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2013年04月26日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の四

天皇という存在や制度について、極力ふれないというのが司馬遼太郎の方針であるが、山崎正和との対談では明治天皇をテーマに取り上げ、その中で鉄舟について語っている。(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)
「あの人(明治天皇)の好きな人は、山岡鉄舟、元田永孚(えいふ)(注 ながざねともいう)、西郷隆盛、乃木希(まれ)典(すけ)で、きらいなのは山県有朋、黒田清隆です。要するに男性的な人物が好きだったようですね」

また、別の講演の中でも次のように語っている。

「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」

 さすがに司馬遼太郎の鉄舟像は正鵠を射ている。

明治天皇と鉄舟の縁は、明治五年(1872)六月に侍従となったことからはじまり「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか」(山内昌之東京大学教授)といわれるように、明治天皇に対する貢献は大きいと思われるが、それを具体的かつ客観的に解説することはかなり難しい。

つぶさに今まで世に出ている鉄舟関連諸資料を検討しても、明治天皇の輝かしい名声に見合う業績に、鉄舟が具体的に関与していたという証拠になるものは少なく、伝説的な逸話が殆どである。

また、2012年2月1日、NHKで放映された「歴史秘話ヒストリア」でも、天皇と相撲をとったことと、アンパンを献上した件が「明治天皇教育」のエピソードとして紹介されていたが、これで明治天皇への貢献が十分説明できたのか、疑問が残る。

したがって、これから展開していく「明治天皇業績への貢献」に関与する鉄舟の検討は、今まで誰もが取り上げていない難しいことへの挑戦であり、それだけに研究アプローチを妥当に採らねばならないと思っている。

そこで、まず、最初は、鉄舟が侍従になる前の明治天皇と、明治五年六月以降の天皇について、その変化を分析してみることからはじめたい。変化の内容を確認することで、明治天皇への鉄舟の関与を検討してみたいからである。

明治五年までの明治天皇については、以下の五項目から検討整理してみる。
① 少年時代の天皇
② 天皇即位
③ 東京への遷都
④ 海外事情の把握
⑤ 侍読、元田永孚の影響

初めは① 少年時代の天皇である。

十五歳で天皇になられた当時について、いくつかの資料から確認してみたい。
最初は、慶応四年(1868)閏四月一日、イギリス全権公使のハリー・パークスを、大坂の東本願寺別院で引見した際のアーネスト・サトウの記述である。

 「ハリー卿が進み出て、イギリス女王の書翰を天皇(ミカド)*に捧げた。天皇は恥ずかしがって、おずおずしているように見えた。そこで山(やま)階宮(しなのみや)の手をわずらわさなければならなかったのだが、この宮の役目は実は天皇からその書翰を受取るにあったのである。また、陛下は自分の述べる言葉が思い出せず、左手の人から一言聞いて、どうやら最初の一節を発音することができた。すると伊藤(注 伊藤博文)は、前もって用意しておいた全部の言葉を翻訳したものを読みあげた」(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

 この明治天皇に対するサトウの描写は、まだ十分に慣れていない状況に直面した少年君主の神経過敏な様子を伝えている。

なお、パークスを謁見した場所は京都御所ではないことに注目したい。明治天皇はそれまで御所以外を体験したのは、幼年時代、蛤御門の変の砲弾を避け、前関白の近衛忠煕によって連れ出された鴨の河原だけであった。

戊辰戦争親征の途とし、大坂に向かったのは三月二十一日、官軍の最高司令官の立場からで、三月二十三日に大坂の東本願寺別院を行在所にした。

この御所を離れた意義は高かった。パークスだけでなく、この当時の政局を動かしている維新の志士たちが拝謁できたからである。御所内に止まっていては古いしきたりが壁となって、謁見は難しかった。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允などの維新を担う武士達は、それまで誰も直には天皇に拝謁したことがなかった。伊藤博文のみは通訳という立場から身近に出られたが、その他の中心人物たちは明治天皇を全く知らない。

