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2006年06月12日

江戸無血開城其の二 鉄舟の武士道

江戸無血開城其の二 鉄舟の武士道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

JR静岡駅北口から歩いて五分、紺屋町の料亭浮月楼門口に「徳川慶喜公屋敷跡」と表示した石塔が立っている。
慶応4年(1868)2月、上野寛永寺に謹慎・蟄居した慶喜は、江戸総攻撃回避から一ヵ月後の同年4月、水戸・弘道館に移ったが、当時の水戸藩は尊皇攘夷過激派の天狗党残党と、反天狗党である諸生派との内紛、更に当主徳川慶篤(慶喜の兄)の急死等で騒然としていた。それらの事態が関与してくることを恐れた慶喜は、駿府に移りたいと希望した。駿府を希望した理由は、明治新政府が徳川宗家を御三卿・田安家当主亀之助をもって、石高70万石とし、駿府にて相続させると決定していたからであった。

同年7月、慶喜は陸路と船、銚子港からは榎本武揚指揮下の蟠龍丸で清水港に上陸、直ちに駿府の宝台院に入り謹慎・蟄居を続けた。だが、鳥羽伏見の戦い以来幕府側についた諸藩主の謹慎・蟄居が明治2年(1869)9月に赦免され、それと共に慶喜も許されたので、現在の料亭浮月楼である元代官屋敷に、同年10月に住居を移転した。それから20年間、慶喜はここで「毎日が日曜日」という趣味三昧の日々に耽った。
因みに、榎本武揚は慶喜を清水港に護衛搬送した翌月、官軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が主家の成行きを見届けるまで脱走を待っていたというべきであろう。

紺屋町の料亭浮月楼「徳川慶喜公屋敷跡」から、東に五六分歩いた伝馬町に「西郷・山岡会見の史跡」石碑がある。当然、慶喜は会見の場となった当時の松崎屋源兵衛宅を知っていたであろうが、現在の石碑が個人所有物であることを知る人は少ない。
明治維新大業への一歩を示した重要なる会見場所、ここが史跡と認定され、石碑が建立された背景には、親子二代23年にわたる奔走物語があった。
戦後の昭和20年、松崎屋源兵衛宅跡で鮮魚業を営み始めた原田鐡雄氏が、この地の重要性を知り、史跡とすべく活動し始めたが、志半ばで病に倒れ、その意志を継いだ娘婿の原田勇氏の熱誠・執念によって、明治維新から百年を記念する昭和43年(1968)に、「西郷・山岡会見の史跡」石碑が建立されたのである。

さて、静岡に移り住んだ慶喜には何も仕事がなかった。何も仕事しない33歳の元将軍の日常は、「徳川慶喜家家扶日記」で行動が明らかとなっている。近村での鷹狩り、清水港での投網、写真に夢中になり、油絵も描くなど多彩な趣味に没頭した。慶喜が<とりわきていふべきふしはあらねども、たゞおもしろくけふもくらしつ>と詠ったように、今日一日が面白ければ、それでいいじゃないか、という達観した自然体の悟りの生きかたでもあった。
このように、慶喜が静岡で安定した趣味三昧の日々を過ごせたのは、西郷・山岡会見で江戸無血開城が事実上決定し、明治維新が最小限の混乱で成立したからであったが、何ゆえにそのような偉大な功業を、一介の幕臣にすぎなかった鉄舟が成し遂げ得たのか。
今回はその解明を、上野寛永寺大慈院一室から解きほぐしてみたい。

鉄舟が書き残した「西郷氏と応接之記」に、慶喜の謹慎・蟄居に対して、鉄舟が次のように疑念を呈したと記している。
「余、旧主に述ぶるに、今日切迫の時勢、恭順の趣旨は如何なる考に出候哉と問ふ。
旧主示すに、予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すと雖も、朝敵の命下りし上は迚も予が生命を全する事はなるまじ。斯迄衆人に悪まれ、遂に其志を果さずと思えば返々も歎かはしき事と落涙せられたり。
余、旧主に述ぶるに、何を弱きツマラヌ事を仰せらるゝや。謹慎とあるは詐りにても有んか、何か外にたくまれし事にてもあらざるか」と。
何と驚くべきことに、身分低き一幕臣鉄舟が、初の将軍御目見えである上野寛永寺大慈院一室にて、慶喜に向かって厳しく謹慎・蟄居の真意を問い質しているのである。封建時代の当時では考えられないことであったが、これが正に鉄舟の武士道精神で発露であった。

