塚原石見の間で「生涯不自由はさせない。倅の代になっても粗略にすることはないことを申し渡す」として、署名をしたものが山岡家に残っているという。(『山岡鉄舟 幕末維新の仕事人』佐藤寛著 光文社新書)

朝右衛門を魅了した磯については「當時師匠と同門だった富田某の日記に『至って丈高く色黒く気分鋭し』」(おれの師匠)とあるように、頭脳鋭き長身の女性であった。一方、朝右衛門は「父朝右衛門高幅は、あまり聞かぬところをみると尋常の人であったらしい」(おれの師匠)とあるように、特別に目立つ人物ではなかったようである。

なお、朝右衛門は「身長五尺七寸(百七十三センチ)当時としては大柄ではある」(山岡鉄舟 幕末維新の仕事人)と両親共に長身であった。また、「師匠の六尺二寸二十八貫の體軀も母に似たものと思はれる」(おれの師匠)とあるように、鉄舟の立派な体格は両親の血筋を受けていた。

朝右衛門と磯との間には、鉄太郎(鉄舟)をはじめとして六人の男の子が生まれた。したがって、朝右衛門は十三人の子供を生んだことになる。なお、鉄太郎は朝右衛門の五男となるが、鉄太郎と長男を意味する「太郎」を名づけられたこと、それは磯にとっては長男であることからと思われるが、ここにも朝右衛門と磯との力関係が伺える。

さて、鉄太郎は十歳のときに、朝右衛門が飛騨高山の郡代として赴任することになり、一緒に飛騨高山に向かったのであるが、それまでの鉄太郎については、九歳のときから真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始めたという程度のみで、特別に言い伝えられていることは残っていない。

というのも鉄舟は生涯を通じて、日記や自叙伝を残さなかったので記録がない。小倉鉄樹が、鉄舟の自叙伝を筆記したいと相談したところ「そんなことはしなくともよい。書かなくつたつて残るものなら後世に残るし、残らぬものならいくら詳しく書いたつて消えてしまう」と相手にされなかったと述べている(おれの師匠)。したがって、身近に居た人や、周辺の人が書きとめておいたもの以外に史料がないのである。

しかし、飛騨高山に移ってからは、富田節斎の日記で知ることができる。鉄太郎に習字や素読を教え、小野家と日常的に接していたため、日記で鉄太郎の行動が分かるので、これについては次回以降、順次お伝えしていきたい。

さて、鉄舟のすごさは「南洲翁遺訓」にある通りで、さすがに西郷隆盛である。鉄舟の本質を一瞬にして見抜き、的確に表現している。またそれが、鉄舟が生きた時代と今とは大きく異なるのに、一国の政治運営を司ることになった小泉チルドレンに対する心構えとして、それも最も大事な要点として伝えられたこと、その意味するところは重要である。

人はその存在した時代にしか生きられず、必ずその生きた時代から影響を受けるものであって、これは鉄舟も同じである。だが、百三十八年前の幕末時の生き方が現代の政治家に心構えとして示された事実を考えると、鉄舟の生き方の中に、何か時代を超える本質的なものが存在していると思う。

また、これを検討することが、本連載のタイトルである「命も、名も、金も要らぬ」と評される人間になれたのか、それを解明することに通ずるはずである。しかし、その検討の糸口を何に求めたらよいのであろうか。難しい課題である。

それは、やはり西郷から始めたいと思う。愛宕山での西郷から検討したいと思う。

江戸無血開城の正式会談後、愛宕山に海舟と向かったことは前述した。そこで以下の会話が両者間でなされたと海舟が述べている。
「西郷はためいきをついて言うには、”流石は徳川公だけあって、エライ宝をおもちだ“というから、どうしたと聴いたら、イヤ山岡さんのことですというから、ドンナ宝かと反問すると、”イヤあの人は、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の脱けた人でござる“」(『山岡鉄舟』 大森曹玄著 春秋社)

この後に、冒頭の「南洲翁遺訓」に記された内容が続くのであるが、ここでは西郷が発した「エライ宝物」という表現に注目したい。それは、当然に鉄舟を指してはいるが、その言葉の裏に徳川幕府に対する評価もあると考えたいのである。ということは、徳川幕府が倒壊する時に至って、突如として一介の軽輩旗本を、それも江戸を戦火から救う重要な交渉・談判に登場させ、見事に成し遂げさせたというところ、そこに徳川幕府における人材層の豊かさと、懐の深さを感じ、これは西郷も同様ではなかったと推測したいのである。

