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2007年05月06日

飛騨高山の少年時代 その三

飛騨高山の少年時代 その三
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
 鉄舟の揮毫数は想像を絶する。その事実を鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹が次のように述べている。

 「師匠(鉄舟)の揮毫数は實におびたゞしいものだ。一日に五百枚でも千枚でも忽ちに書いて仕舞ふと云ふことをきいて、當時の書家長三州が『そんなに書けるものではない』とどうしても本當にしなかったが、後に事實であるのを知って舌を巻いて驚いたと云ふことだ。師匠は此の事をきいて『そりや長さんは字を書くのだから骨が折れるが、おれのは墨を塗るのだからわけのない話だ。』と言ったさうであるが、晩年の病身で、一日五百とか千とかの墨蹟をのこすのは、やはり剣禪で鍛へた賜で、かうなると隱居藝ではない。
 師匠が揮毫に用ゐる墨は、奈良の鈴木梅仙が一手に供給してゐた。『梅仙墨』等と云ふのを作っておさめてゐたが、あまり需要が多いので一時墨すり機こしらへてやってゐたが、やっぱり手でする程うまくゆかないので、十五六の若い小僧を四五人、師匠専屬に朝から晩まで墨をすらせてゐた。
梅仙があまり墨の事で骨を折るので、師匠は『墨癲居士』と云ふ居士號をやったものだ。然し梅仙は師匠の爲に墨で儲けて身代をおこした。
 當時師匠の玄關には朝から晩まで、揮毫を頼みに来る人があとをたゝなかつた。何せ無料でやるのだから、いくら書いてもあとからあとから持ち込んで来る。しまひには蕎麥屋の看板まで書かされた程だ。然し師匠はちつともいやな顔はしなかつたね。そりや来たもんだよ」(『おれの師匠』島津書房)
 
鉄舟の書は本物

 当時の書家「長三州」とは、豊後日田生まれで、幕末維新時に長州の奇兵隊で活躍した志士であり、後に文部省学務局長や東宮侍書を努めた人物で、書家として著名である。この長三州が前述のように「そんなに書けるものでない」と言ったのであるが、鉄舟の書を初めて見たときに「これ程の達者とは思わなかった」と述べ「草書では三百年来の書き手であると感嘆」しのている。鉄舟の書は本物である。
その本物の鉄舟による蕎麦屋の看板が、全国各地に散在しているので、その書を拝見するためその蕎麦屋を時折訪れるのであるが、その際「当店の看板は鉄舟の書です」と胸張って自慢し、勿体ぶって解説をいただくことが多い。だが、この看板に書かれた書が、小倉鉄樹が述べたように無料で鉄舟が書いてあげたものかと思うと、信じられなく空恐ろしい気になってくる。

旅先で見つける

 筆者は世界の温泉研究もしていて、著書(『笑う温泉・泣く温泉』)もあり、今も各地の温泉を取材し研究しているが、先頃、東鳴子温泉で、『宮城県温泉小誌』という上下の二冊子を偶然手に取った。明治十五年に編纂された貴重な逸品資料であるので、大事にこの古びた小誌の表紙をめくると、すばらしい筆跡が現れた。「ああ、これは鉄舟だな」と感じ、中の綴じ込み部分に書かれた氏名を確認してみると「山岡公題字」とある。間違いなくやはり鉄舟である。

金ではない

 鉄舟が鳴子温泉に行ったという話は聞いたことがないので、宮城県の温泉関係者が鉄舟の自宅に持ち込み、揮毫を依頼したのだろう。当時の鉄舟は自慢ではないが酷い貧乏であったが、これも多分無料でしてあげたのだろう。
すべての行動は金のためだということで動き回る人が今も昔も多いのだが、鉄舟の行動を「特別の人間で桁が違うのだ」と言って別格の存在に奉り、その厚意を当たり前とすませてしまったとすればそれまでだが、今の感覚ではとうてい捉えることができない巨大で深い存在、それが鉄舟である。

