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2013年09月24日

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の九

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の九

2012年7月大歌舞伎は、歌舞伎座が二千十三年春まで、建て直しのため閉場されているため、新橋演舞場において「二代目市川猿翁、四代目市川猿之助、九代目市川中車」の襲名披露公演と、五代目市川團子」の初舞台が四日から二十九日まで開催された。

演目は昼の部がスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」であるが、夜の部は何と鉄舟の登場であった。真山青果作「将軍江戸を去る」で、鉄舟を市川中車、慶喜を市川團十郎、泥舟を市川海老蔵という豪華配役である。

中車はご存知のように新市川猿翁の息子である俳優の香川照之で、鉄舟を演ずることの意義を次のように述べている。

「鉄太郎が実在の人物であるということ、映像でも史上の人物を演じる時は、その時代の人間になり切ることを考えました。歌舞伎の舞台で歴史上の人間を演じる。どうなるか楽しみにしています」と。
東京新聞(七月七日 長谷部浩=評論家)によると

「上野寛永寺黒門前、山岡鉄太郎が徳川慶喜に面会を求めてきたために騒然となる。門内に入ることを拒む天野八郎(右近)とのやりとりに緊迫感がある。

大慈院の場では、はじめ慶喜と高橋伊勢守が向かい合う。政治に携わる者の責任感と裸身に戻った将軍の内心の吐露が胸を打つ。中車は裂帛の気合でこの場に加わるが、一本調子にすぎて、慶喜との肚の探り合いが見えてこない。山岡を直情径行に作りすぎている」

確かに鉄舟は直情径行型ではなく、熟慮断行の人間であるから、この評が当っていると思うが、ここで関心を持ちたいのは市川中車の襲名披露公演という記念すべき歌舞伎に、鉄舟が登場していることである。

七月十九日は鉄舟命日で、岐阜県高山市の宗猷寺、ここには鉄舟の父母の墓があり、毎年、高山地区の鉄舟ファンが集まり法要を営み、併せて筆者が記念講演を行っている。

この講演の中で、七月大歌舞伎の演目が「将軍江戸を去る」で、鉄舟を市川中車襲名披露公演していることを伝えると、参加者は皆一様に驚く。

鉄舟が少年時代を過ごした高山、ここには高山の地が持つ独自の何かがあって、それが鉄舟の奥底に入り込み、バックボーンとなって江戸無血開城という偉業につながったと考えているが、そのことに対する認識が高山地区では薄いので、大歌舞伎という舞台、それも襲名披露という記念すべき演目に、鉄舟が取り上げられた位置づけと意味を高山の人達は量りかね、意外間感を持つのである。

まだ十分に鉄舟という人物を高山では認識していないと思われるので、今後、高山の地が鉄舟に与えた要因・影響について深く研究していきたいと、改めて思っている。

今まで明治天皇と鉄舟の関係について、既に今号を含め九回に渡って検討してきたが、ようやく最終場面の入口にたどりついた。

明治天皇が、明治十年頃に見られた「引きこもり・鬱状態」から脱皮し、三十歳頃から意志を積極的に示し始め、明治二十一年(1888)三十六歳頃に示された御真影に描かれたような堂々たる君主となり、明治憲法の精神を尊重する名君として権威を高め、「明治大帝」と尊称されるまでになられたのだが、その過程でどのように鉄舟が関与していたかについて、これから順次背景を分析していきたい。
そのためのストーリーとして、①西郷政権⇒②維新三傑の亀裂⇒③天皇の鬱⇒④御真影の分析⇒⑤西郷、鉄舟、乃木の精神的役割という順序で展開していきたい。

① 西郷政権

まずは西郷政権である。読者は「西郷政権」と書くと意外な感がすると思う。
明治四年(1871)十一月十二日、岩倉全権大使と大久保利通・木戸孝允含む一行四十八人と、留学生五十四人がアメリカに向けて出発した岩倉使節団、この留守を預かったのは太政大臣三条実美と西郷隆盛であった。

三条については「維新後は何も決定せず、能力も欠如しており、実態は酒びたりだった」(明治大帝 飛鳥井雅道)という見解もあり、岩倉使節団が帰国する明治六年九月までの約二年間は、西郷政権とも言うべき政治が行われていたのであるが、西郷政権を説明するためには、西郷の出処進退について少し触れないといけない。

実は、西郷は明治元年九月の会津藩・庄内藩の降伏を受けると、鹿児島に戻ってしまっていた。維新戦争が片付いたので「ここまでこなしつづけるのがわしの役目。あとは皆さんがよろしくやってくれるだろう」という腹だった。