さすがに幕府には隠された優れた人物がいるものだと、鉄舟を目の当たりにして思ったに違いない。それが「エライ宝物」ということになったのだと思う。この推測が妥当とするならば、その意味するところは徳川政治というもの、それは封建体制下ではあったが、意外にすばらしい政治が行われていたと考えられ、西郷の「エライ宝物」発言は問題の本質を突いているのではないかと思われるのである。

そのあたりの研究が進み、実は、最近の歴史研究では「暗黒の江戸時代」というのは、虚像であったと指摘されつつある。「明治政府は幕府を転覆して権力を掌握したから、幕府政治をことさらに暗黒なものとして描く必要にせまられた。しかも『暗黒の近世』という虚像は、反政府の運動を展開した自由民権運動家をもとらえた。自由民権家も、文明開化という時代の波にとらえられ、江戸時代を『未開』、『暗黒』と決めつけた点においては明治政府と異口同音であった」と指摘するのは「『開国と幕末変革』井上勝生著 講談社」である。江戸時代の実態が解明され、従来認識から変化すべきと主張しているのである。

つまり、鉄舟が生まれ育った江戸時代は、我々が思い込んでいるような実態とは異なっていて、割合自由なシステムで運営されていたのではないかと思われるのである。

そこで、まず鉄舟の生まれ育った、天保という時代(千八百三十年~四十三年)までの歴史の流れを、ざっと振り返ってみることから検討してみたい。

江戸時代には三大改革の時代があった。享保、寛政、天保であるが、その系譜を振り返ると、そのスタートは元禄時代にある。元禄時代(千六百八十八~千七百三)は五代将軍綱吉の時代にあたり、側用人柳沢吉保が権威をふるった時期で、華やかだが賄賂が横行し、生類憐れみの令などの悪法が出され、幕府の財政が困難を迎えた。

この後に八代将軍吉宗が登場し、享保時代(千七百十六~三十五)の改革を行った。これは政治改革ともいうべきもので、幕政を引き締めて倹約を励行し、財政を好転させ幕府を立て直して、吉宗は「幕府中興の祖」と呼ばれた。

ところが、その後の十代将軍家治の時代に側用人田沼意次が強い権勢をふるい、賄賂、汚職の腐敗した政治が行われた田沼時代となった。天明七年(千七百八十七)に筆頭老中に松平定信が就任し、田沼の政治を悪政であると徹底的に批判し、厳しい倹約と文武の奨励による綱紀の粛正などの寛政の改革を断行した。

しかしながら、十一代将軍家斉の五十五人もの子女をもうけた大御所時代になると、老中水野忠成が権勢をふるい、田沼時代の再来かのような賄賂、汚職がはびこった時代が来て、家斉の没後その大御所政治を徹底的に批判して改革を行ったのが、老中水野忠邦で天保の改革と呼ばれている。

このように見てくると、幕府政治は緩みと緊張を繰り返し、「悪政」の後に「善政」あるいは改革が行っていることになるが、その中の徳川幕府最後の天保改革時に鉄舟が幼少時代を過ごしたのである。

一般的に人は幼少時代の過ごし方で、性格に影響を受けることが多い。鉄舟の性格は後年の貧乏時代であっても、また、いくら要職に就いていても、あまりカネとモノにこだわらない性格であった。これは「南洲翁遺訓」に記されている通りであるが、この鉄舟のすばらしい性格も、その育った時代環境から影響を受けているはずである。

では、鉄舟が育った天保時代は、そのような性格を作ってくれる、豊かで問題の少ない社会であったのであろうか。

実は、この天保の時代は享保の飢饉、天明の飢饉とならぶ、江戸三大飢饉の天保飢饉(天保三年~九年・千八百三十二~三十八)の時で、異常気象から七年間も凶作が続き「七年ケカチ(飢渇)」といわれる時代で、中でも鉄舟が生まれる三年前の天保四年は、冷雨、大雨、大洪水が重なって、大凶作となった年で「巳年のケカチ」として長く記憶されるほどであった。また、天保の時代は一揆が多いことで知られている。鉄舟が生まれた二年後の天保九年には、全国で九十件以上の一揆や騒動がおきているし、その前後の年にも多発している。

このように見ていくと、鉄舟が生まれ育った時代は、災害が多く暗い混乱の社会であったと思われるのだが、しかし、実態は異なっていて、豊かな感性の鉄舟を育むに足る安定した社会であったというのが、最近の歴史研究の成果から判明した事実である。次回はその事実をいくつかの事例で証明し、少年鉄太郎が飛騨高山で、豊かに育つ姿をお伝えする。

投稿者 Master : 2007年02月22日 15:24

コメント

コメントしてください




保存しますか?