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2010年07月10日

山岡鉄舟 謹慎解ける

山岡鉄舟研究 謹慎解ける
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟の謹慎の日々は続いた。

本当は木刀・竹刀を構え、道場で稽古するように、庭で素振りをしたいところだが、それは許されない。一室に座るのみしかない。したがって、座る目の前には書見台があるだけ。そういう環境に陥ってみると、その書見台が自分の稽古相手であって、それに集中でき、没頭できる新しい自分を発見でき、今までとは異なる自分に気づく。

振り返ってみると、今までの剣に対する道は、若き時から、厠の中でも、寝床の中でも、相手を想定し、工夫が浮かぶと、飛び出し、飛び起き、試してみる。さらに、道を歩いていても、傍らの建物から竹刀の音が少しでもすると、すぐに飛び込んで行き、稽古を所望するという剣一筋の毎日だった。

また、高山から江戸に戻って入門した玄武館は、江戸随一の人気道場であり、優れた剣客も多く、例えば、水戸藩に高禄で抱えられた高弟海保帆平、新撰組の藤堂平助や山南敬助、盟友となった清河八郎等がいて、稽古相手には不自由しなかったので、思う存分に修行でき、メキメキと腕を上げ「鬼鉄」と称されるまでになった。

しかし、今はそのような稽古はできず、書見台と向き合うのみだ。書見台上には上古時代からの刀剣の歴史、江戸時代以前の古流剣法から続く諸流派教本、甲陽軍鑑などの軍学書、孫子兵法等の兵書、佐藤一斎の言志四録などの学識書、王羲之の十七帖等の書法帖など、明るいうちは書見台に向かい、暗くなると坐禅に入る。

このように世間と切り離された日々を送ってみると、今までに無き経験だが、自分自身の内部により深く入っていけるような気がしてならない。これまでの人生でも、思考することになるべく時間を取ってきたつもりだったが、それは生活の中心に剣という存在をおき、その合間に取り入れたものであった。

しかし、今は違う。静思することしかできないのである。異なる環境下になってみてわかったのだが、改めて自分とは何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのだろうか、つまり、自分探しの旅をしているような気がしてならず、これまでとは違う感覚に浸ることができた。

謹慎の日々、正式には一切の来訪者は認められないが、裏門からの内密の出入りは大目に見られている。日が経つにつれ、裏門からそっと訪ねて来る者が増え、それらの人々が、次々と起きる時代の変革をもたらしてくれる。

陽の光が強くなり、若葉が濃く茂る頃が過ぎ、梅雨がやって来たある日、鉄舟のすぐ下の弟、旗本酒井家に養子に出した金五郎が息せき切って飛び込んできた。謹慎していることも忘れたかのように、激しく入って来て

「兄上!!」
と大きな声を発した。金五郎は玄武館道場の若手の中では、相当な遣い手になっていて、体つきも兄に似て立派になってきている。
「何だ、慌ただしいぞ」
と静かに書見台から眼を放して金五郎を見つめた。
「兄上、やりましたよ、長州が」
「何を」
「攘夷ですよ、この十日、下関で外国船を砲撃して追っ払ったのです」
「うーん、そうか、五月十日が攘夷実行の日だったな・・・」

文久三年五月十日(乙卯)は太陽暦で1863年 6月 25日にあたり梅雨時であった。

この攘夷期限、これは将軍家茂が朝廷から「一体いつから攘夷をやるのか、はっきりその期日を誓え」と攻めに責めたてられ、とうとう苦し紛れに「五月十日」と言上した日限であったが、その日に横浜から長崎を経て上海に行く途中の米国商船を、さらに、二週間ほどして仏通信艦を、その三日後に蘭軍艦を砲撃し、オランダ側は死者と重傷者を出す被害を受け、長州藩は大いに気勢を上げた。

なお、この商船と通信艦への砲撃は、当時の近代国際法に違反しており、弁護できない行為であったという見解があることを付言しておきたい。(井上勝生著「幕末維新」)

だが、長州藩の優勢は、これが最後であった。六月一日、横浜から下関に向かった米海軍が、下関海峡で長州藩の軍艦二隻を撃沈させ、四日後の五日には、仏軍艦が陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠し破壊させた。