墨を塗る

 そのうえに、「書」を「墨を塗る」と表現する感覚、ぬりえに色を塗っていくのとは意味と質が違うのであって、何もない白い空間にあのようなすばらしい墨蹟が、コンマ以下の秒速で塗られていく姿、それを想像するだけで鳥肌が立ってくる。人間とはそのようにまで自らの潜在力を開拓でき、人々に奉仕できる存在になれるものなのか。鉄舟を研究していくと人間の無限力というすごさに圧倒され、
鉄舟がこのように「墨を塗る」という感覚になれたのは、鉄舟が若い頃に定めた人生戦略・目的を達成するために、自らの命を削る修行を行ってきた結果である。鉄舟が最初からこのような桁違いな人物であったわけではない。

鉄舟は江戸っ子

 鉄舟は江戸に生まれた江戸っ子旗本である。一般的に江戸人の気質は、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルというのが定説である。礼儀正しく、粋でおしゃれなところ、向こう意気の強さ、これらは見栄を張るところから来ているのであるが、上は旗本から、下は裏長屋の住人まで、江戸っ子には共通するところがあった。
今の東京は地方から雑多人種が集まっているから、純粋の江戸っ子という人たちは目立たないが、江戸時代は人の移動が少なかったので、江戸の町には江戸っ子気質が溢れ鮮明だった。しかし、この江戸っ子気質の旗本でも「元禄(1688年~1703年)の少し前あたりと、幕末は大分毛色の違っている人物が輩出した」と作家の海音寺潮五郎が語っている。(『講座近代仏教』第二巻)
元禄以前は戦国の習気がまだ濃厚であった時代であり、まだ三河武士の一本気が残っていたのであろうし、幕末には仕える幕府の屋台骨が揺るぎ始めた不安から、自然に引き締まったのであろうと、海音寺潮五郎が解説しているがそのとおりと思う。また、中でも鉄舟は、幕末時に輩出した「江戸っ子気質ではない旗本」の典型例であった。

飛騨高山

 その江戸っ子らしくない毛色の違っている人物としての片鱗を、飛騨高山の少年時代から探ってみたい。
飛騨高山は、代官所より規模が大きく、全国でも四か所しかなかった郡代役所であった。その四か所とは九州日田十一万七千五百石、美濃笠松十万千五百石、関東江戸八十三万四千石。それに飛騨高山十一万四千石。一万石以上を大名と称したのであるから、十万石を超える飛騨高山天領は幕府にとって重要な拠点であり、そこの郡代として鉄太郎(鉄舟)の父小野朝右衛門高幅が赴任したのである。
高山の町は東方の山裾に寺社が数多く集まっていて、そこに宗猷寺という由緒正しい名刹がある。そこの和尚と父小野朝右衛門は親しく、よく行き来していた。因みに現在、この宗猷寺に鉄舟の父母のお墓がある。

宗猷寺

 父と和尚が仲良いものであるから、鉄太郎もよく宗猷寺に遊びに行っていた。この寺の山門をくぐると右側に大きな鐘楼がある。なかなか立派である。この鐘楼の鐘は、鉄太郎がここで遊んでいた時代と同じく、今も朝な夕な高山の町に響き渡る。
ある時、寺の鐘楼の前で、この大きな鐘をしみじみと鉄太郎が見上げていたことがあった。和尚はそれを見て、
「鉄さん、この鐘がほしいですかえ。ほしければあげますから、持っていきなされ」
と冗談を言った。どうせ子どもには持ち運べるものでないという考えがあったので、軽口をたたいてからかったのである。
「和尚さん、ほんとにくれる?」
「ああ、あげますわい」
「ありがとう」
子どもは軽口であっても素直に受けとめる。鉄太郎は大喜びで代官所に走りかえって、父小野朝右衛門に報告した。
「宗猷寺の鐘を和尚さんがくれると言いました。和尚さんから貰ってきたいと思います」
「ほう、それはそれはよかったな。それなら貰ってくるがよい」
勿論、父も鉄太郎をからかっての発言であり、和尚の冗談がどうなっていくか、その結果へのいたずら心もあったのだろう。
鉄太郎はこの父の言葉に元気一杯、代官所の家来人足を大勢つれて宗猷寺へ向かった。宗猷寺と代官所は歩いて二十分もかからない。家来人足も代官の息子の鉄太郎が言い張って頑張るので、冗談とは思っていたが仕方なしに形だけでもついて行こうと思ったに違いない。だが、鉄太郎はいたって真面目で真剣である。宗猷寺に着くと、鉄太郎は早速に指図して鐘楼に梯子をかけ、縄を鐘に巻き始めだした。それを見た和尚は驚いて飛び出してきた。