大久保や木戸は「西郷は無責任だ」と非難したが、西郷の「南州翁遺訓」を見ると分かるように「労は一身に引き受け、功は人に譲る」というのが西郷で、利欲の念を徹底した心がけの人物だった。
その西郷を再び東京に呼び戻そうとした背景には、維新後の混乱があった。

その一例が薩摩藩士横山安武(森有礼の兄)の諫死である。横山は集議院徴士として東京に出ていたが、明治三年七月二十六日、時弊十条の非を論じた建白書を竹頭に挟んで、集議院の門扉に掲げ、その場で割腹して果てたほど、当時の政治は混乱していた。

 横山の諫死がなくとも、岩倉、大久保、木戸、三条という政府首脳部としてはあせらざるを得ない。綱紀を粛正し、姿勢を正し、新政の実をあげたいと思っているが、そのためには「何よりも、政府の基礎をかためなければならなく、それには西郷を中央に引き出して政府の一員にする必要がある」と意見が一致、十二月、岩倉と大久保が西郷の出仕を促すために鹿児島へ赴き、西郷と交渉したが難航、欧州視察から帰国した西郷の弟従道の説得で、ようやく廃藩置県等の政治改革のために上京することを承諾し、翌明治四年(1871)二月東京に着いたのである。

いわば、西郷は引きずり出されたのであって、西郷は明治初年時点においては天皇の側近くにはいなかった。

その廃藩置県であるが、明治四年七月九日に木戸孝允の邸で最終会議開かれ、会議は、新政府に対する反抗が必ずおきるであろう、その際どういう処置をとるべきかについて、木戸と大久保の間で大論争が続き結論がつかなかったが、じっと黙って二人の論争を聞いていた西郷が

「事務上の手順がついているならば、暴動がおきたら鎮圧は拙者が引受申す。ご懸念ない。直ちに実行してください」

と発言したことで廃藩置県が決まり、数日後、会議の結果を明治天皇に奏上し、天皇は当時十九歳十カ月という若さからご懸念つよくご心配され、いろいろ御下問されたが、西郷が

「恐れながら吉之助がおりますれば」

という自信に満ちた奉答に天皇はやっと安心したと伝えられ、七月十四日に廃藩置県改革がなされたのである。

この当時の西郷の威信は明治維新成立の中心人物として光り輝き、併せて、清廉潔白の人として一般人からも崇敬されていた。

さて、岩倉使節団の目的は、当初日米修好通商条約の治外法権と輸出入税率の不均等を除去するものであったが、団長の岩倉具視は米国滞在中に、米国と単独に条約を改正することは、返って日本に不利になると判断し、使節団の目的を諸国へ表敬訪問することに変更した。

岩倉全権大使一行は明治六年九月に帰国するまで、アメリカには約八ヶ月も長期滞在し、その後、大西洋を渡り、イギリス(四ヶ月)、フランス(二ヶ月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(三週間)、ロシア(二週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの十二カ国に上った。

出発する前、参内した岩倉は、明治天皇に兵事に精励するよう申し上げ、天皇は必ず兵馬の権を「総攬(そうらん)」(掌握し治める)すると答えたが、これは岩倉が天皇に「大元帥」という武人的要素をイメージとして期待していたことがわかるが、そのイメージ形成に重要な役割を演じたのは留守を預かった西郷であった。

つまり、岩倉、大久保、木戸の欧米滞在中に、それまで天皇像イメージ形成にあまり影響力のなかった西郷隆盛が、次第に関係を強めていくのである。

その最初が、岩倉使節団出発直後の明治四年十一月二十一日から二日間、官営の横須賀造船所への行幸である。軍艦で横須賀を往復し、造船所を視察し、二日目は乗馬であって、天皇が陸軍の演習以外で乗馬での行幸は初めてであった。

また、御親兵の訓練を見学するため、日比谷門外の訓練所に乗馬で行幸し、西郷が出迎えたように、西郷が岩倉等の留守政権を主導し始めると、武士を原型とした「大元帥」イメージを強めるような行幸が行われていった。

十二月に西郷が叔父椎原與三次に宛てた手紙の中で、以下のように語っている。

「元来が英邁の質で、極めて壮健であられ、このような天皇は近来では稀であると公卿たちも言っている。天気さえよければ毎日でも馬に乗り、二、三日内には御親兵を一小隊ずつ召されて調練する予定で、今後は隔日に調練をなさるとのことである。大隊を率いて自ら大元帥をつとめられるとの御沙汰があり、なんとも恐れ入る次第で、ありがたいことである」とあり、その書状の最後のまとめとして
「この変革中の大きな成果は、天皇がまったく『尊大の風習』をなくし、君臣が非常に親密な関係になったことである」(明治天皇 伊藤之雄著 ミネルヴァ書房)と述べている。