七月二日には、英艦隊が鹿児島湾で薩摩藩と戦った、いわゆる薩英戦争が勃発した。鹿児島市街が焼失被害を受け、イギリス側も多数の死傷者が出て、二日後に鹿児島湾を去って行った。
このような薩摩藩と長州藩による外国との戦争行為は、結局、内外に幕府の統制が利かなくなっていることを示すことになった。

金五郎の情報はまだ続く。京都では薩摩と長州の主導権争いが深刻化、薩摩が会津と組んで長州を京都から追い出した八月十八日の政変によって、朝廷内では公武合体派が再び勢力を握り、公家の急進派の一部は大和で天誅組として挙兵したが失敗。これに参加していた藤本鉄石が戦死した。この藤本とは、清河八郎も少年時代教えを受け、鉄舟も高山から伊勢神宮参りへ向かった道中で教えを受けた人物であった。

さらに、新撰組隊長の芹沢鴨が暗殺され、近藤勇が隊長になったことも、鉄舟と関係があっただけに感慨深き事件であった。

ここで翌年の元治元年(1864)にも少し触れたい。六月には京都河原町三条の旅館池田屋に集まった約30名の尊王攘夷激派を新撰組が襲撃し、多数の死傷者が出た。

池田屋事件に反発した長州藩の尊王攘夷派は、奇兵隊に続いて武士と庶民混成で結成された遊撃隊などを率いて上京する。

七月、御所外郭西側の蛤門で長州藩と薩摩藩、会津藩が戦い、慶喜が戦場で指揮をとった。この蛤御門の変(禁門の変)で、長州藩が撃退された。この時、二万八千軒が焼失し、下京の町々はほとんど全焼「鉄砲焼け」が後代まで語られることになった。

また、この蛤御門の変の半月後である八月五日、前年に下関海峡で欧米諸国に攘夷砲撃をした長州藩に対して「いかなる妨害を排除しても、条約を励行し、通商を続行する」という欧米の決意を示すために、英・仏・蘭・米の四カ国の軍艦十七隻、砲二百八十八門、兵員五千名余の大艦隊が、周防灘から英艦隊の最新鋭アームストロング砲百十ポンド巨砲によって、四キロ以上離れた長州藩の砲台を正確に命中させた。

さらに、上陸した陸戦隊は、奇兵隊が中心の長州藩諸隊と、激しい銃撃戦で戦ったが、奇兵隊はゲベール銃、対する四カ国軍は新鋭のミニエー銃(ライフル銃)で、命中率、威力とも問題にならない差があり、砲台のすべてを占拠された長州藩の完敗に終わり、ほとんどが旧式の青銅製カノン砲であった長州藩の大砲は捕獲され持ち去られた。

この戦争で、仏艦隊に捕獲されたものが、現在、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)に展示されていることと、このうちの一門が下関市立長府博物館に戻っていることを二〇〇八年十月号で以下のようにお伝えした。

「山口県が長州砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、世界各国とも戦利品を敗戦国に返した事例はなく難航。そこで直木賞作家の古川薫氏が、昭和五八年(1983)当時の安倍晋太郎外務大臣に働きかけ、ようやく長府毛利家に伝わる紫(むらさき)糸(いと)威(おどし)鎧(よろい)をアンヴァリットに貸与して、相互貸与という形で天保一五年(1844)製の長州砲一門が、昭和五九年(1984)に戻った。

この里帰りの経緯については、古川薫氏の『わが長州砲流離譚(りゅうりたん)』に詳しく記されている。だが、同書によれば、アンヴァリットにはまだ二門の長州砲が残されていると書かれ、そのうちの一門の行方が不明で心配だ、ということも記されている。そこで、古川氏に連絡を取って、筆者が再度現地に行き、確認してくることになった」

今年の三月三十日、アンヴァリットの学芸員とようやく連絡がとれ、現地で長州砲を再確認してみた。一門は門を入ってすぐの庭に展示されている。これは古川氏も分かっている。問題はもう一門である。まだ若き長身の学芸員が、もうひとつ日本の大砲があると言い、建物の中に入って二階の通路に案内してくれたが、そこにあった大砲は1876年製という明治維新(1868)の8年後である。記録を見るとカサゴンという人物の手を経て入手とあると言う。確かに漢字で「百目玉」とは書いてあるが、長州砲ではなく、発射する装置の部分が破損欠けている。

