« 2013年7月例会のご案内 | メイン | 明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の八 »

2013年08月26日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の七

最初にパリのアンヴァリッドの長州砲について訂正したい。前号でアンヴァリッドに保管されている長州砲二門、その一門が長らく所在場所不明だったので、筆者がアンヴァリットの学芸員と館内を半日かけて探し、軍関係の管理地におかれていることを確認、この大砲を「十八封度礮(ぽんどほう)嘉永七歳次甲(きのえ)寅(とら)季春 於江戸葛飾別墅鋳之(べつしょにおいてこれをいる)」、弾の重さが十八封度礮(約8.2キログラム)とお伝えした。

しかし、以下のアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(坂田誠一訳)」の記述から、長州砲を研究している大阪学院大学の郡司健教授が、大砲の弾の重さは二十四ポンドではないかという疑問を出された。

「第七砲台では、大砲が大きな車輪の砲架に乗ったまま砲座の上に装備され、旋回軸で操作されるようになっていた。砲身は青銅製で、ひじょうに長く、二十四ポンドの記号がついていたが、その実三十二ポンドの弾丸を発射していた。これらの大砲には、一八五四,年に相当する年号が記されていた。江戸で鋳造されたものであることは明らかだった」

そこで、この確認をすべく、下関市立長府博物館の田中洋一学芸員が二千十年九月アンヴァリッドに赴き、筆者が見つけた大砲を調べたところ「二四封度礮・・・」と砲身に刻まれていることを確認、アーネスト・サトウの記述通りの二十四ポンド砲であると確認されたのである。

さて、明治天皇の侍従となった鉄舟は当時、どのような状態であったか。文久三年(1863)十二月末に蟄居処分が宥免され、浅利又七郎義明と立ち合い、見事な完敗を喫し、その後もどうしても浅利に勝てなく、この壁を超えるには「心の修行しかない」と禅修行に没入邁進していた時であった。

侍従になってからの禅修行は、三島の龍択寺に参禅し、星(せい)定(じょう)*和尚についた。当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。この参禅は三年続いた。(「おれの師匠」小倉鉄樹)

この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろうが、鉄舟は実際に歩いた。鉄舟の健脚は有名であった。

星定和尚は、三年目に鉄舟に「よし」と初めて許しを与えた。ところが鉄舟は、まだ自分は不十分であると思い、和尚の「よし」に納得せず辞し、箱根に差し掛かった時、ふと山の端から出た富士山を見て、覚(おぼ)えず「はつ!」と、豁然(かつぜん)大悟した。

喜びのあまり、鉄舟は直ちに戻ったら「今日は間違えなく帰って来るだろうと待っていた」という。和尚は鉄舟が大悟のレベルに達し、それを自ら気づくことを見抜いていたのだった。

その際の心境を表したものが次の和歌であり、鉄舟はよく富士山の自画像に書いている。

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
  もとの姿はかはらざりけり

しかし、この三島通いで到達した大悟は、まだ「大道」(人のふみ行うべき正しい道・広辞苑)段階であって、仕上げとなる悟りの境地に達する大悟までには、天竜寺の滴(てき)水(すい)和尚、相国寺の独(どく)園(おん)和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚などについて修行を続け、終に滴水和尚から印可を受けたのが明治十三年(1880)三月三十日であった。

ここに鉄舟の大悟・心地の開拓が完成したのだが、侍従となったタイミングはちょうどこの大悟への過程中であった。

つまり、侍従就任時の年齢が三十七歳、大悟したのが明治十三年の四十五歳、侍従を辞したのが明治十五年(1882)の四十七歳であるから、最も精神的に鍛え上げ、心の完成期を迎えた十年間を、明治天皇のお傍近くで過ごしたことになる。

ということは、明治天皇はこの十年間の鉄舟の修行を身近で見ていたわけで、その観察プロセスの中から、何か重要な意義・価値を受けられたに違いないと容易に推察できる。

ここで侍従とはどのような職務であるのか振り返ってみたい。また、戦前の天皇に仕えていた側近はどのような配置になっていたのかも見てみたい。

明治二十二年(1889)発布の「帝国憲法」で天皇は、「国家の元首」「統治権の総攬(そうらん)者」と規定され、政務をとり、陸海軍を統帥し、側近として元老、内大臣、宮内大臣、侍従長、侍従武官長といういくつかの層が配置されていた。

主として政務にかかわったのは元老と内大臣であり、皇室いっさいの事務につき天皇を輔弼し、華族を監督、皇室令の制定などをつかさどったのは宮内大臣で、陸海軍を統帥する軍務を補佐したのが侍従武官長であり、これは日清戦争を機に設けられた。

