« 3月例会の感想 | メイン | 3月例会記録(1) »

2007年04月03日

飛騨高山の少年時代 その二

飛騨高山の少年時代 その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

幕末の志士や明治時代の初めに活動した青年達を、ほめあげる政治家や歴史家が多くいる。ほめられて当然の働きをしたわけでこれに異論はない。しかし、「ほめる」側に何か基本的認識レベルで欠けているような気がしてならない。何か重要な前提を忘れている。

当時の人物は「命がけ」であった。行動は常に「死」に面していた。命を失ってもかまわないという覚悟があった。死ぬ覚悟で日本を変えようとした背景に「一人の人間の決断で国の運命を変える」という思想哲学を持っていた。そうでなければ、あのように死に対して恐がらず、死に急ぐことは出来なかったと思う。

このことを現代の「ほめる」側は、理解していないのではないかと思う。今の我々に「命がけ」の気概があるのか、と問われれば忸怩たるものがある。時代環境が違うといってしまえばそれまでであるが、当時の青年達は立派であった。

ただし、その覚悟のできた青年達にも、ひとつだけ残念なことがあった。それは当時の志士達に共通しているのだが、自らの心情や時代情景を、上手に文章化する力が欠けていたことだ。政治上の建白や公憤を詩文に託すことは巧みであったが、時の政治状況や社会状況を観察し、そこでうごめいている人々の情感機微を伝える文章力、それが一様に不十分であった。それらを工夫表現することがなされていれば、もっともっと当時の状況が鮮明になっていたであろうと思うし、死ぬことへの急ぎは少なくなっていたのではないかと思う。

同様なことを司馬遼太郎が「歴史の中の日本(中公文庫)」で指摘し、ただし二人の人物だけが例外であったと述べている。それは坂本竜馬と西郷隆盛である。

竜馬は国許の姉への手紙などに俗語を大胆にとり入れ、西郷は薩摩の俗語をつかって、京都から情勢分析を報道的に国許に送っていた。

特に西郷は、現実の生々しい機微をつかんだ表現で手紙を書き続け、時局の判断を誤らないように薩摩藩を導いていったのである。

そのことを司馬遼太郎は高く評価し「西郷は一流の報道家の資性を備えていて、優秀な新聞記者が務まる能力を有している」と認めている。

その優れた報道家的資性を備えていた西郷が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と鉄舟の本質を的確に表現し、それが「南州翁遺訓」として現代に残されている。西郷の的確表現力によって、鉄舟の人物像が今日まで明確・妥当に伝わっていることに感謝したい。

その鉄舟も、多くの志士達と同じく文章は残さなかった。だが書は大量に残してくれた。鉄舟の生涯でどのくらいの枚数を書したか。それを鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)から見てみたい。

「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)

其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。

或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」

後年、小野道風に比せられた鉄舟の書は、少年時代を過ごした飛騨高山で基礎が築き上げられた。飛騨高山で岩佐一定に師事したことからなされたものである。

岩佐一定、名は善倫、通称市衛門は飛騨高山に生まれ、家は代々荒木屋という呉服商で
家督を継いだが、書道への思い断ちがたく、家督を弟に譲って書道に専念した。

始めは旧家の八賀仁助の手ほどきを受け、その後尾張蜂須賀村の蓮華寺の住職で、弘法大使を遠祖とする入木道五十世大道定慶に入門し、一という字を三年間書いたという逸話が伝わっているほど修行し、ついに一定は弘法流の書道極意を究め、五十一世の免許を授与された。その一定は、鉄太郎(鉄舟)が飛騨高山に来たときはすでに六十七歳であった。

一定に書を習い始めたとき、鉄太郎は書法を全く知らなかった。そこで最初に一定は「千字文」一巻を書いて、手本として鉄舟に与えた。「千字文」とは中国六朝時代の四言古詩二百五十句を集めたもので、書道を志す者が手本としたものである。

鉄太郎はそれにしたがって練習すること約一ヶ月過ぎた頃、父の小野朝右衛門高幅が「これまで稽古した字を、この紙に清書せよ」と、鉄太郎に美濃半紙を渡し命じたことがあった。

鉄太郎は自室にて「千字文」に取り組み、楷書で「千字文」を書き終え、年月日と署名を入れた六十三枚の美濃半紙を父のところに持っていった。朝右衛門高幅はまだ文字が湿っている美濃半紙に書かれたその筆跡を一見し、その見事なことに驚嘆し褒め、我が子ながら鉄太郎の才能に感心し、今後の精進を励ました。

次の日、朝右衛門は一定を陣屋に招いて、昨夜の清書を見せた。「なるほど、見事なものです。他人が見たらとても子どもの字とは思いますまい。ことにそれがわずかの日数で、これまで上達するとは驚くほかありません。まことに末頼もしいお子様です」と一定も驚嘆した。その場には剣道師匠の井上清虎、御用絵師の松原梅幸もいて、いずれも鉄太郎を賞賛し励ました。かくて鉄舟は更に書道を熱心に精進した。

鉄舟が師岩佐一定に提出した誓約書が現在残っている。日付を見ると、鉄舟はこのとき十五歳である。「書法入門之式一札」とあるが、このとき始めて師事したのではなく、おそらく弘法大使の伝統を受けんがための正式の入門書ではあるまいか。(おれの師匠)

見事な筆跡であり、この「書法入門之式一札」を提出してからわずか半年後、一定が鉄舟に弘法流の免状を与えていることを合わせ考えると、弘法大使の伝統を受けんがための正式の入門書であると考えられる。

