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2009年03月07日

尊王攘夷・・・その二

尊王攘夷・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

前月では、鉄舟に影響を与えた人物である清河八郎を取上げ、何故に山形・清川村の酒造業の息子である清河が、尊王攘夷の著名急進派志士と称され、雄藩の大坂薩摩藩邸に滞留するほどの人物となったのか。この検討のため当時の政治状況を振り返ってみた。

今月は、清河はじめ著名な人物が争って唱え行動した尊王攘夷運動とは何か、つまり、尊王という意味、攘夷とはどういう内容か、この理解なくしては当時の政治状況を理解できないので、改めて考察してみたい。

まず、尊王ではなく、一般的に尊皇と書く事例が多い。

これは昭和初期ごろから、本来は尊王であるものを、尊皇に変わったと指摘されている。(小西四郎著 開国と攘夷 中公文庫)その通りで、これは徳富蘇峰が「元来尊王と云うが、記者は故ら尊皇と改めた」と昭和八年に述べたことからである。(徳富蘇峰著 近世日本国民史49巻 民友社)

本論では尊王を採り、以下、小西・徳富著を参考に検討をつづけたい。

尊王攘夷というのは、癸丑(みずのとうし)・甲寅(きのえとら)から丁卯(ひのとう)・戊辰(つちのえたつ)、つまり、嘉永六年(1853)・安政元年(1854)ごろから慶応三年(1867)・明治元年(1868)までの、志士間における、通り言葉であった。

つまり、米使ペリーが、艦隊を率いて浦賀に来航した嘉永六年から、明治維新までの十五年間が尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、複雑化・混沌化した期間で、この尊王攘夷を風靡させた始まりは、水戸烈公(斉昭)の弘道館記にある「王を尊び、夷を攘ひ、允(まこと)に武に、允に文に」の一句からである。

また、この尊王攘夷という文言の淵源を遡ると、中国・東周(紀元前770~前221年)末となり、当時、諸侯が跋扈(ばっこ)して周王を無視したので、特に、尊王の大義を掲げたことからである。

この尊王論が日本で強力に主張されるようになったのは、ペリー来航によって外国との交渉が始まったあたりからで、それまでは、表面的に幕府は朝廷を尊敬したが、実際は完全な統制化においていて、一般の尊王認識は薄い実態だった。幕末時の外交問題を通じて天皇の存在が改めて認識され、ここに尊王論が浮かび上がってきたのである。

ペリーが持参した米大統領の手紙の宛名は「日本皇帝陛下」と記していたが、その後、将軍はあくまで天皇の臣下であることが一般にわかってきて、対外的に皇帝と称するわけにいかなく、そこで考えられたのが「大君(たいくーん)」(Tycon)であり、これは既に朝鮮との間で「日本国大君殿下」と使われていたので、これが一般的となって、天皇は「帝」と称されるようになった。

尊王論は水戸藩の学者によって主導された。

藤田幽谷は「将軍が天皇を尊ぶならば、大名もまた将軍をあがめ、大名が将軍をあがめるならば、藩士もまた大名をうやまうであろう。こうして、上下関係は緊密にたもたれ、国内は一致協力態勢がとれる」と主張し、その子藤田東湖は「すべて人々はその直属の主君に対して忠誠を尽くすことが必要であり、将軍が天皇を尊ぶべきであって、この階層をのりこえて、例えば大名や藩士が直接朝廷に忠義を尽くすような行動をとることは行ってはならない」と述べている。

このような尊王論は、封建的な上下関係を強固にするための主張であって、現在の秩序を維持するための論拠であった。

この尊王論が攘夷論と結びついて尊王攘夷論となり、やがて次第に反幕的色彩を持っていくのであるが、その検討に入る前に攘夷という文言の淵源をみてみたい。

攘夷も周時代である。周時代は、夷狄(いてき)との交渉が頻繁であって、「詩経」魯頌(ろしょう)に「戎狄(じゅうてき)是れ膺(う)ち、荊舒(けいじょ)是れ懲らす」、即ち「西北の蛮族を討ち、南の荊族・舒(楚のこと)をこらしめる」とあるように、これが「攘夷の已む可からざる所以」を語った始まりである。