戦後の新憲法では、宮内省は廃止され宮内庁となり内閣府に位置づけられ、元老、内大臣、宮内大臣、侍従武官長はなくなり、侍従長のみが戦前と変わらずのこっている。

侍従の制度は「大宝令」、これは四十二代文武(もんむ)天皇時代の大宝1年(701)制定の時から天皇家と共に存在し「常侍規諫(じょうじきかん)、拾遺補闋(しゅいほけつ)*」、つまり「常に天皇の側近にあって、誤りを正し、諌め、過失を補う」のが役目とされ、侍従長とは侍従を監督する長として明治四年(1871)に設けられた。

2012年5月号で紹介した、昭和天皇時代の侍従長であった入江相政著「城の中」(昭和三十四年 中央公論社)に、

「二十何年の間には、御意見と意見が合わなくて、激論になったこともある。陛下も元来非常に大きな声だし、私も決して小さいほうではない。わきで冷静にきいていたら、さだめし相当な騒音だっただろう。私はほとんど遠慮なんかしていない。ずいぶんふてぶてしいやつだとお思いになったろうし、今でもおもっていらっしゃるかもしれない。しかしそういうことがあっても、全くただその場かぎりのことで、後までひっかかりになったようなことは一度もない」

とあるように、侍従とは、常に天皇と親しく接し、遠慮なく天皇に物事を発言できる側近であって、御意見番であり相談相手であるということがわかる。

そのような職務である侍従として鉄舟が、当時二十歳代であった明治天皇の身近に仕えたということは、必然的に天皇は必死に修行している大悟前と、大悟後について、その比較を含め詳しく見つめていたであろう。

人間が大悟するということは、普通人ではなりえない境地であるから、ここで改めての解説と分析は出来ない。したがって、ここは鉄舟の身辺近く内弟子として過ごした小倉鉄樹の言葉を借りたい。

「とにかく。かうして完成せられた後の師匠(鉄舟)は、一段と立派なものになって、實に言語に絶した妙趣が備わったものだ。性来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違ふ。師匠が稽古場に出て来ると、口を利かずにだゞ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞喰へといふ勢ひだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってたゞ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしてゐると、何時まで経っても帰らない者が多い。甚だしいものになると夜中の二時三時頃までゐた。帰らないのは師匠と話をしてゐると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いゝ気持になってしまふものだから、いつか帰るのをも忘れてしまふのである」(「おれの師匠」島津書房)

この小倉鉄樹の語りは、大悟後の鉄舟という人物の豊かさ、素晴らしさを示していて、大悟するということは、具体的にこういう状態になれるものだと判断できるし、鉄舟が本来持っている能力が最大限に発揮されている様子が、正直に素直に伝わってくる。

このような姿であったのだからこそ、明治中期の女の子が路地裏で遊んだ手毬歌で

「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」

と時の民衆の間にまで沁み渡っていたわけである。

であるから、必然的に明治天皇も鉄舟から「何か」を、それは「精神的なもの」であろうが、多くの影響を受けたはずである。

また、践祚(せんそ)(皇嗣が天皇の位を承け継ぐこと)されてから十五年にかけての明治天皇の状況を振り返ってみれば、「心の修行」という精神的な分野に高い関心を持たざるを得ない環境下にあった。

では、明治天皇が「心の修行」を必要とした背景とはどのようなものであったか。それらについていくつかに分けて検討してみたい。

1. 「王政復古」の実現

我々は、明治天皇が歴代天皇と大きく異なる特異性についてしっかり理解しないといけない。それは歴代天皇が考えても見なかった「王政復古」を実現させたことである。

この「王政復古」、もし仮に孝明天皇がご存命であったならば、「倒幕と王政復古を目指す人々の前に立ちはだかり、なおも妨害し続けたなら、維新の実現は極めて難しいことになったに違いない。あるいは、その実現は不可能でさえあったかもしれなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるが、その通りであろう。

その孝明天皇は、慶応二年(1866)十二月二十五日に、断末魔の苦しみの内に三十五歳という若さで突然崩御された。

先般、三笠宮家の長男、寛仁様がご逝去された。(2012年6月6日)野田首相は「国民と飾ることなく親しく接せられる殿下に、引き続き積極的なご活動を望んでいたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは、誠に痛惜の思いに堪えません」と謹話を発表したが、新聞社によっては「亡くなられた」という言葉使いが見られた。

戦前はこういう場合には必ず薨去を用いた。「薨」という字は、皇族に限らず平安時代の「殿上人」即ち「三位」以上の位階を持っていると使えたわけで、天皇の崩御と使い分けられていて、戦前の宮廷記事で誤りを犯すと記者たちの首が飛んだものだが、さすがに野田首相は薨去を使って慎重な配慮である。