西郷の書状で注目すべきことは、西郷は重々しい儀式や乗り物・服装で天皇を権威づけるよりも、天皇が質実剛健で実質的な能力からくる威信によって臣下を引きつけ、天皇と臣下の相互の親密な関係を作るべきだと考えていたことである。

そのためにも軍事関係を中心に、軽装で馬に乗って行事に出発することなどは、天皇像形勢に望ましい必要不可欠な必要な行動であり、それは、岩倉や大久保の考えるよりも、もっと形式にこだわらない天皇像であって、明治天皇も西郷の意向に積極的に応じたのである。

このような西郷政権によって、兵部省を廃し、陸軍省と海軍省を創設し、国民の成年男子がすべて兵役につくことを原則とする徴兵制が公布されたという意味は、西郷によって近代日本の軍事制度の大枠がつくりあげられ、天皇のあるべき「大元帥」像をほぼ固められたと言ってよいだろう。

また、その「大元帥」像つくりへの主な具体的行事を並べると、まず、明治五年(1872)一月八日、日比谷陸軍操練所(現・日比谷公園)で陸軍始めに行幸し、翌日は海軍始めで、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に馬車での行幸。

さらに、この明治五年は、天皇が実際に兵士を指揮する操練が本格化した。天皇は最初は侍従等を兵士に見立てて指揮の練習をしていたが、後には御親兵一小隊を召して実際に指揮したように、数か月で上達した指揮ぶりを発揮している。

この操練時の服装は、冬は上着・ズボン共に濃い紺色の厚手の毛織物、夏は上着・ズボン共に白いリンネル(亜麻で織った薄い織物)であった。

明治天皇服装の変化を見ると、一年八か月前の明治三年(1870)四月の陸軍連合訓練時には、直衣(のうし)を着て袴をはいて馬に乗っていたが、明治四年の操練時には洋装(軍服)となり、五月頃からは皇居内でも政務をみる御座所では洋服を着用し始めた。

明治五年九月には、天皇の陸軍大元帥と、陸軍元帥(この当時は西郷一人のみ)の服制が定められた。いずれも帽子は黒色、上着・ズボンは紺色の洋装で、帽子及び上着袖には金線があり、大元帥は大小各二条、元帥は大二条・小一条、ズボンの金線は大元帥・元帥共に大小一条、ボタンはすべて金色桜花章と決めたが、天皇は大元帥のボタンを金色菊章とし、帽子と上着にさらに金線小一条を加えさせている。

このような服装による大元帥姿を一般民衆に「見える化」し、天皇イメージを決定的にしたのは六大巡幸であった。

一回目の巡幸は、明治五年(1872)五月二十三日、明治天皇は騎馬で皇居を出発、品川沖に停泊する旗艦龍驤(りゅうじょう)*に乗船、供俸するのは西郷と弟従道等七十余人による近畿、中国、四国、九州巡幸である。以後、九年に東北、十一年に北陸、東海道、十三年には中央道、十四年は東北、北海道、十八年は山陽道と、明治十年代を通じて、それぞれ一、二カ月かけた大巡幸を六回行っている。

当時の陸軍省提出の全国要地巡幸の建議では、巡幸の持つ特殊な意義を次のように説いている。

「中世以降、天下の政治は武門が掌握し、天皇は御所の壁の内に封じ込められた。この度の巡幸は、新しい時代の幕開けを宣するものとなるだろう。天皇は日本全国を巡幸し、地理、形勢、人民、風土を視察することになる。これまで天皇に巡幸の機会を作らなかったことは、重大なる過失と言わなければならない。しかし、この過失は今こそ正されるべきである。沿海巡覧によって、天皇は大阪、兵庫、下関、長崎、鹿児島、函館、新潟その他、民衆が暮らしを立てている所、また要衝の地を親しく叡覧することになる。この巡幸は、今後全国を治める方策を立てる上で天皇に資するところ大である。残念ながら、僻地の村々においては未だ朝意の目指すところに無知な民衆が多く、これは王化があまねく行き渡っていないことを示すものである。もし、手をこまぬいてこの機を失えば、国の将来に対する不安はますます全国に拡がり、開化進歩の障害となること測り知れないものがある」と。(明治天皇紀・明治天皇 ドナルド・キーン)