いずれにしても後年、鉄舟に対して依頼される揮毫数はおびただしい枚数であり、その事実が鉄舟の書のすばらしさを証明しているが、これは子ども時代に周りの大人達によって潜在していた能力を開花してもらった結果であり、この事例から考えられることは「子どもは将来の宝」であるという前提認識が、暗黙の合意として社会全体にあることが必要であるということである。そうでなければ子どもを大事に育成するということにならないであろう。

では、当時の日本の子どもに対する社会習慣はどのようなものであったのであろうか。

幕末に日本を訪れた欧米人が書いた記録によって確認してみたい。
例えばイギリス初代駐日総領事オールコックは『大君の都』で「子どもの楽園」と記し、『ペリー艦隊日本遠征記』では「児童書はユーモアのセンスをそなえ、滑稽なことを絵にすることができ、気のきいた戯画を気持ちよく笑える国民」と今日のアニメーションに通じることを述べ、スエンソンは『江戸幕末滞在記』で「日本人は、子どもが楽しむものの開発に抜きん出ていて、大人でさえ何時間も楽しむことができる」などと、日本の国民性について記述している。

つまり、江戸時代の日本は子どもを大事にする社会であり、そのような社会には前提として「国の豊かさ」が存在していたと思われる。

一国の豊かさの基準算定として使われているのがGDP(国民総生産)である。江戸時代のGDPはどの程度であったか。それをアメリカの経済学者、サイモン・クズネッツが推計している。

それによると幕末の慶応元年(千八百六十五)における一人当たりGDPは五十四ドルになっている。当時の西ヨーロッパ諸国、日本よりいち早く工業化をスターとさせていて、低い国でも二百ドルに達していたから、日本のGDP水準はいかにも低い。江戸時代の経済的実態は貧弱であったという見解は、この推計が根拠になる。

しかし、第二次世界大戦後のアジア諸国、例えば韓国の経済成長スタート時の一人当たりGDPのスタートは八十七ドルであったことを考えると、一概に数字だけを持ってその国の豊かさを判定できない。

豊かさとは、そこに暮らす国民の文化度、ライフスタイル、健康状態、寿命の実態などを勘案しなくてはならないだろうし、S・B・ハンレーは幕末の生活水準が同時代の西欧と肩を並べるほどの高水準にあったという見解も述べている。

最近の歴史学において有力な説は、人口は停滞したが社会や経済は成熟を迎えていたという見方であり、成熟進展の指標として注目されるのが、寺子屋に代表される庶民の教育水準である。(開国と幕末変革 井上勝生著『講談社』)

このような最近の歴史学研究結果が意味するところは、江戸という時代は豊かな社会であったという事実である。

だが一方、鉄舟が生まれた天保の時代は、享保の飢饉、天明の飢饉とならぶ、江戸三大飢饉の天保飢饉(天保三年~十年・千八百三十二~三十九)の時であり、一揆が多いことで知られている。したがって、鉄舟が生まれ育った時代は、大きな社会混乱の時であった。

そのことから江戸時代は一般的に百姓を始めとして、庶民の生活は苦しかったというが通説であり、その要因が飢饉によるものであるといわれている。確かにその通りで、飢饉の発生は人々の生活状態に重大な影響を与えた。

しかし実は、飢饉という異常実態は江戸時代において通常とまではいわないまでも、飢饉の発生原因である異常気象は日常的であったという指摘があり、以下、例示しよう。(『江戸の生活と経済』 宮林義信著)
① 天正19年(1591)~寛永12年(1635)44年間多雨期
② 寛永13年(1636)~天和3年(1683) 47年間多雨期
③ 貞享1年(1684)~元禄13年(1700)16年間干ばつ期
④ 元禄14年(1701)~明和2年(1765) 64年間多雨期
⑤ 明和3年(1766)~安永3年(1774)  8年間干ばつ期
⑥ 安永4年(1775)~寛政3年(1791)  16年間多雨期
⑦ 寛政4年(1792)~文化11年(1814) 22年間干ばつ期
⑧ 文政7年(1824)~安政2年(1855)  31年間干・冷期
⑨ 安政3年(1856)~明治5年(1872)  16年間多雨期

この中で江戸時代に該当する年数を合計してみると二百五十一年間になる。何と江戸時代が二百六十八年間続いたうちの94%に該当する年度が異常気象になり、これはいかにも多すぎる。しかし、このデータが事実とすれば、飢饉のリスクは当たり前の日常的であったと推測される。

江戸時代の百姓や一般庶民が食えない貧しい生活を強いられたことを、徳川幕府の政治のあり方、苛斂誅求の政策として語られているが、事実は異常気象による飢饉によるものとしたら、徳川封建制度の見方は大きく変わってくる。

自然の気候条件によって左右されるのであるから、いったん天変地異異変が発生すれば人々飢えに苦しむことになる。鎖国時代であるから外国から輸入もできず、藩同士が弾力的に救済しあうという関係がなかったので、地区によって人々の生活は千差万別であった。

ところがここで大事な事は、このように江戸時代は全体的に寒冷かつ異常気象の下にありながら、米の生産は増加していったのである。江戸時代の初期は全国の米生産高は千八百万石であったものが、鉄舟の生れた天保期になると三千万国に増加している。

この事実を見落としてはならない。このような状況を考えれば、その背景に江戸時代は、まず一般的に平和であり、平和であったからこそ農民は米生産増に邁進し、勤勉に働けたはずである。これは飛騨高山でも同じである。

飛騨高山の人々が平和な暮らしをおくっていたことは、鉄太郎が代官の子息でありながら、何の憂いもなく書と剣と寺子屋にと文武両道に熱心に励むことができたことからもうかがえる。次号でも鉄舟の少年時代を検討し、当時の時代背景をお伝えしていく。

投稿者 Master : 2007年04月03日 05:23

コメント

コメントしてください




保存しますか?