これは長州砲でないと言うと「もう他にはない」と断言する。ご存じのとおりこういう時のフランス人は強硬である。シラクやサルコジ大統領の外交を見ればわかる。しかし、ここで引き下がっては折角のアンヴァリット訪問目的が達しない。ねばりに粘る。古川氏から受けた手紙と写真、それと昭和五九年の山口新聞記事などを使って何回も説明し、どこかにあるはずだとしつこく追及する。

こちらの剣幕にとうとう学芸員は考え込み始め、では、一緒に館内を探してみようと歩きはじめる。多分、普通の展示場ではないだろうと推測し、倉庫や鍵の掛っていて入れない場所を回って歩いたうちの一か所、ここは軍関係の管理地だから入れないというところ、そこの鍵がかかっている柵の間から覗くと、遠くに長州砲らしきものが見える。これだと叫ぶと、学芸員は慌てて事務所に鍵を借りに行く。ここには自分も入れないところだと言いながら。

鍵が来て開けて入り、走りたい気持ちを抑えつつ大砲のところに行くと、嘉永七年の文字が見える。やはりあったのだ。学芸員もびっくり。知らなかったのだ。アンヴァリットには九百門の大砲があるというが、その記録に欠けていたのだ。

早速に記録化を依頼すると、この「砲身の文字は何と書いてあって、どういう意味だ」という質問を受ける。長州砲に彫られた文字は薄れて判読が難しい。日本に戻ったら古川氏に確認して連絡すると約束しアンヴァリットを失礼した。

後日、古川氏から連絡受け送付したものが「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」である。

十八封度礮とは、大砲の弾の重さであり、約8.2キログラムで、葛飾別墅とは現在の東京都江東区南砂二丁目付近に存在した、当時の長門萩藩(長州藩)松平大膳大夫(毛利家)の屋敷を指し、佐久間象山の指導のもと、屋敷内で大砲の鋳造を行ったのである。

今回の調査証明のため、長州砲を囲んで学芸員と写真を撮り、古川氏に報告できほっとしたところである。

話は鉄舟謹慎に戻る。

謹慎後七か月経過した文久三年十一月十五日の夕刻、突然、火の見櫓の警鐘が乱打された。泥舟と鉄舟は二人揃って、高橋宅の二階に上がって見ると、江戸城の方向が真っ赤に燃えている。これは大変だ。お城が火事だ。二人は眼を合わせた。どうするか。お互い謹慎の身で、屋敷から一歩も外に出られない身である。だが、二人が同時に叫んだ。「駆けつけるぞ」と。

この当時、幕臣が最も恐れたのは、かつて慶安の昔にあった由比正雪一党の、江戸城の内外に火を放ち、城を乗っ取るという策謀であった。幕末時は特に攘夷運動の激化で危険を感じていたのである。
二人が支度していると、松岡万や高橋道場の門弟たちがやってきた。いずれも「こんな時こそ、禄米を受けているご奉公だ。謹慎中でも黙って座視できないだろう。お咎めは覚悟の上で、市中取締りのために出動するはずだ」と、期せずして、同じ考えを持って駆け付けたのである。

この時の状況を泥舟が次のように述べている。(参考:泥舟遺稿)

「この夜の装束は、下に白無垢を重ね、上には黒羽二重の小袖、黒羅紗の火事羽織を被り、黄緞子の古袴で、栗毛の馬にまたがった。鉄舟は、三尺の大刀を佩(お)び、槍を持ち、馬の左に、松岡は長巻をたずさえて、馬の右に付き添った。いずれも幽閉のためあごひげと髪の毛が茫々で鐘馗(しょうき)のようだ。
一行はまず、寄合肝煎(よりあいきもいり)*の禄高五千石の佐藤兵庫邸に行き、兵庫に面会するや言い放った。『我らは今日、お城の炎上只事ならず、君上の大事にも及ぶべしと心得、幽閉の禁を犯して君上を警衛せんと欲して、あえて出馬つかまった。しかれどもわれ、ほしいままにこれをなさば、肝煎の役柄に対してお咎めあらんかと存じまして、一応、お断りに来るなり。しかしてわれは今日、禁を犯せる上は、直ちに割腹の命あるものと心得、その仕度も調えてきたり。我が禁を犯せし義は、もとより肝煎の落ち度でなく、まったくのわれの所為なれば、よろしくこの意を言上あられたし』

