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2009年10月10日

新撰組誕生その一

新撰組誕生その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

最初に訂正を申し上げたい。二〇〇八年二月号で、元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃によって奪われた長州の大砲について、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が書かれた「パリのカフェテラスから」から、以下のようにお伝えした。

「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」

先日、パリに行ったついでにアンヴァリットに立ち寄り、広い庭に展示されている各国から捕獲した大砲を全部チェックしてみたところ、日本の大砲は見当たらなく、建物内回廊にある大砲も調べてみたが、長州砲は見当たらない。見落としたかと思い翌日も行き、再確認してみたがやはりない。

そこで、いろいろ調べてみたところ、何とすでに日本に里帰りしていることが判明した。戻っている場所は下関市立長府博物館。早速訪問し、学芸員の方から詳しく事情をお伺いしたところ、直木賞作家の古川薫氏の努力と、一九八三年(昭和五八年)当時の安倍晋太郎外務大臣による交渉によって、長府毛利家に伝わる紫糸威鎧をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、一九八四年(昭和五九年)に戻っていたのである。

この里帰りの経緯については、古川薫氏の「わが長州砲流離譚 毎日新聞社刊」に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、その実在有無と保管状況が心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった。次回はアンヴァリットの管理当局に正式なアポイント取って聞いてみるつもりである。

下関市立長府博物館に保管されているのは「荻野流一貫目青銅砲」である。砲身の長さ1.6メートル、内径8.7センチ、砲身に郡司喜平冶信安作と銘があり、唐草模様の装飾がほどこされている。

さて、清河八郎に戻りたい。

つまらない理由で、伏見寺田屋事件に巻き込まれず、生き残った清河は、文久二年(1862)江戸にもどり鉄舟と再会、その後水戸に向かい、そこで大赦嘆願書「幕府に執事に上る書」を書き上げ、鉄舟を通じ政治総裁松平慶永(春嶽)に提出した結果、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった経緯は前号でお伝えした。

実は、この正式赦免がおりる前、同様に多くの者からも大赦願いが提出されており、幕府内でも捨て置きがたく、検討の動きが出始めていたことを鉄舟から聞いた清河は、突如として一つの謀策を閃かした。その閃き着想原点は幕府の懐に飛び込むことであった。

清河の動きを跡付けていくと、方向転換・転向に当たり、ひとつの原則に則っていることに気づく。それは時代変化という条件の活用である。

例えば清河は、桜田門外の変を契機として国事に奔走しはじめたのであるが、これは、世の中の変化はもはや儒者となって世に尽くすことではなく、動乱の中から新しい仕組みを作り上げていく時代だと認識したこと。

その契機は、井伊大老暗殺事件を自らの手で分析整理し、美濃紙二十枚にも及ぶ「霞ヶ関一条」を書き上げたとき、時代は変わっている、名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだと認識した途端、今まで目指していた学者を捨て、時代の改革者に向かおうと、自己変革を起こしたのであるが、これは時代・時流の変化という条件を活用した転換であった。

さらに、文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件から、全国逃亡の旅に出たのであるが、これを機会として京都で田中河内介を知り、中山忠愛の親書を受け、「廃帝」の噂を広めつつ九州各地を遊説し、島津久光の上京を機に、三百人ほどの尊攘志士を京都に集めた手腕である。それは「薩摩藩出兵」という事実条件を、自分に都合よく利用したものではあるが、時代・時流をチャンスとしてとらえるという、条件活用力に優れていることを示している。

今回もそうである。大赦嘆願という動きが出て、幕府とつながりができそうな環境条件下になったと認識した途端、一つの謀を浮かべたのである。

幕府が関心持つであろうこと、つまり、幕府が困っていることで、それを解決することによって、幕府の懐に飛び込める策、それは、浪士の募集であった。

巷には浪士が溢れていた。仕官していない武士は、何かを求めて世に生きようとしているが、それが幕末という時代情勢下、犯罪または、天誅という名のもとに問題を起こす浪士たちに幕府は手を焼いていた。これに目をつけたのが清河の「浪士募集」策だったのである。

この「浪士募集」策を、鉄舟を通じ松平上総介から、自分の意見として幕府閣僚に献策してもらったのが同年十月。松平は家康の六男忠輝の後胤である名門であり、講武所の剣術師範役並出という立場からの見解であり、かつ、浪士を集めて取り締まり、非常の用に役立てるという趣旨も時局に合致しているので、政治総裁松平慶永、老中板倉勝静が受け入れることになったのである。

これを見た清河はさらに次の手をうった。それは翌月十一月の「急務三策」献策であった。「攘夷の勅命を報じること」「天下に大赦をほどこすこと」「天下の英才を教育すること」の三つであり、これは大赦令と浪士募集の両者を画策するものであり、これを政治総裁松平慶永と関白近衛忠煕に建白書として提出したが、その冒頭は次の如くであった。

「臣聞く。国家の将に興らんとするや、必ず大なる機会あり。その将に亡びんとするや必ず此の機会を失う。機会は勢いなり。勢いの至るは至るの日に至るにあらず。必ずや善積して然るのみ。一日これを失えば必ず他人の有となる。深く察せざるべからざるなり。故に敢えて当今『急務三策』を陳ぶ」(山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社)

唸るばかりの鋭さと、時流をとらえたタイミングである。ここに清河の本来姿が顕れている。それは理論家としての本質である。もともと学者を目指した本質が出ていると思う。頭で説得するという性向であろう。

結果は同年十二月に、幕府は大獄関係者の釈放に手をつけ始め、松平上総介に対し、正式に浪士募集が下命された。松平はすぐに水戸にいる清河に使いを出して、江戸に来るよう伝えた。この時点では、鉄舟から浪士募集策の発案者が清河であることを聞いていたので、実務推進の協力を求め、早速に打ち合わせをもつためである。