いったい、新天皇はどういう人物なのか。折角、徳川幕府を倒して新政府をつくったが、天皇の器量によってはおぼつかないことになる。これが維新を進めた当時の中心武士層の最大関心事であった。 

その中で最初に拝謁できたのは大久保利通である。同じ年の四月九日、東本願寺の行在所で明治天皇御前に召された際の日記に次のように書いている。

「余一身の仕合(しあわせ)*、感涙の外これなく候。・・・藩士にては始めての事にて、実は未曾有の事と恐懼(きょうく)奉り候。二字(二時)ごろより・・・大飲に及び相祝し候」(ドナルド・キーン)
大久保は嬉しさのあまり、同藩の仲間と祝杯をあげ

「おい、みんな安心しろ。玉は大した方だ。前途多望な若様でいらっしゃる。浮世絵の殿様のように、ぞろりとしておられるのではと、心配したら大ちがい。色が浅黒く、ずんぐりと肥えて、熊の子のようにたくましくあられる。きたえようで、きっと大物になられる」と述べたという。(明治天皇 木村毅著 文芸春秋)

さらに、横井小楠は、同年五月二十四日に家人に宛てた手紙で、天皇に拝謁した時の印象を次のように記している。

「御容貌は長が御かほ、御色はあさ黒くあらせられ、御声はお(ママ)きく、御せ(背)もすらりとあらせられ候、御気量を申しあげ候へば、十人並にもあらせらるべきか。唯々、並々ならぬ御英相にて、誠に非常の御方、恐悦無限の至に存じ奉り候」(ドナルド・キーン)

サトウの記述は別として、維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことが、その後の新政治を進める上でのエネルギーになったことは間違いない。

その意味で明治天皇は、英邁君主としての素質を少年時代から持っていたといえる。さらに、天皇の記憶力は抜群であった。

「宮中の種々なる儀式、典礼、其他歴史の事実に至るまで、一として御精通遊ばされざる事なく、微々たる者までも一度拝謁を賜ひし者は、決して其名を御忘れ遊ばすと云ふ事がない」と後に海軍中将有地品之允が語っている。

この天皇の記憶力については、昭和天皇も抜群であったと侍従であった入江相政が述べている(城の中 入江相政著 中央公論社)ので、天皇としての素質のひとつだろう。

このように天皇としての素質面では問題なきことが確認されたが、まだ若き時代であり、君主としての天分発揮は当然に後日になる。
 
② 天皇即位

 慶応四年八月二十七日、明治天皇の即位の礼が執り行われた。当初は前年十一月に予定されていたが、国内情勢不安定のため大がかりな式典の挙行を先に延ばしていた。

 この即位礼の儀式の様子は「明治天皇紀」に、ぎっしりつまった活字で五ページ以上にわたり極めて詳細に記述されている。

 ところで、この儀式には古来の伝統にそぐわない新しい試みが成されていた。神祇官判事の福羽美静が建言したものである。それは地球儀を即位の中心に据えることであった。この地球儀は徳川斉昭(水戸烈公)が孝明天皇に献上したものであり、その意図は孝明天皇が世界の大勢に関心をもたれるように仕向けることであったが、この地球儀が即位大礼の中心に据えられたという意義も高い。攘夷思想を排除し、外国との関係強化を、新時代の中心にすることを明確に示したものである。

 また、即位の大礼の前日、天皇と国民との間の絆を強める措置として、天皇の誕生日である九月二十三日を国民の祝日とし「天長節」と定めた。「天長」とは「天長地久」という熟語からで、天地が永久に続くごとく、天皇の長久を願う意味である。

天皇の誕生日を祝日にする歴史としては、すでに宝亀六年(775)に見られたが、この慣例は長年にわたって中断されていたものを復活させたのである。

なお、天長節は、明治六年(1873)に太陽暦が採用されて以来、十一月三日と定められた。

 九月八日には、年号が慶応から明治に改元され「一世一元の制」が定められた。なお、明治元号の出典は前号で述べた通りであるが、これで初めて明治時代という新しい世が正式にスタートしたのであるが、これらの変化について少年天皇が自ら意志を表明し、意図的な指示をしたという記録はない。

