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2009年05月10日

尊王攘夷・・清河八郎編その二

尊王攘夷・・清河八郎編その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

幕末維新の時代は、日本の歴史の中で、戦国中期以後の時代とならび、英雄時代といってよい時期で、さまざまな型の英雄が雲のごとく出た。

その中で特によく知られているのは維新の三傑としての西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允である。幕府側にも幕末三舟の鉄舟、海舟、泥舟が存在し、また、異色ではあるが、清河八郎も同様であり、その他にも多くの英雄といえる人材が輩出したからこそ、あのような偉大な改革が遂行されたのである。

その山形・清川村の酒造業の息子の清河が、江戸で儒学者を目指していたのに倒幕思想へ転換し、「回天の一番乗り」目指し、薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物になり、伏見寺田屋事件や幕府の浪士組から新撰組の登場にまで絡んでいき、最後は幕府によって暗殺されるのであるが、今号は何故に学者から倒幕思想へ人生目的を戦略転換させたか、その過程で鉄舟とどう関わっていたのか、それを検討してみたい。

清河は学問を志し、江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅したことは前号で述べた。

そこで、次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめざるを得なくなって、この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。

清河の多くの著述の大半はこの時期になされた。
「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)
「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)
「芻蕘(すうじょう)論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)
 「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)

その他に論文もあり、これらの著述でわかるように、清河の勉学修行は並ではない。だが、この猛烈なる漢学の勉学が生涯の運命を決めた、と述べるのは牛山栄治氏である。

「清河は漢学によって名分論(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)から結局は維新の泥沼にまきこまれて短命に終わり、勝海舟などは蘭学の道にすすんだために時代の波に乗っている。人の運命の分れ道とはふしぎなものである」(牛山栄治著 定本 山岡鉄舟)
 
 清河の薬研堀塾を諦めさせた安政の大地震は、攘夷運動にも大きな影響をもたらしている。既に検討したように、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であって、この当時の斉昭は幕府の海防参与に任じられて、猛烈に過激な攘夷論を主張していて、それを強力に支えていたブレーンは藤田東湖であった。

 ともすれば暴走しがちな斉昭を操って適当にブレーキをかけ、どうにかこうにハンドルを切らせていたのであるが、この東湖が安政大地震で倒壊した家屋の下敷きになって圧死したのである。東湖を失って、斉昭の言動はバランスを欠いたところが目立ち始め、これが幕末政治の混乱に拍車をかけたともいわれている。

 また、東湖の死が、東湖を攘夷運動の先達と仰いでいた志士達に与えた影響も大きかった。例えば西郷隆盛は江戸から鹿児島に送った手紙で
「さて去る(十月)二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田・戸田)もゆい打ち(揺り打ち?)に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。とんとこの限りにて何も申す口は御座なく候」(野口武彦著 幕末の毒舌家 中央公論新社)
と悲嘆したほど、東湖の死はその後の歴史に影響を与えたが、ここで不思議なことは水戸藩だけが地震による死者が多いことである。

 ご存知のように水戸藩は徳川御三家である。尾張六十万石、紀伊五十五万石、これに対し水戸藩は二十五万石と禄高に差があり、将軍の身辺を守る役目という意味から「定府の制」という藩主の江戸在住が義務付けられていて、これが一般に「天下の副将軍」といわれている所以であるが、その代わりに将軍の後継ぎは出せないという差別化が、屋敷の立地条件でも表れていた。
 
尾張藩上屋敷は市ヶ谷(現在、防衛省)であり、紀伊藩上屋敷は赤坂(現在、迎賓館)であったように、いずれも台地のしっかりした岩盤の上に位置する地形である。それに対し水戸藩上屋敷は本郷台地と小日向台地に挟まれた谷間地(現在、水道橋の後楽園)で地盤は軟弱である。この地形の差が安政大地震に表れたのである。

 幕府への被害状況届出を見ると、尾張・紀伊藩邸の被害は建物の大破程度、比べて水戸藩邸の被害を「水戸藩資料」から見れば、「邸内の即死四十六人、負傷八十四人に及べり」とあり、塀と下級武士の住居をかねていた表長屋が一面に倒壊し原型をとどめず、江戸在住の重臣たちが住む内長屋も潰れ死傷者が出て、その一人が東湖で、梁の下敷きになったのである。(幕末の毒舌家)
 
後に将軍継嗣問題で争うことになった、井伊大老の彦根藩上屋敷は外桜田にあった。現在の憲政記念館あたりで、後楽園とは江戸城を挟んで対峙する地形であるが、彦根藩は堅固な地形で、届出も「怪我いたし候と申すほどの義はこれなく候」と全く被害軽微であった。いずれにしても当時の攘夷論をリードしていた水戸藩は大きな打撃を受け、その後の藩内混乱に走っていくのである。

 さて、清河は大地震の余波が収まった安政四年(1857)四月に、妻お蓮と弟の熊三郎をつれて学者になるべく再び江戸に出た。お蓮は元々遊女であったため、素封家の斉藤家長男に嫁として迎えることは大反対を受け、ひとかたならぬ悶着があったが、ようやく結婚でき、熊三郎は千葉道場に入門するためであった。

 江戸でこの年の八月、清河は駿河台淡路坂に塾を開いた。しかし、塾には思ったほど門人は集まらなかった。最初に開いた三河町塾は大勢の門人に囲まれ繁盛したのに、今回は少ない。その変化に遭遇し、その中に何か時代の流れ、それは、世の中が険しくなってきている、じっくり学問をする雰囲気が少なくなっている、日本全体が殺気立っている。