しかし、この攘夷という語源と異なった活用を日本人は行っていくのであるが、これについては後述するとして、まず、日本人が持っていた攘夷思想について考えてみたい。

元々日本人はその本質からして決して攘夷傾向でなく、日本人の開放的感覚は、世界でも少ないのではないかと思われる。外国人を排斥する傾向は、日本人より中国人や欧米人の方が強く、日本人は攘夷なぞというより、外国人を優待し、海外品を受け入れる傾向が強いのではないか。

 この感覚は、日本上古の歴史を見ても明らかである。当時、中国・韓国その他地域から移民を受け入れたばかりでなく、これを奨励し歓迎する傾向にあった。上古時代は中国・韓国・インド、いずれも日本より文化的に先進国であった。

したがって、自然にその先進国と先進国民を崇敬した。これがあまりに甚だしくなったので、それを矯正するために、聖徳太子はことさらに国民的自覚を促したほどである。さらに、近世史の始まりである信長・秀吉・家康の如きも、決して攘夷傾向でなく、鎖国傾向でもなかった。

 では、何故に、徳川幕府が鎖国制度を採ったか。それにはキリスト教布教活動の活発化が、種々の問題を引き起こすなどの理由があったほかに、外国との通商が、自国内に混乱を起すと判断していたからであった。

ペリーの第二回目来航時、交渉に当たった幕府全権代表の林大学頭復斎が、ペリーが交易によって「国々富強にもあいなり」と通商を要求したことに対し「外国の品がなくとも日本は十分」と述べ拒否している。これは隣国の清国がアヘン戦争によって貿易港を増やされ、その結果清国の輸入が増加し、その支払いの銀が増え、結果的に銀貨の値が高くなり、清国人の暮らしを厳しくしている事例を承知していたのである。

つまり、外国との交易が行われれば、日本から輸出する物品、茶や生糸が国内から出て行き、その分、国内で品薄となり、値上がりを招くことになり、釣られて他の物品も値上がりすることになって、人々の暮らしは苦しくなったのであるが、このことを幕府は既に理解していたし、事実その通りの状況となった。

その上、通商を求める外国の態度にも脅威を抱いた。それはロシアの北方からの侵入であり、ペリーが許可無く浦賀から品川まで入って来たという、日本の主権を脅かし、恫喝・威嚇する態度での交渉、これらが攘夷思想を強化させたことにつながった。
 
既に述べたように、この当時、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であった。この斉昭という人物、文政十二年(1829)八代藩主斎(なり)脩(のぶ)が逝去し、その跡継ぎとして斎脩の弟の敬三郎が九代目藩主斉昭として就いた。斉昭が藩主になるに当たっては、すんなりと収まったわけでなく藩内で跡継ぎ抗争があり、それがその後の水戸藩の混乱を助長させ、斉昭が四十五歳(弘化元年1844)のとき隠居謹慎となり、慶篤が十三歳で家督相続し、斉昭の謹慎が解けるのは嘉永二年(1849)で、五年が経っていた。

この間、斉昭を支えた人物は会沢正志斎、藤田幽谷とその子藤田東湖などであったが、いずれも攘夷論者として著名であって、その影響を受けて斉昭は強固な攘夷論を唱導して、攘夷論者から巨頭として仰がれる存在なっていた。

この時点での尊王論は天皇・朝廷を尊ぶことであるから、尊王イコール倒幕になっていなく「尊王であり、敬幕であった」というのが安政の大獄までの実態で、桜田門外の変で井伊大老を襲撃した水戸の尊攘志士もそうであったし、西郷隆盛が倒幕という意志を固めたのは、慶応元年(1865)あたりであって、その前年の長州征伐に当たって西郷は幕府側につき、実質の司令官的な役目を果している。