③ 東京へ遷都

江戸から東京への名称変更は八月四日に「海内一家東西同視」という配慮から「東の都」として東京が命名されていた。

その東京への遷都は簡単には決まらなかった。理由はいろいろあった。一番の理由は、八月十九日の榎本武揚率いる幕府軍艦脱走であって、東国が鎮圧されていないため時期尚早というもの。

二番目の理由は財政難であった。東京行幸には莫大な費用がかかるが、その手当てがなされていない、とういうより官軍にはお金がなかった。それに加えて、京都市民からの危惧である。京都から東京に正式に遷都されるのではないかという不安で、その心配に対し遷都ではなく行幸であると発表されていた。

しかし、この当時の東京は寂れていた。それをサトウは次のように表現している。
「出入りの商人や商店主がこれまで品物を納めていた諸大名は、今やことごとく国もとへ立ち退いてしまったので、人口も当然減少を免れなかった。江戸は極東(ファーイースト)*の最も立派な都市の一つであったから、それが衰微するというのは悲しいことだった。江戸には立派な公共建築物こそないが、町は海岸に臨み、それに沿って諸大名の遊園地が幾つもあった。城は、素晴らしく大きな濠をめぐらして、巨大な石を積み重ねた堂々たる城壁を構えていた。絵のように美しい松並み木が日陰をつくっており、市の中にも田舎びた所が多く、すべてが偉大という印象を与えていた」(一外交官の見た明治維新・下 アーネスト・サトウ著 岩波文庫)

 東京遷都の発案者である江藤新平は、旧幕府軍艦を恐れて天皇の東幸が延期されれば、新政府は信を内外に失うばかりでなく、将軍と諸大名が去った東京は寂れ果て、江戸市民は主人を奪われたも同然の思いをしており、一日も早い東京行幸が必要だ、という力強い雄弁に加えて、大久保利通の賛成と、岩倉具視の政治的判断があわさって、問題のお金は幸いにも大半を、三井次郎右衛門を始めとする京大阪の富商が請け負ったことから、九月二十日に天皇は東京へ出発した。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭に、供は三千三百余人にのぼった。

 この大掛かりの東京行幸中、天皇はどのような行動を民衆に示したのだろうか。明治天皇紀に記されているいくつか紹介する。

 熱田近くで米を収穫する農民から稲穂を取り寄せ、農民に菓子を賜り、その労をねぎらったり、静岡沿岸では始めて太平洋を見たり、大井川では天皇のために板橋が架けられて渡り、富士山を仰ぎ見て、箱根越えし、東京に入ったのは十月十三日で、最初の休憩は芝高輪で「では、泉岳寺はこのあたりであるな」と赤穂浪士討ち入りに関心を示した。

 天皇を迎えた江戸市民であったが
  上方のゼイ六どもがやってきて、
  トンキョウなどと江戸をなしけり
 と、東京への改称が気にくわない落首を書き  
  上からは明治などというけれど、
  治まる明(おさまるめい)と下からは読む
 と、年号変わりに対する落首など、これが当時の東京市民の気持ちを表していた。

 そこで、十一月四日、天皇は東京行幸の祝いとして東京市民に大量の酒をふるまった。下賜された酒は、約二千九百九十樽で、加えて、各町に錫(すず)瓶子(へいし)(銀製の徳利)とするめが下賜され、市民は二日間にわたって家業を休んで楽しんだ。
 
この振る舞いに対する、漢詩人・大沼枕山の七言絶句である。
「天子遷都寵(ちょう)華(か)ヲ布ク         天子が遷都し寵華を賜った
 東京ノ児女美花ノ如シ          東京の子女は花のごとく美しい
 須(すべから)ク知ルベシ鴨(おう)水(すい)ハ鷗(おう)渡(と)ニ輸スルモ 鴨水が鷗渡に及ばぬことを知って
 多少ノ簪(しん)紳(しん)家ヲ顧ミズ        公家たちは家のことなぞどうでもよくなった
 