このような感覚を清河は持ったが、この時点ではあまりそれらを気にせず、学問と千葉道場での剣に励んだのであるが、ここで鉄舟との出会いがあったのである。

 清河と鉄舟は、会った瞬間から気が通じ合い、お互いを理解し、その後の同志としてのつき合いが始まったのである。

その要因としては、まず、清河の学問研鑽力と、日本諸国を重ねて旅し、それを記録し、実態を把握し、それらを相手に伝える能力、それらが鉄舟に大きな魅力として、清河に惹きつけられたに違いない。何故なら、鉄舟は幕臣として行動が制約されていたからであるが、だが、もう一つ本質的な一致があったと思う。出会った瞬間に、互いが同一の性格・性向を持つ人間であると理解し合えたのである。

鉄舟は既に検討してきたように、飛騨高山の少年時代、宗猷寺の鐘を和尚が冗談に「欲しければあげるから持っていきなされ」と言ったことから徹底的に頑張る性情、また、江戸から成田まで足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれ一日で往復するという、酒席で某人と約束したことの実行など、一度言い出したらきかない強い性格である。

清河も同じで、前号でふれた「ど不適」な性格と、江戸で学問を学ぶためには家出してしまうという強さ、この似通った性格の二人が出会いの瞬間に、お互いを認め合い、通じ合えたのではないかと思う。

さらに、清河の塾は変事をくり返した。折角開いた淡路坂の塾が、二年後の安政六年(1859)、隣家からのもらい火で焼けてしまうのである。清河は迷信などを信じない強い性格であるが、一度ならず二度までも塾が焼失し、もう一度は大地震で壊れたことを思うと、清河が目指している文武二道指南の道を何かが妨げているような気がしてならなかった。

しかし、何事によらず始めたことは徹底するのが清河の性癖である。その年の六月に、今度はお玉が池近くに移転した。その家には土蔵があった。この土蔵がこれからの清河の変化に大きく影響を与えていくとは知る由もなく、土蔵で著述活動に励んだが、ふと、筆をとめるたびに世間での大騒ぎ、それは「安政の大獄」であるが、橋本左内や吉田松陰の死刑など、井伊大老の強行政治の行く末はどうなるのか、それを考えることが多くなっていった。

井伊大老は結局、翌安政七年(1860)三月三日雪の日、桜田門外の変で倒れるのであるが、井伊大老を刺殺し首をあげたのは、関鉄之助以下の水戸浪士に、薩摩藩士の有村冶左衛門を加えた十八人の壮士であった。

この事件は世間に一大衝撃を与えた。天下の大老が登城途中に首を奪われたのである。そのころの落書に次のものがある。(青山忠正著 幕末維新奔流の時代)

「去る三日、外桜田にて大切の首、あい見え申さず候間、御心あたりの御方これあり候はば、御知らせ下さるべく候。
   三月十四日     彦根家中」

それまでであったならば、こういう落書を張り出しただけで、御政道誹謗の罪に問われるのであるが、幕府も動転しており取り締まりもなく、加えて、このような落書・狂歌が多く出回り出したことは、幕府政治の行き詰まりを示すものであった。

幕府は大老が変死するという大変事が起ったのは不祥だと、三月十七日に万延元年と改元したが、清河にも強い衝撃を与え、桜田門外の変の記録を土蔵で書き始めた。

それは「霞ヶ関一条」と名づけた美濃紙二十枚にも及ぶ、水戸浪士の井伊襲撃のあらましであり、これを故郷に送る綴りであったが、清河自身が精力的に現場に出向き、知人を訪ね、事件の風聞を聞き集め、関係する資料を分析し、事件の全体をまとめたものである。

その綴りをつくる作業中、清河は新鮮な驚きともいえる感慨に、何度も筆をとめざるをえなかった。

それは、水戸浪士の禄高一覧表であり、胸に迫ってくるものがあった。幕府の最高権力者として、安政の大獄を指導し、世の中を恐怖に震え上がらせた井伊大老を倒し、その座から引きずり下ろしたのは、雄藩諸侯でなく、歴とした士分の者でない。二百石が最高の禄高で、多くは軽輩か部屋住み、士分外の者たちであり、祠官、手代、鉄砲師もいたのである。一生うだつの上がらない、日陰の暮らしを余儀なくされるであろう名もなき人たちであったこと、それが清河の心底深く、楔として打ち込まれたのであった。

時代は変わっている。名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだ。

今までは、学問に励み、剣を磨き、江戸で文武二道の塾を開き、名をあげることが清河の戦略目標だった。世の中が攘夷だ、尊王だと騒いでいる時勢については十分に知っていたが、その動きと接することは、自らの戦略目標達成に差しさわりがあるので、つとめてその動きの外に立とうとしていた。

しかし、水戸浪士の禄高一覧表から目をあげた清河の心は、もはや塾で人を教える時代ではないかもしれない。そういえば看板を掲げても人が集まらなくなっていた。これが時代の証明なのか。動乱の世になったのだ。新しい世の中の仕組みが求められているのか。

清河の志が変わった瞬間であった。

次号は清河が薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物となり、伏見寺田屋事件に関わっていく経過について検討したい。

投稿者 Master : 2009年05月10日 16:07

コメント

 幕末から明治維新に生きた人々は若者を含め、理想の国作りのために尊い命を掛けて取り組んでいたことが清河の学びをとおして分かった。それと比べて今日の政治家を見ていると目を覆いたくなる。かつて井戸・塀議員と呼ばれていた代議士の中には自分の財産を投げ打って国作りのために尽力していた人がいた。今は蓄財のために政治家になる人はいても、自分の財産を投げ打って仕事をする政治家にはお目にかかれなくなった。政治に携わる人々にも清河たちの生き方を是非、学んで欲しいものだ。

投稿者 岡村 : 2009年06月13日 18:03

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