納得しない

 「鉄さん、鉄さん、あんた何しなさる。これは寺の大事な鐘ですよ。さっきの話は冗談に決まっているでしょ。ありゃ本気にしてはいけません」
と言ったが、こうなってくると鉄太郎はきかない。一本気であるから引き下がらない。
「ほんとにくれるかと念をおしたら、ほんとにくれると和尚さんは言ったじゃないですか。お坊さんは嘘をつかないでしょ。和尚さんは人を騙してはいけないといつも言っているではありませんか」
と口を尖らせて食ってかかる。和尚が反論できない立派な筋論である。
「冗談を言うて悪かった。あやまるから堪忍してくだされ」
しかし、鉄太郎は納得しない。
「鉄さん、あんた、鐘など運んでどうしなさる。鐘は寺にこそあって高山の人たちに役立つが、鉄さんが持っていっても、しょうがないでしょうに」
「しょうがあろうがなかろうが、あたしの勝手じゃ。あれほど念をおしてくれると言ったから、父上にもお許しをいただいてきた。この鐘は鉄太郎のものだ。もらっていく」
と、どうしても頑張る。
和尚は困り果て、代官所に走り、小野朝右衛門に詫びを入れて、一緒に朝右衛門に来てもらい、二人で鉄太郎を説得しようとした。
 鉄太郎は納得がいかなかったが、父まで出で来て和尚と同じことを言うので、やっとあきらめることにした。これが高山に残っている鉄舟の子ども時代の話である。
 
尋常でない

 子どもは正直で一本気なものであるが、ここまでねばるのは尋常でないと思う。この話は、鉄舟が持っている本来の気質を正確に表している。生来、正直一途で、一本気で剛直であり剛情であることを正しく証明している話で、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルという江戸っ子気質の旗本とは格段に異なる。
こういう子どもでなければ、江戸無血開城を成し遂げ「書を墨を塗る」と表現できる人物にはなれないと思う。
 
江戸時代は素晴らしかった

 しかし、このような話が残る子ども時代を過ごせたのも、父小野朝右衛門による飛騨高山代官政治が安定していたからであり、その背景には日本全体の安定があったからだと思う。
現在の日本が世界で評価されている背景には三つの要因があると、ハーバート大学ジョセフ・ナイ教授は言う。「第一は伝統文化であり、第二は世界の若者を惹きつけているポップカルチャーとしてのクール・ジャパン現象であり、第三は非軍事による対外協力である」(『日経新聞』06年4月3日付)。この伝統文化とは江戸時代に遡り、ポップカルチャーもその源流をたどって行けば江戸時代につながっていく。つまり、現在の日本が評価される源は江戸時代にあったのである。

「百姓一揆」

 ところが、徳川幕府の政治は上意を下に達するのみで強権的であり、民意を権力に届ける方法などはなかったと従来言われ教えられてきた。しかし、徳川政治の実際はそれは全く異なる、というのが最近の歴史学研究結果である。その代表例に「百姓一揆」がある。「竹やり」と「むしろ旗」をもった暴力的な蜂起、それが我々の持つ一揆イメージであるが、実はこれは近代になってつくられた「虚像」にすぎなく「虚像」を打ち壊して見れば、そこには新しい豊かな江戸時代像が浮かぶ。この一揆についてもう少し次回でふれたい。

投稿者 Master : 2007年05月06日 08:58

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