これに対し、兵庫はしばし黙然としてわれの顔を見ていたが、ハラハラと涙を流して言った。『今に始めぬ貴下の誠忠、まことに感ずるに余りある。さりながら貴下の身、もし大事におよばば君上も股肱(ここう)の忠臣を失わることになる。貴下、今日のことはこれを思い止まりて、邸内に帰り謹慎せられよ。忠を尽くすは今日に限らぬであろう。予は、不肖ながら貴下の御為悪しくは取り計らいもうさぬぞ』

われは応じた『もっともの事なり。君上に尽くすは今日にも限るまじ。未来無限の日月あるべし。さりながら老少不定の世のならい、又という日は期すべからず。いわんやわれ既に心を決し来たれり。今生きて還るの心なし。後日の事を論ずるに暇(いとま)*あらんや』と突き放し、門外に出るや、馬に乗ってお城を目指した。

この一隊がお城の周りを何回も見回った。その異風の装束を見て、その場にいた人々が驚愕した。火の手は午後十時になって、ようやく収まった。ホッとして大手前の酒井雅楽頭(うたのかみ)の番所に暫時休憩を申し出たが、この番所は江戸市中で最も厳しき所だが、われらの威勢を恐れて何も言わなかった。

鎮火し夜も明けたころ、われらは引き上げたが、帰途、一橋門に差しかかると、講武所奉行の沢左近将監の一隊に出会った。左近はわれらを見て、馬を進めてきた。われらも馬を進め、双方が止まり、左近は大音声をあげ『勢州(当時われは伊勢守のためこのように呼ばれていた)、貴殿、いまお城を警衛して帰邸せらるると覚ゆるぞ。よくこそ禁を犯してこの挙におよばれた。われ、これを知らずして曩(さき)に貴下を罵ったのが悔しいぞ。幽閉の身であるのに、かかる火災時に、君上を警衛するとは、さすがに忠臣と聞こえたる勢州じゃ』と大いに讃嘆された。

われは答えた『われ君上のためには、すでに身を犠牲に供したり。今日は殊に幽閉の禁を犯し、この挙に及びたれば、何時、割腹を命ぜられんも期しがたしと心得、予めその仕度して出馬せしなり。しかるに未だその命に接せざれば、かく帰邸の道につきしなり。後刻にいたらば定めし御処分もあるべければ、貴君との面会ももはや只今限りと覚ゆるぞ。わが亡き後は、貴君らよろしく君上を保護したまわれ』と粛然と述べた。左近はこれを聞き、感激のため、馬上にうつ伏して頭を上げられなく、声を呑んでむせび泣いた。われは一礼して別れ、自邸に戻ってひたすら御沙汰を待った」

馬上で頷いた左近は、その足で閣老・参政に対して「高橋こと、閉門謹慎の制禁を犯しましたが、ひとえに誠忠奉公の心からであり、何とぞ御寛大なご処置を」と訴えたという。そのためか、泥舟と鉄舟にはお咎めの上使は、結局、やってこなかった。不問に付されたのである。

ところで、西丸御殿の造営工事が始まったのは、年が明けた元治元年正月、七月に完成し将軍家茂が入ったが、これが江戸城最後の建築であり、明治維新後の明治六年(1873)の炎上まで存在したものである。因みに江戸城の火災は結構多い。防火対策上最重要拠点としてとして警護されていたのに、家康の時代から数えて三六回の火災が発生している。七年に一回という多さである。

さて、十二月十日、高橋泥舟に謹慎宥免(ゆうめん)の沙汰があり、老中の許に出頭すると「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」の沙汰であった。元の職務になったわけである。

続いて、十二月二十五日に鉄舟、松岡万などにも謹慎宥免の沙汰が下った。

「ありがたい。これで外出ができる」と自由になった喜びに叫んだが、八ヶ月間の謹慎は鉄舟の心に大きな変化を与えていた。謹慎という状況を、わが身の修行に切り替え、自らの奥底を訪ねる旅に変えてきた鉄舟には、目指すものが微かながら見えてきたのであり、早速にその第一歩を踏み出したが、それはとてつもなき大きな壁にぶつかることになり、その壁が一生を貫く目標になったのであった。

投稿者 Master : 2010年07月10日 18:47

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