ところで、明治天皇の即位の礼が執り行われたのは、慶応四年(1868)八月二十七日である。孝明天皇が崩御されたのは慶応二年十二月二十五日であり、践祚の式は慶応三年(1867)一月九日であったから、天皇即位の礼はかなり遅れている。即位の礼という大規模儀式の前に成されなければならないことが多々あり、加えて国内情勢不安定のためだった。

その成されなければならぬ中で極めて重要なものは、いままでと国体の歴史を変える慶応三年(1867)十二月九日の「王政復古の大号令」である。

家康によって始まった徳川将軍家の系統が終りを告げ、建武中興以来五百余年ぶりに天皇親政が復活したのが「王政復古」で、これを発した日の夜、朝廷内の小御所で天皇出御のもとで開かれた会議の様子は、この当時の明治天皇を分析する上で欠かせない重要なものである。

会議は冒頭、議長格の中山忠能が「王政の基礎」を確定し、「更始一新の経綸」を施すため、公議を尽くすべしと開会を宣し、山内容堂が口火を切った。

「二三の公卿、幼(よう)沖(ちゅう)(幼い)の天子を擁して、権柄を窃取せんと欲するの意あるに非(あら)ざるか。天下の乱(らん)階(かい)(乱の起こるきざし)をつくるものなり」と非難し、徳川家を公平に扱うべきという見解を述べた。

これに対し、岩倉具視は天皇の御前における会議である。言葉を慎まれよ、と次のように容堂を叱責した。

天皇は「不世出の英材」であり、「今日の挙は悉く宸断(しんだん)(天子の裁断)に出(い)ず。妄(みだ)りに幼沖天子を擁し、権柄を窃取せんとの言を作(な)す。何ぞ其れ亡礼の甚だしきや」と応酬して、議論の流れを転換したというエピソードは有名であるが、この会議の間、明治天皇は一言も発言せず、御簾のうしろで聞いていただけであった。

この一言も発しないという意味、それをどのように理解したらよいのか。

①単にまだ十六歳という年齢を理由として考えるか
②それとも御叡慮(えいりょ)として自らの意思を伝える政治的思考力と発言技術が未だしというべきなのか
③または、成人後の治世で一貫して示された「自ら明確な指示はしないという、君主としてわきまえた態度」ということをこの時点で既に発揮したのか

多分、これらが相互重なって密接に影響していたかもしれないが、十六歳という年齢を考慮すれば③という後年に示された態度を、この時点での行動と結びつけるのは少し無理があると考える。③という段階に至って偉大な明治天皇として評価が定まってきたわけで、それには鉄舟を含めた多くの功臣達の影響によって「心の修行」が成された結果であると考えたい。

ここでひとつ面白い、ちょっと考えられないことを紹介したい。この小御所会議の結果、倒幕派の「徳川家の辞官・納地」の主張はこの会議で受け入れられたが、以降も公議政体派の巻き返しは激しく、結局「慶喜の辞官」については「前(さきの)*内大臣」という称号を許すことになり、「納地」にしても朝廷からの命令ではなく、自主的に「政府御用途」に差し出すといった形式がとられることになった。

この間において、徳川慶喜は自ら積極的な外交攻勢をかけてきた。それは、大政奉還に至る自己の正当性を説き明かす文書を朝廷に提出し、外国公使六カ国を大坂城で引見し、依然として日本の外交権の保持者であることを内外に誇示する行動であって、倒幕派はとうとう手詰まりに陥った。

これを打破したのが、西郷の指示による「江戸市中での強盗放火による撹乱」であって、これらの蛮行被害にたまらず、幕府側は薩摩藩邸へ砲撃を行い、これが誘因となって慶応四年一月三日の「鳥羽伏見の戦い」につながったわけであるが、この間にこの危機的状況を茶化すかのような珍事が出来した。

それは孝明天皇の一周忌法要の費用捻出問題である。王政復古の大号令が出され、その夜に徳川家に対する処分について激しい議論がなされた二十日後の十二月二十九日に一周忌法要が無事執り行われたが、実は朝廷にはこの費用を賄う財政力はなかった。

会計事務を司る山陵奉行戸田忠(ただ)至(ゆき)に岩倉は「内大臣徳川慶喜に頼んで都合されればよい」と戸田へ示唆した。驚いたことに慶喜の辞官を要求していたはずの当の岩倉が、慶喜のことを未だに「内大臣」と呼んでいる。