尊攘志士が倒幕に変わっていくのは、時代の変化からである。

まず、その変化の第一は、安政の大獄で志士達が弾圧された後、踏みつけられた雑草がますます強くなるように頭を持ち上げてきたこと。

第二は、井伊大老による日米修好通商条約の調印、これは天皇の勅許を得ない、つまり、違勅調印である。

第三は、その結果によって開始された貿易によって起きた、国内経済の混乱、第四は、外国人=夷狄の国内横行であった。

夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。違勅調印を攻撃すれば、幕府は弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった。

これらの時局変移を通じて、極めて少数だった尊攘志士は拡大し、底辺が広がり、大きな政治勢力になっていき、幕府をたのむに足らない、という考えは、幕府の構造改革を目指す方向と、もっと進めて幕府の存在を否定する倒幕に向う方向に大きく分かれていった。

その幕府の構造改革を狙う意図で、攘夷思想を主導したのが水戸藩主斉昭であることを、その子である徳川慶喜が語り、それを受けて倒幕派が攘夷思想をどのように展開していったかを解説しているのが徳富蘇峰であるので、この両者論を以下に紹介したい。

まず、当時の攘夷という内容がどのようなものであったか。それを渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」から拾ってみたい。

これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いて、それをまとめたもので、第一回の明治四十年に慶喜が次のように述懐している。

「烈公(斉昭)の攘夷論は、必ずしも本志にあらず。烈公いまだ部屋住たりし時より、しばしば戸田銀次郎等を引見して、水戸藩政の改革せざるべかざることども論議し給い、哀公(水戸斎脩卿)の後を受けて水戸家を相続し給いてよりは、いよいよ日頃思うところを実際に施さんとて鋭意し給いしが、非常の改革を行うには、何等かの名目なかるべからざるをもつて、一時の権宜として、改革は武備充実のためなり、武備の充実は、近頃頻々近海に出没する異船を打攘わんがためなりと称せられたるなり。

すなわち、攘夷の主張は全く藩政改革の口実たるに過ぎざりしが、後に至りては名目が目的となり行きて、形のごとき攘夷論者となり給いぬ。されば烈公は、異船来ると見ば有無をいわせず直ちに打攘わんというがごとき、無謀の攘夷論者にはあらず。もとより我が砲術の拙さを知り給えば、新たに西洋の砲術を学びて神発流と名づけ、胡服(注 中国北方の民族の胡人の着る着物・・広辞苑)は一切用い給わざりしも、つとに藩士をして、甲冑を廃して筒袖・陣羽織に古風の烏帽子を戴かしめ、自ら師範者となりて藩士を訓練せられたり」

つまり、攘夷論の強硬論者である斉昭は、十分に外国勢力の実態を承知していたゆえに、攘夷論を主導したというのである。

 この慶喜の述べたことについて、徳富蘇峰は次のように解説しているので紹介したい。(近世日本国民史)

 「以上は烈公の愛子徳川慶喜の自ら語る所、父を知るは子に若(し)くは無し。我等は之によりて烈公の本意が、必ずしも攘夷で無かったことを知るを得た。烈公尚然り、況や其他をやだ」

さらに続けて
 「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪(すす)ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして、攘夷論は何処ともなく其影を戢(おさ)め去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。

 偶(たまた)ま真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔恨して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂(とうろう)の斧に止った」

 如何でしょうか。嘉永六年から明治維新までの十五年間の尊皇攘夷論、それを理解することは一筋縄で行かぬもので、まだまだ検討不十分である。

しかし、このあたりで切り上げ、本論に戻り、複雑化・混沌化した政情の中、清河八郎はどのような役割を果たし、その同士と称された鉄舟は、心中に何を持ち時代に対応していたのか。次月以下で究明したい。

投稿者 Master : 2009年03月07日 08:47

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