「寵華」とは天皇が賜った酒のこと、「鴨水(京都の鴨川)」は今や、京都の公家たちにとって「鷗渡(東京の隅田川)」ほど魅力がなくなり、先祖伝来の京都の家を忘れてしまった、というのである。(ドナルド・キーン)

酒を振る舞うなどの融和策発案は、少年君主には難しいのではないかと思われ、側近たちの考えからであろう。

④ 海外事情の把握

維新の志士達が直に拝謁し「今度の天皇はなかなかおエライぞ」という自己判断をしたことは既にふれた。そうなると天皇の教育への関心が一層高まる。

それまでの教育は、中国や日本の古典の学習、それと馬術である。天皇が乗馬に対する興味に目覚めたのは慶応三年であった。女官に囲まれて育った身体を鍛えるためだったが、以来、天皇は乗馬に憑かれたように熱心になった。これについては後で詳しくふれることになる。

新しい時代の君主たるべき教育として、明治四年(1871)に教科科目に「西国立志伝」の講義が加わった。これはサミュエル・スマイルズの「自助伝」(Self-Help)の翻訳である。

さらに原書講読としてドイツ語を始めるにいたった。講師には独学でドイツ語を学んだ加藤弘之が選ばれた。当時、日本にはドイツ語の教科書はなく、美濃紙に木版刷りでつくった。その挿絵を見られたい。(木村毅著)

これを筆者が訳すると
  ドイツ語授業 第一課
  天皇―日本帝国アカデミー
  ドイツ語 初級用
大学 ナンコウ
江戸 1870年
となるが、このDaigaku Nankόとは、南殿のことではないかと考えられる。つまり、紫宸殿のことであり、紫宸殿とは内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿のことで南殿、前殿ともいわれる。

なお、江戸をJedイエドと書いてあるのは、当時の外国人が日本人の発声から聞いて、それをローマ字で当てはめていたからで、長崎についてもNangasakiナンガサキと綴っていた時期があったことから分かり、加藤弘之もそれに従ったのであろう。

外国の皇族との交際も行われるようになってきた。明治二年九月、イギリス・ヴィクトリア女王第二王子のエジンバラ公が来日し皇居内で会見された。

さらに、外国事情の入手のひとつとして明治二年十一月、徳川慶喜の弟である水戸藩主の徳川昭武に謁を賜った。一年間のフランス留学から帰国した昭武に、天皇は外国事情を尋ねたのである。昭武の報告は天皇にとって未知のものであった。それ以来、天皇は昭武を頻繁に召している。

これは外国事情の把握であり、明治天皇が自らの意志として行動されたことは、新時代の君主として、攘夷から開国へ踏み切った姿を明確に示している。

⑤ 侍読、元田永孚の影響

 侍読として最も重要な存在である元田永孚は、明治四年五月に初めて天皇の御前に伺候した。既に五十二歳となっていた。

 元田永孚は文政元年(1818)、熊本で生まれ、家系は中流の武士階級で、二十歳になるまで横井小楠など多くの学者に学び、朱子学の学者として、熊本藩主細川護久の侍講として仕えたが、藩重臣の推薦と、三条実美の承認を得て、天皇の侍読に選ばれたのである。

 元田への天皇の信任は厚く、明治天皇に多くの感化を与えたといわれている。特に、晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた「東洋の道徳と西洋の科学の結合」が特徴づけられると判じているが(ドナルド・キーン)、これは元田からの影響が大きいと思われる。

 この元田については、鉄舟の侍従との関連で次号でもふれたい。何故なら、元田は侍読、鉄舟は侍従、その職務が異なり、侍読は天皇に学問を講義する立場であり、その意味である程度明確な役割であるが、侍従とは何をもって仕える職務なのかよくわからない。そのところを整理しないと鉄舟の明治天皇への貢献検討を進めることが出来ない。

さらに、侍従という立場を経験した人物はほんのごく僅かで、特殊な職業であるから、検討には一工夫の必要があると思っている。次号へ続く。

投稿者 Master : 2013年04月26日 06:01

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