この頃、天皇に対する世間の反応は、殆どの平民は関心を持たなかったと「天皇の肖像・多木浩二著」が次のように記している。

「『東京日日』に掲載された岸田吟香による随行の記録『東北御巡幸記』には、一方では奉迎する人々を記述するとともに、鳳輦が通っていくにもかかわらず、泥のなかに足を投げ出して腰かけたままの農夫や娘たち、裸の赤ん坊に乳を飲ませている女性なども描いていて、天皇に全く無関心な人々が存在したことを物語っている。その人びとには天皇を畏怖する感情は全くなかった」(天皇の肖像・多木浩二)

しかし一方、大阪では夜十時に本願寺津村別院の行(あん)在所(ざいしょ)*に到着した時には、市民たちが軒灯を掲げ、街灯をつけて天皇奉迎の意を表し、市民たちは拍手と万歳を唱えた。

この万歳を唱えたとの記録は明治天皇紀によるものだが、次のように但し書きあるので参考までに紹介したい。

「近世万歳と唱ふること、明治二十二年憲法発布の際に始まると云はる、是の日、大阪市民の万歳を唱えしこと、当時の記録によりて之れを記せるが、果たして万歳と発声せしか、或は往々本邦及び支那の古典に見えたる呼万歳の文字を用ゐて歓喜の状を形容せしに止まるか、未だ明らかならず、尚明治三年九月公布の天長節海軍礼式にも、午前十一時に皆甲板上に列し、位を正ふし、万歳を唱ふの文あり」(明治天皇 ドナルド・キーン)

いずれにしても、この巡幸期間中において、明治天皇は西郷と毎日顔をあわせているうちに、西郷の人物像がさらに分かってきて、結果として西郷が持つ人間性にひかれていったのは無理からぬことで、天皇の「武士的変化」は西郷の個性によるところが大であることは間違いない。

その一片を語るのは天皇より二歳年長と年齢の近い、親しかった公卿の西園寺公望の次の回想である。

「天皇が落馬して痛いと言った時、西郷は、どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけませんとたしなめたという」(明治天皇 伊藤之雄)

西郷について晩年まで天皇がよく語った逸話がある。

「六月十七日。午後四時に長崎港にはいる予定だった軍艦が、ともの三艦は無事入港できたのに、港の近くにきて、お召艦龍驤だけが立ち往生して二時間近くもうごかなくなった。へいぜいは、喜怒哀楽をちっとも顔にあらわさぬ西郷が、この時ばかりは、顔を真っ赤にし、どんぐりのような目をむいて、

『よりによってお召艦の入港をおくらせるとはけしからん。お上に対して申しわけないではないか』

と、たいへんな剣幕でどなりつけた。

艦長の伊東祐麿大佐(のちの黄海海戦の祐亨元帥)は、おびえきって一言も出し得ず、海軍少輔(次官)の河村純義が、

『いいえ、いえ。それは、いいえ』

と、取りなし顔に、さかんに手をふって言いわけをしようとするが、うろたえて言葉をなさない。

『いいえじゃわからん。どうしたんだ』

と、第二のかみなりが脳天の上からおちてきた。

じっさいは長崎港が浅いのに、龍驤艦は吃水が深い。海軍で潮時をはかりそこね、入港の時が引き潮にさしかかったのだ。それがわかり、別に大した手落ちでもないので、西郷も怒喝をおさめたが、一時はみんなどういう事になるかと、気をもんだ。

日ごろ柔和な公卿や女官ばかりにかしずかれておられた天皇には、これがまことの『男の怒り』の初印象だった。世のなかには、こうも激烈な感情があるものかと、びっくりせずにはおられぬほどだった。

しかしその怒りの底には、天皇に対する心からの敬虔と、誠実があふれている。しかも事情がわかると、すぐ機嫌をなおしたのは、しんねりむっつりしている公卿には、まったく見られない磊落な態度だった。

『これが世にいう英雄の心事というものか』

という気が天皇にはしたのだ。

『あの時の西郷のかんしゃく玉ときたら、たいへんなものだったぞ』

と、これは晩年まで、よく臣僚たちの陪食の席で出た話である」(明治天皇 木村毅)

このように西郷に対する明治天皇の信頼は厚く、その西郷の推薦で鉄舟が明治五年に侍従となったのだが、西郷と同じく鉄舟も天皇から絶対の信頼を得る大事件が、まだ岩倉使節団が帰国しない明治六年五月五日に発生した。

それは皇居の火事である。この火事によって元紀州藩邸の赤坂離宮が仮皇居となったが、同様にこの火事を契機として、鉄舟は赤坂離宮門直前に位置する元紀州藩家老屋敷跡に住むことになり、さらに明治天皇の身近で侍従職を全うすることになるが、その経緯は次号に続く。

投稿者 Master : 2013年09月24日 09:32

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