ここで武士道の思想と行動を考えてみたい。武士道研究家の第一人者である笠谷和比古教授(国際日本文化研究センター)は、著書(武士道その名誉と掟)で武士道の二つの側面を述べている。
「武士道の一つの側面は『忠義』の観念で、それは『主君-家臣』というタテの関係である。もう一つの側面は『名誉』の観念で、これは個々の武士の『武士としての自我意識・矜持』としてのヨコの関係として存在する」と。
この二つの側面を今の時代に当てはめ、会社組織に例えていえば「忠義」は社長・上司との関係、会社の組織一員として働く立場からは「名誉」を「人間としての規範・矜持」、言葉を替えて言えば、自らが持つ「志・大義・理念・良心」に当たる。

この時代、将軍からの命令・指示に対して、諸大名や旗本は畏まって受け入れるのが、武士道「忠義」の観念から当たり前であった。
しかし、鉄舟は異なった。将軍慶喜からの直接指示に対して畏まらず、返って謹慎・蟄居の姿勢に対する疑義を唱え、問い質し、以下の回答を引き出したのであった。
「旧主曰く、予は別心なし。如何なる事にても朝命に背かざる無二赤心なりと。
余曰く、真の誠意を以て謹慎の事なれば、臣之を朝廷に貫徹し、御疑念氷解は勿論なり。鉄太郎に於て其辺は屹と引受、必ず赤心徹底可致様尽力可仕。鉄太郎眼の黒き内は決して御配慮有之間敷と断言す」
鉄舟が慶喜に対して疑義を呈し、問い詰めたのは理由があった。慶喜は家康の再来といわれたほど評判の高き俊才であったが、第二次対長州戦争の突如中止や、鳥羽伏見の戦いで示した優柔不断な命令と、敗色濃くなるといち早く大坂湾から船で江戸に逃げ帰った行動、それらにみられる慶喜の行動は「二心殿」と陰口されるほど、気持ちが揺れ動き、腹が据わっていない。
だから、今回の官軍による江戸城攻撃に対しても、状況がちょっと変化すれば、すぐに慶喜の謹慎・蟄居姿勢もまた変わるのではないか、そのところを鉄舟は厳しく慶喜に問い質したのである。だが、この鉄舟の言動は、当時の武士道忠義の観念からみて、非常識極まるものであった。

この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。最後の奇策としての鉄舟投入であり、鉄舟はその重大な意味を理解し、十分承知していた。鉄舟が失敗すれば、江戸城総攻撃となり、江戸市中は戦火の坩堝となる。
だが、しかし、今までの交渉者に比し、あまりにも身分・格が低き鉄舟。ただ持ち得るのは剣・禅修行で鍛えぬいたこの身しかない。
鉄舟は自分の中に「決死の覚悟」を植えつけるしかなかった。自分で自分の「人間としての規範・矜持」に火をつけ、自らを追い込むことしかなかった。
そのためには、敢えて忠義の観念に逆らう対応を行い、慶喜から「予は別心なし」の意志再確認を引き出し、我が身を「責任は死より重し」という覚悟にし、「必ず赤心徹底可致様尽力可仕」の状態に追い込む必要があった。
西郷との会見・交渉でみせた「決死の気合と鋭い論鋒」は、このように生れたのであり、その背景には、武士道もう一つの側面、名誉の観念の発露があったのである。

話は変わるが、4月25日に発生したJR西日本福知山線脱線事故の当日、天王寺車掌区の43人がボウリング大会を開催した。その際、複数の若手社員が「まずい」と思ったという。「人間としての規範・矜持・良心」がこの若手社員に存在したのであり、仮に、その中の一人が中止を諫言・進言し、上司が受け入れてボウリング大会を取り止めていたら、事故後のJR西日本に対する風当たりは、少しは異なっていたであろう。残念である。

投稿者 Master : 2006年06月12日 09:57

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