戸田は大坂城に赴き、慶喜に事情を説明し、金「若干万両」の献金を依頼した。戸田にとってはこの時ほど、ばつの悪い思いをしたことは無かったに違いない。大坂城中は、王政復古推進派に対する怒りで渦巻いている。このような時に敵方に渡す金の都合などつくはずもない。慶喜は気が進まなかった。しかし、戸田は何度も訴えるように嘆願した。

ついに慶喜は、勘定奉行に命じて金千両を献じ、残りは京都の代官に命じて幕府直轄領の貢納金から出すことを約束した。

ようやく幕府費用によって、孝明天皇の一周忌法要が滞りなく執り行われたわけであるが、これは幕府と朝廷が鳥羽伏見で火蓋を切るまさに四日前の十二月二十九日であったという際どいタイミングであった。

しかし、ここで顕れたのは慶喜の孝明天皇に対する気持ちである。多分、孝明天皇がご存命ならば、大政奉還するような立場に追い込まれず、まして王政復古や倒幕という「錦の御旗」なぞは考えられないと、慶喜は心中歯ぎしりしていたであろうし、だからこそ孝明天皇の崩御に対する悲しみと苦しみを強く慶喜は持っていたので、自らの立場が厳しく問われているにも関わらず法要費用を献じたのだと推測する。

2. 孝明天皇の思想を受け継いでいない

 孝明天皇は感情が激しく、その気持ちがありのままに顕れている書簡が多く残っている。したがって、孝明天皇の分析はそれほど難しくないと言われている。

 その書簡から明確なことは、既によく知られているように「けがれた夷狄(いてき)(外国人)を一歩でも神国日本に入らせない」という本心からの攘夷思想家であったことである。

この孝明天皇の皇子である明治天皇は、当然のことながら父孝明天皇から教育を受けている。具体的には和歌で、和歌の指導を通じて人間形成と天皇学を授かったはずで、そのことを山岡荘八の「明治天皇」は次のように述べている。

「父の帝が睦仁親王の和歌の指導だけは、おんみずからなされたが、これこそ明治大帝が、父の帝から直接授けられた最も大切な『天皇学――』の一つであったのかも知れない。

大帝もまたそれを敏(さと)*くご感受なされておわしたゆえ、東京遷都の年から『御歌始めの儀』を再興なされて、その伝統は今日に及んでいる。いや、それ以上に、大帝の御生涯に詠じられた御製の総数が、あのご繁忙なご政務の座にあって十万首にも及んでいるという超人的な事実が、何よりもこれを雄弁に語り残している。

おそらく大帝は、その一首一首を詠じられるたびごとに、父の帝を想い、訓えを想うてご反省なされたのではなかろうか・・・。

とにかく明治大帝とそのご生涯の御製と、父の帝のご影響とは切りはなして考えることの出来ない密接な関係をもっている」と。

このように大和民族伝統の詩形であり、神話の昔から人間形成の必須条件として伝承されている和歌を通じ、明治天皇は父である孝明天皇から指導を受けていたのであるから、当然のごとく「孝明天皇の強い意志である攘夷思想」を受け継いでいると思われるだろう。

しかし、これを全く受け継いでいないのである。

慶応二年末に孝明天皇が崩御されたが、翌慶応三年には未だ慶喜は将軍として大坂城にいた。この当時の外交最大課題は孝明天皇が拒否していた兵庫開港であった。

慶喜は「四海同胞一視同仁」(天下の人は兄弟のごときもの、親疎の別なく平等に仁慈を施すべし)の古訓に倣い、新しい治世の始まりにあたって国を一新しなければならない、という上書をもって兵庫開港問題について朝廷説得を何度も試みた。

この結果、さしもの朝廷も、列強の脅威を無視できず、五月二十四日、摂政二条斉敬は慶喜に書を送り、将軍及び諸侯の意見に鑑み、兵庫開港は勅許せざるを得ず、と応えた。

この間の慶喜と朝廷との交渉事に「恐らく年少の明治天皇は、これら朝廷の決断にほとんど、或いは全然関わっていなかった」(明治天皇 ドナルド・キーン著)とあるように、年齢を要因として裁断を下すことが出来なかったという指摘は、裁可をするための「心の修行」が今後必要だということを示唆している。

いずれにしても、兵庫開港勅許は「攘夷ではなく開国」であるから、明治天皇は孝明天皇の思想を受け継いでいないことになる。

次号でも明治天皇が「心の修行」を成さねばならなかったいくつかの事件についてふれて、鉄舟との関わりを検討していきたい。

投稿者 Master : 2013年08月26日 08:38

コメント

コメントしてください




保存しますか?