このとき、幕府内からは、この機会に清河を幕臣に取り立ててはどうかという声が上がり、清河に対し浪士募集の補助役として重用したいと伝え、召し出しを年末暮れにしようとしたが、清河は丁重ではあるがきっぱり断った。しかし、これは清河という人物に対し、やはり油断がならぬ男だという警戒心を幕府首脳に与えたが、清河は意に介さなかった。

何故なら、すでに清河の心中には次の謀策が芽生えていたからである。これは最も親しい鉄舟にも漏らせない密計であった。その訳は、清河には「たとえ渇しても、幕府の水は飲めない」という強い執着した一念と積怨があり、鉄舟が幕臣である限り口を滑らすことができない筋書きであったが、これが清河の命を落とすことに通じる結果となるものであった。

浪士組結成には、責任者の浪士取扱いとして松平上総介と、子普請組隠居の鵜殿鳩翁が任命された。鵜殿とはペリー再来航時、日米和親条約締結の際の応対係を命じられた海防掛で、安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持し、井伊大老に反抗して左遷させられたという気骨ある老練な幕吏である。

浪士取締役には、鉄舟と虎男の会同志であった幕臣松岡万が就任、同仲間の池田徳太郎、石坂周造、村上正忠と、清河の実弟熊三郎らが主要メンバーとして参加した。

浪士の応募条件は「公正無二、身体強健、気力荘厳の者、貴賤老少にかかわらず」とあるがほとんど無条件で浪士を取り込み始めた。

こうして集めた浪士は多士済々であった。浪士とは主家を去り、禄を離れた武士であって、本来浪人と称していたはずだが、この頃になると町人や地方の豪族の子弟などで剣を学び、書を読むようになった連中が、国事を語り攘夷を論じ、勝手に苗字を名乗り、刀を帯び、武士の仲間入りをしてしまうことが多くなっていて、幕府はこれらを取締する力を失っていた。時代は時の階級制度を崩しつつあったのである。これを証明するように、集まった顔ぶれは異彩の人材であふれていた。

例えば、芹沢鴨は水戸藩を脱藩し、天狗党に加わって暴れまわっていた人物。松前藩の浪人永倉新八、松山藩の脱藩者原田左之介、仙台の浪人山南敬助などもいた。

百姓出身もいた。代表的な存在は近藤勇である。小石川の天然理心流試衛館道場主だが、もとは武州の農民三男である。近藤と同志の農民四男の土方歳三もいて、ご存じのとおり後に新鮮組局長、副長として活躍するが、幕末史に一瞬の光彩を放った新鮮組の産みつけは、清河の策謀によりなされたといえるのである。この詳しい経緯は次号にお伝えしたい。

中には無頼漢もいた。山本仙之助であり、甲斐の祐天として知られたばくち打ちである。子分二十余名を連れて応募してきた。

まさに玉石混合の混ぜこぜであり、文久三年(1863)二月四日小石川伝通院の子院処静院に集まった人数は二百人を突破した。当初、清河が計画した人数は五十名である。予定していた手当金で間に合わなく、当然、責任者の松平上総介は問題として清河を責めたが、押し切られ、責任をとって松平は浪士取扱い辞任することになった。

浪士組は将軍家茂の二月十四日上洛に先立って、京都に先行することになった。ただし、この度の将軍家茂上洛には幕府内で激しい議論が闘わされていた。

前年の六月、幕府への勅使として大原重徳が派遣され、一橋慶喜を「将軍後見職」に、松平慶永を「政治総裁職」という幕政改革とともに、「将軍が上洛し国内一和、攘夷決行を議す」ことを伝え、十月には三条実美、姉小路公知を勅使として、再び攘夷を督促してきた。

朝廷の矢つぎ早の攘夷督促の背後には、京都における長州、土佐の尊攘勢力がけしかけていたのであるが、幕府内では既成事実である開国を、一変鎖国攘夷に転じるのは、外国に対する信義を失い、戦争状態になる愚挙であるという意見と、朝廷からの攘夷を天下の公論とし、一時は攘夷を実行した後、改めて開国を論じられるべきとの論とが真っ向から対立した。

それは一橋慶喜と松平慶永の対立であったが、最終的に、ともかく攘夷一本にまとまり、将軍上洛を文久三年の春に実現し、勅諚の攘夷日程、方策について上洛の際に委細申し上げると、奉答書を出したのであった。

将軍の上洛は、寛永年間の三代家光の入洛以来二百数十年ぶりのことである上に、この度の上洛は京都に尊攘派が待ち構えている。

新たに徴募した浪士組は、将軍上洛の護衛として、京都に先行すべく二月八日江戸を出発、中仙道を選んだ。

浪士組は一班三十名で七班、それに取締付きが加わって二百数十名。その隊員の中に清河の名はなかった。その清河は隊伍に加わらず、鉄扇を手に、隊の後になり、先になり悠然と歩いて行く。

しかし、隊のすべての者がいつの間にか「あれが清河か」と、浪士組募集の発案者であることを知るところとなったが、隊に加わらず、かつ、離れずに道中を進める清河を訝しく見つめるのであった。

だが、玉石混合の混ぜこぜ隊では、起こるべくして当然のいざこざが発生する。それは暴れ者の芹沢鴨によって引き起こされ、これを鉄舟が処理するのであるが、その経緯と京都に着いてからの清河の謀略と、そこから発生した新撰組誕生については次回お伝えする。

投稿者 Master : 2009年10月10日 12:03

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